第十五話 何よりも大切な存在③(ステファン視点)
そして現在。
夜も更けた頃、執務室には、まだ淡い灯りが残っていた。
机の上には大量の書類が積まれている。
各地の情勢報告、貴族達の動きなどが事細かに記されている書類に目を通しながらも、ステファンの脳裏にはカエデとお茶をした際に毒を盛られた時のあの光景が、浮かんでいた。
カエデの前へ置かれた、あの茶器。
幼い頃から毒を盛られ続けてきたステファンにとって、それはあまりにも馴染み深いものだった。
毒など、もう日常だった。
食事に混ぜられることも、酒へ入れられることも、一度や二度ではない。
毒に慣れる為に致死量に満たない毒を自ら飲み、高熱にうなされた、かつての日々を思い出す。
そうして繰り返すうちに、ステファンに毒が効きにくいことは、いつしか周囲にも知られていった。
だから最近では、毒を盛られること自体減っていたし、盛られたとしても、大した動揺はなかった。
だが、今回は違った。
あの毒は、自分へ向けられた毒ではなく、カエデを狙ったものだった。
本人に真実を知らせるのはあまりにも残酷だと判断し、マリアには第二王子の残党だと伝えさせたが、本当の黒幕は、第二王子派の残党などではない。
ステファンとの婚姻を望む公爵家の一派が、彼に保護された彼女を警戒し、暗殺を企てたのだ。
もし、あの場に自分が居なくて、カエデがあの毒を口にしていたらと思うと、ぞわりと背筋が粟立った。
口に含んだのが自分だったから良かったものの、カエデならばおそらく死んでいた。あれはそれくらいの毒だった。
「……っ」
強く奥歯を噛み締める。
胸の奥から、今さらのように恐怖が押し寄せてきて、静かに目を閉じた。
本来なら、カエデはこんな場所に居るはずではなかった。
命を狙われることも、権力争いに巻き込まれることもなく、平和な世界で生きていたはずなのだ。
それなのに、自分と再会してしまった。
こんな血塗れの王宮へ、突然引きずり込まれてしまった。
(……私に関わったせいで)
それでも、彼女を王宮に留めたことは後悔していない。
自分の目の届く場所こそが、彼女にとって最も安全な場所だと信じている。
もし自分の知らないところで、彼女に何かあったらと思うだけで、息が詰まるほど怖かった。
そう考えて、胸の奥が鈍く痛んだ。
カエデは優しい。
だからきっと、自分を責めたりはしない。
怖がりながらも、この世界を知ろうとしてくれている。
だが、本当はこんな場所など、知らないままの方が幸せだったのではないかと、そんな風に思ってしまう。
そして同時に、そんな風に思いながらも、そばにいてくれて嬉しいという感情だけは、どうしても否定出来なかった。
カエデが居るだけで、心が安らぐ。
彼女の声を聞くだけで、張り詰めていたものがほどけていく。
あの華奢で柔らかな身体を抱きしめると、心が幸せで満たされて、それまでの疲れもどこかに飛んでいってしまう。
本当は帰ってほしくない。ずっとこの国に居て、自分の隣で笑っていてほしい。彼女を誰にも渡したくない。
そんな醜い独占欲が、胸の奥で静かに膨らみ続けている。
けれど、それを口にする資格が自分にあるとは思えなかった。
彼女には彼女の人生がある。
本来なら、自分など関わることのない世界で、生きていたはずの人だ。
だからせめて、彼女がこの世界に居る間だけは自分が守る。
そのためならどんな手段でも使うと、ステファンは静かに決めていた。
その時、コンコンと扉が叩かれた。
「陛下」
入ってきたのはセドリックだった。
セドリックは室内へ入ると、机へ新たな書類を置く。
「例の件ですが、公爵家側の動きは既に押さえております」
「そうか」
ステファンの声は穏やかだった。
だが、その碧の瞳には冷たい光が宿っている。
王が執着する正体不明の女を、その存在が広く知られる前に消そうとした公爵家。
あまりにも愚かな選択だ、とステファンは思った。
よりにもよってカエデへ手を出した、その時点でもう許せるはずもない。
「処分は予定通り進めますか」
セドリックの問いに、ステファンは静かに頷いた。
「ああ」
その声音はとても静かだった。けれどそこに迷いなど感じられなかった。
民を守るためにも、カエデを守るためにも、見せしめは必要だ。
セドリックはそんな主を見つめながら、ふと口を開く。
「陛下、今後は今まで以上に警戒を強める必要があるかと」
「分かっている」
ステファンは低く答えた。
「カエデの口に入るものは、必ず毒味を通させる。食器や茶葉も含めて、管理を徹底しろ」
あの細い身体に毒が回る光景など、想像するだけで気が狂いそうだった。
セドリックは静かに一礼する。
「承知いたしました」
そして、少しだけ言葉を選ぶように視線を伏せた後、低く続けた。
「……陛下は、これまでカエデ様の存在を外へ広めぬよう配慮されておりましたが」
「ああ」
これまで、カエデを王宮の奥に留め、必要以上に人目へ晒さないようにしていた。
余計な敵意や政治利用から遠ざけるためだ。
ステファンはふと、静かに目を細めた。
「……やはり長くは、もたなかったな」
隠していても、結局こうして狙われた。
ならばいっそ、中途半端に隠すより、はっきり示した方がいいのかもしれない。
彼女はアストレア王国の新たな国王、ステファン・アストレアの庇護下にある人間であり、手を出すことなど決して許さないということを、分かりやすく知らしめるくらいの方が、よほど牽制になるのではないか。
その考えに至った瞬間、自分の中の独占欲の強さを改めて自覚して、ステファンは小さく苦笑した。
本当に、自分はどうしようもない。
自分の生きる世界が彼女にとって、いかに過酷なものかを痛いほど分かっていながら、こんなにも彼女を手放したくないと思っている。
セドリックはそんな主の様子を見つめていたが、それ以上何も言わなかった。
「失礼いたします」
短く一礼すると、静かに執務室を後にした。
長い沈黙の後、ステファンは静かに椅子へ背を預け、ぽつりと呟く。
「……帰りたいなら、帰してあげたいと思っている」
その声は、とても静かだった。
「けれど」
そこで言葉が止まる。
碧色の瞳が静かに伏せられる。
「本当は、帰ってほしくなんてないんだ」
静まり返った部屋に、弱々しい声だけが溶けていく。
王子としてではない、一人の男として零れ落ちた本音の言葉。
それは、かつて、鏡の前で時間を共に過ごした愛しい彼女以外には、誰にも見せたことのないような、弱く頼りない声だった。




