第十三話 何よりも大切な存在①(ステファン視点)
ステファン・アストレアがその女性に出会ったのは、八歳の時だった。
半ば押し込められるように暮らしている王宮の奥の部屋で、ステファンは孤独に耐えきれず、声を殺して泣いていた。
ほとんど誰も近付かないその場所は、幼い彼に与えられた唯一の居場所だった。
その時、部屋の隅に置かれていた古い姿見の中に、突然見知らぬ女性の姿が映った。
大人びた、優しげな雰囲気を纏う彼女の姿を見た時、ステファンは本気で女神が現れたのだと思った。
真っ直ぐに伸びた艶やかな黒髪、透き通るように白い肌、小さく形の良い鼻に、優しげな桃色の唇。そして、吸い込まれるように澄んだ黒い瞳。
その姿が、この国では誰もが知る御伽話の、『黒い髪の女神とさみしい王子』に登場する女神そのものだったからだ。
その御伽話は童話絵本にもなっていて、ステファンはその絵本を何度も読み返していた。
数ある童話の登場人物の中で、不思議とその女神にだけ強く心が惹かれた。
そんな存在が、今まさに目の前にいる。
そのことに、ステファンは大きな衝撃を受けた。
この時のステファンは、誰からも必要とされていないと思っていた。
女官でありながらその美貌ゆえに王の目に留まり、ステファンを身籠った母は既に亡くなっており、当然、後ろ盾など何もなかった。
第一王子派と第二王子派が激しく争う王宮の中で、第三王子であるステファンは、どちらにとっても邪魔な存在だった。
そのため人は、彼を遠ざけた。
露骨に嫌悪を向ける者や、それを見て見ぬふりをする者、値踏みするような目を向ける者。
そういった人間ばかりに囲まれて育つうちに、自分はいらない存在なのだと、幼いながらに理解してしまっていた。
そんなステファンに、彼女はきっぱりと言った。
『そんなの、絶対に間違ってる』
その時のことを、ステファンは今でも忘れられない。
『ステファンが居てくれて、私はこんなにも嬉しいもの』
優しくて、温かくて、胸の奥の凍りついていた場所へ、そっと灯がともるような感覚だった。
彼女は名前を、カエデといった。
彼女は、自分の知らない世界の話を沢山してくれた。
カエデが住む国では、誰もか“ガッコウ”という場所に通うことが出来るらしい。
国民は誰であってもその身分に関係なく、文字を読み、計算を学び、自分の未来を選べるという。
夢物語みたいだと思った。
けれど同時に、そんな彼女が生きる世界に、ステファンは強く憧れた。
もっと民が安心して暮らせる国を作れたなら。
誰も理不尽に踏みにじられない世界に出来たなら。
幼い日のステファンの中に、理想の王という輪郭を与えたのは、間違いなく楓だった。
そして、彼女が語る未来の話に心を動かされるたびにステファンの胸を満たしていた感情は、それだけではなかった。
その世界を知りたいと思った。
彼女の話をもっと聞きたいと思った。
彼女が見ているものを、自分も見てみたいと思った。
なぜそこまで惹かれるのだろうと考えた時、自分が彼女の語る世界そのものに心を奪われていたわけではないことに気がついた。
もちろん彼女の生きる国が理想的であることは間違いない。
けれど彼女の世界が好きなのではなく、彼女が生きる世界だから、とても尊いものに思えるのだと分かった。
そして、それと同時にその理由にも思い至る。
それは彼女への深い想いだった。
カエデが笑うと嬉しくて、声を聞けるだけで心が満たされる。
もっと彼女と話したい。もっと彼女と一緒に居たい。
いつのまにか、ステファンにとって、彼女は唯一無二の大切な存在になっていた。
だが、そんな幸せな時間は唐突に終わった。
ある日を境に、鏡は彼女の姿を映さなくなった。
何日待っても、鏡は沈黙したまま、呼びかけても返事はない。
最初はまた会えると思っていた。
けれど一ヶ月経っても、半年経っても、彼女は現れなかった。
それでも、忘れられるはずなかった。
会えない日々は途方もなく寂しかったが、それでもずっと、彼女がステファンの心の支えだった。
妃の取り巻きたちから蔑みの視線を浴びせられた時も、食事に初めて毒を盛られた時も、兄王子達の争いに巻き込まれ命を狙われた時も、どんな時だって思い出すのはカエデの声と、優しい笑顔だった。
ーーなんとかなる、って思うの。そして口に出すの。そうしたら、不思議となんとかなるものよ。
ーー絶対に、誰が何と言おうとも、あなたは必要な存在よ。私を信じて。
ーーあなたが邪魔なわけないわ。ステファンが居てくれて、私はこんなにも嬉しいもの。
あの時彼女がくれた、たくさんの言葉にどれほど救われたか分からない。
その言葉があったから、ステファンは生き残ることができたと言っても過言ではない。
けれど、優しいだけではこの王宮では生きていけないことを、ステファンは嫌というほどに理解していた。
だから彼は、強くなった。
時には相手を欺き、利用し、切り捨てることも覚えた。
第一王子派と第二王子派の激しい争いは、王宮の中だけに留まらなかった。
王子同士が殺し合ってどちらも命を落とした後も、その火種が消えることはなかった。
争いは地方貴族達にまで広がり、各地で権力争いや衝突が相次いだ。
その頃には、治安はすでに荒れきっていた。
民もまた、終わりの見えない混乱に疲弊していた。
そして、そんな最中に、ステファンへ王位が巡ってきた。
ステファンは、民を守るためなら非情であることを選んだ。
必要なら笑顔のまま罠を張り、民を苦しめる貴族達を潰すことすら躊躇わなかった。
腐敗した今の情勢を立て直すには、それが必要だったからだ。
そうしてステファンは、民の上に立つに相応しい王になるべく、それからの日々を過ごした。
セドリックですら時折息を呑むほど、冷酷な判断を下すこともある。
だが、迷いはなかった。
迷っていては、民を守ることなど出来る訳がないと分かっていた。
けれどどれほど時が過ぎても、常に心の中で彼を支えてくれていたものは、八歳のあの時に出会った、カエデの言葉だった。
*
そんな風に激動の中を生き抜いて、彼が二十歳になったある日のこと。
王宮の謁見の間で、騎士達と側近が控え、各地の情勢について会議を進めていた最中、突然、頭の中に声が響いた。
『ステファン……!』
その瞬間、心臓が止まるかと思った。
それは、ステファンがずっと恋焦がれ、会いたいと願っていた、最愛の人の声だった。
信じられず顔を上げた次の瞬間、空間が歪んだ。
突如として眩しい光が生まれ、その中からカエデが現れた。
ステファンははっと息を呑んだ。
艶やかな黒髪も、透き通るような白い肌も、真っ直ぐな黒目がちな瞳も、あの頃と何も変わっていない。
記憶の中の彼女が、そのまま目の前に現れた。
その姿を見た瞬間、一気に全身が熱を持った。
彼女の元に駆け寄って、抱きしめずにはいられなかった。
「カエデ……会いたかった」
言葉にした途端、胸の奥が痛いほど熱くなる。
腕の中のカエデの存在を確かめるように、ステファンはそっと抱きしめる腕に力を込めた。




