第十一話 気持ちを自覚して
翌朝。
柔らかな陽光がカーテンの隙間から差し込み、部屋の中を淡く照らしていた。
楓はゆっくりと目を開ける。
昨夜はなかなか寝付けないかと思っていた。
けれど、不思議と身体はちゃんと休めていたらしい。
彼を好きだと、自覚してしまった。
その事実はまだ胸を落ち着かなくさせるけれど、同時に、どこか腑に落ちた感覚もあった。
ステファンを見る度に胸が苦しくなった理由も、彼の笑顔に安心していた理由も、失いたくないと強く思ってしまった理由も、ただ、彼を好きになっていたからだった。
そう思うと、胸のあたりがきゅぅっとして、嬉しいような恥ずかしいような、なんとも言えない気持ちが湧いてくる。
恋とは不思議だ。気付いたその瞬間から、世界が今までよりも輝いて見える。
その時ふと、本棚の端に、他の本より少し古びた革表紙の書物があるのが目に入った。
何気なく手に取ってそれを読んでいた時、コンコン、と扉がノックされた。
「カエデ様、失礼いたします」
入ってきたのはマリアだった。
いつものように柔らかな笑みを浮かべている。
「おはよう、マリア」
「おはようございます、カエデ様」
マリアは手際良く身支度を手伝いながら、少しだけ気遣わしげに楓を見た。
「昨日は……よく眠れましたか?」
その問いに、楓は一瞬だけ目を瞬かせる。
きっと昨日の件を心配してくれているのだろう。
楓は小さく微笑んだ。
「うん、眠れたよ」
完全に気持ちが整理出来たわけではない。
それでも、もう大丈夫だと思った。
するとマリアは、ほっとしたように表情を和らげた。
「それなら良かったです」
鏡台の前に腰を下ろした楓は、マリアを鏡越しに見つめた。
昨日、マリアは処刑のことを隠さず話してくれた。
きっと言いにくかったはずだ。
それでも、誤魔化さず話してくれたことを、楓は嬉しく思った。
そしてゆっくりと口を開く。
「……昨日、ありがとう」
マリアがきょとんと目を瞬かせる。
「え?」
「話しにくいことだったと思うのに、ちゃんと教えてくれて」
マリアは少し驚いたような顔をした。
楓は続ける。
「私、最初はすごく驚いた。でも……ちゃんと知れて良かったと思ってる」
この世界がどういう場所なのか。ステファンがどんな覚悟を背負って生きているのか。
知らなければ、きっと今の気持ちには辿り着けなかった。
楓は柔らかく笑った。
「私も、ステファンはとても素晴らしい王になると思うわ」
その瞬間、マリアの瞳が嬉しそうに細められた。
「……はい」
本当に心から嬉しそうな声だった。
「私も、そう思っております」
マリアはそっと楓の髪を整えながら、優しく続ける。
「陛下は昔から、とてもお優しい方でした」
その声音には深い敬愛が滲んでいた。
「だからこそ、多くのものを抱え込みすぎてしまわれるのです」
弱音を吐かず、全部一人で背負おうとする彼の姿を思い浮かべて、楓の胸が少し痛む。
するとマリアがふわりと微笑んだ。
「カエデ様」
「なに?」
「どうか、これからも陛下のお側にいてくださいませ」
楓は目を見開く。
マリアは穏やかな笑みのまま続けた。
「それが何より、陛下の支えになりますから」
その言葉に、胸がぎゅっと締め付けられる。
楓だって、本当はそうしたい。ずっと側にいて彼を支えたいと思う。
けれど本来、自分はこの王宮に滞在させてもらっていることすらそぐわない、異端な存在だ。
その現実に、胸が静かに痛んだ。
楓はその事を寂しく思いながら、小さく微笑み返した。
「……うん」
それ以上は、上手く言葉に出来なかった。
鏡の前に座る楓の髪を、マリアが最後にそっと整えた。
「はい、出来ました」
鏡越しに微笑まれ、楓も小さく笑い返す。
「ありがとう、マリア」
「どういたしまして」
マリアは嬉しそうに目を細めた後、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、今日の朝食ですが……」
「ん?」
「陛下は、既にお済ませになっております」
その言葉に、楓は少し目を瞬かせた。
「え、もう?」
「はい。今日は朝から、昨日の件で色々と動かれているようで……」
昨日の件というその言葉に、楓の胸が僅かに重くなる。
毒を盛った使用人の男。その後に行われた尋問。そして、この後には処刑の執行まで控えている。
昨夜、自分はあの現実を知った。
ステファンが生きている世界が、どれほど過酷で、危うい場所なのかも。
マリアは続ける。
「かなり早い時間から執務室へ向かわれました。恐らく、関係者への調査や処分の判断などが続いているのだと思います」
「……そっか」
小さく呟きながら、楓は胸の奥がじわりと痛むのを感じた。
昨日も遅くまで動いていたはずなのに。
きっと今日も、休む暇なんてほとんど無いのだろう。
それなのに、昨日ステファンは、楓を優しく抱きしめながら、「ごめんね」と言った。
本当は一番大変なのは彼の方なのに。
(……少しでも、早く片付けばいいな)
そう願わずにはいられなかった。
マリアはそんな楓を見つめ、柔らかく微笑む。
「陛下でしたら大丈夫ですよ」
「……うん」
楓は小さく頷いた。
ステファンは強い人だ。
大丈夫だと信じている。
けれど同時に、その強さの裏で、どれだけ無理をしているのかを思うと、胸が締め付けられる。
支度を終えた楓は、マリアと共に部屋を出た。
王宮の朝は早い。
長い廊下には既に多くの使用人達が行き交い、騎士達の姿も見える。
磨き上げられた窓から差し込む朝日が床へ反射し、静かな煌めきを作っていた。
すれ違う人々は、楓を見ると丁寧に頭を下げる。
けれどその中には、やはり好奇の視線も混ざっていた。
以前の楓なら、そうした視線を気にしないようにしようと思いつつも、やはりどこかで怯えているところがあった。
けれど、好きだと気付いた今は、不思議と気持ちに変化があった。
ステファンは、もっと重いものを背負っている。
それでも前を向いて、この国を守ろうとしている。
だから、自分も俯いてはいられないと思った。
胸の奥で、そっと息を吐く。
ステファンの側にいても、恥ずかしくない自分でありたいと、そう強く思った。
そんなことを考えているうちに、二人は食堂へ辿り着いた。
広い室内には朝の静かな空気が流れている。
長いテーブルには既に楓の分の食事が並べられていたが、彼がいつも座っている場所は空席のままだった。
いつもそこに居るはずの金色の髪の青年が居ないだけで、妙に広く感じる。
楓はそっとその席を見つめた。
勝手に脳裏に浮かんでくるのは、昨日のぬくもりだった。
優しく抱きしめられた腕、耳元へ落ちた穏やかな声、そして涙を拭うように優しく触れた唇。
思い出すと頬が熱くなってきて、楓は慌てて視線を逸らした。
(……思い出すと、ちょっと恥ずかしいな……だけど……嬉しい……)
好きだと自覚してしまった今では、一つ一つが前よりずっと特別に感じてしまう。
そのぬくもりを思い出すと、胸の奥から熱が広がると同時に、不思議と安心もする。
ステファンは、ちゃんとここに居る。
もう、鏡越しではない。
手を伸ばせば触れられる場所に居て、自分の名前を呼んでくれる。
その事実が、楓の胸をじんわりと温めていた。




