第十ニ話 夜の語らい
その日の夜。
部屋の扉をノックする音がして、ドアを開けると、そこにはステファンの姿があった。
「こんばんは。カエデ、今、少しいいかな?」
「ステファン……!うん、もちろん。どうぞ入って」
これまで何度もお互いの部屋を行き来したことはあったが、ステファンが夜に訪ねて来るのはこれが初めてのことだった。
不意に現れたその姿に、驚きと、嬉しさや気恥ずかしさが入り混じったような、むず痒い感情が胸に広がる。
けれど同時に、どこか疲れを帯びたその表情が目に入って、楓はすぐに心配でいっぱいになった。
楓は慌ててステファンを部屋の中へ招き入れた。
ソファへと案内し、お茶を入れて渡す。
ステファンは深く腰掛けながらお茶を受け取って、小さく息を吐いた。
「お疲れ様」
「ありがとう」
そう言って微笑む顔には、やはり少し疲労が滲んでいた。
心配になって隣へ腰を下ろすと、ステファンがじっと楓を見つめ返してきた。
「思ったより元気そうで安心した」
ほっとしたように、ステファンが言う。
「え?」
「昨日、あんなことがあったばかりだから……」
気遣わしげにそう言ってくれるステファンに、胸がじんわりと温かくなる。
「私は大丈夫よ。だってステファンが居てくれるもの。……それより、ステファンの方がずっと心配。今日だって、朝から昨日のことで動いてたって聞いたよ」
「うん。心配してくれて、ありがとう」
嬉しそうに微笑む姿を見ていると、自分に何か出来ることはないだろうかと思った。
「ねえステファン。私に何か、出来ることはない?」
そう尋ねると、ステファンは驚いたように目を見開き、それからどこか迷うように碧の瞳を揺らした。
そして、少し眉を下げつつ口を開いた。
「じゃあ……カエデのこと、抱きしめてもいい?」
突然のその問いかけに、楓の心臓がどくりと跳ねた。
これまで何度か、彼に抱きしめられたことはあったが、抱きしめてもいいかと聞かれたのは、これが初めてのことだった。
楓はそのことに緊張しつつ、小さく頷いた。
「うん、いいよ」
その返事に、ステファンの表情が僅かに和らいだ。
次の瞬間、そっと身体を引き寄せられる。
壊れ物に触れるみたいに、丁寧で、とても優しい抱擁だった。
その時、彼の指先が少し震えていることに気づき、楓は胸が苦しくなった。
「……っ」
楓は突き動かされるように彼の背へ腕を回すと、そっと抱きしめ返した。
僅かにステファンの身体が止まった気がした。
けれどすぐに、まるで何かを確かめるように、抱きしめる力がほんの少しだけ強くなった。
楓は知らなかった。
この時ステファンが、彼女を抱きしめながら、胸の奥に溢れる想いを必死に押し殺していたことを。
*
ステファンは、その思いを決して口にすることは無かった。
(何よりも愛しい、私のカエデ。ずっとそばにいて欲しい)
(本当は元の世界になんか帰ってほしくない。
けれど君は、元の世界に帰りたいと願ってるから……だから、こんな思いは言えるはずなんてない)
(だけど、本心では……君を、他の誰にも、何にも、奪われたくないんだ……)
そんな想いが胸の奥で爆発しそうなほど強く膨らんでいても、ステファンはそれを押し殺していた。
それは彼女を縛り付けることになると分かっていたからだ。
ただ、せめて今一緒にいられるこの時だけはと、静かに彼女を抱きしめていた。




