早く来たのに。
最近、ゲームが面白い。
いや、元々面白かったんだけど。
あの一万二千八百円の年間パス。
自動更新されたことをすっかり忘れていて、気づいたときには一年分の料金が引き落とされていた。
せっかく払ったんだから、少しは遊ばないともったいない。
最初はそんな気持ちで復帰した。
……だったんだけど。
「……いやあ、面白いなあ」
やっぱり面白い。
以前は毎日のようにログインしていた。
同じダンジョンを周回して、装備を集めて、キャラクターを強くして。
楽しかったはずなのに、いつの間にか少し飽きていたんだと思う。
それが、久しぶりに遊んでみると妙に新鮮だった。
しかも。
「……あれ?」
なんだろう。
俺、前よりうまくなってないか?
敵の動きが、前よりよく見える。
攻撃を避けるタイミングも分かる。
周りのプレイヤーが何をしているかも、以前より把握できるようになった気がする。
「……おお」
前だったら絶対に食らっていた攻撃を、普通に避けられた。
「……すげえ!」
俺、こんなにうまかったっけ?
一度ゲームから離れたことで、視野が広くなったんだろうか。
……いや、そんなことあるのか?
分からん。
でも、実際にうまくなった気がするんだから、悪いことじゃない。
「……ふふ」
やっぱり俺、結構いけるな。
それに、最近はフレンドも増えた。
これがまた不思議なんだよなあ。
以前は、フレンドなんてほとんどいなかった。
ダンジョンに行くときも、知らない人たちとその場限りのパーティーを組むだけ。
終わったら解散。
また次の日、別の知らない人たちと組む。
ずっとそんな感じだった。
それなのに。
『今日も一緒に行きませんか?』
「……おっ!」
画面にメッセージが表示された。
最近よく一緒に遊んでいるプレイヤーからだ。
この前、たまたま野良のパーティーで一緒になった人だった。
そのときは普通にダンジョンをクリアして、いつもどおり解散するつもりだったんだけど。
『また一緒に行きませんか?』
そう誘われた。
もちろん、断る理由なんてない。
それから何度か一緒に遊んでいるうちに、ほかのメンバーとも仲良くなっていた。
固定パーティーというほどではないけど、最近は大体同じ顔ぶれで遊んでいる。
……顔は知らないけど。
「……ふふ」
なんか、いいなあ。
こういうの。
現実では会ったこともない。
年齢だって知らない。
でも、ゲームの中では普通に話せる。
失敗したら笑い合うし、いい装備が出たら一緒に喜ぶ。
復帰したプレイヤーに優しい世界なんだろうか。
それとも、俺がうまくなったから誘われているのか?
「…………」
まあ、どっちでもいいか。
楽しいし。
俺はメッセージを返した。
『よろしくお願いします!』
すると、すぐに返信が来た。
『今日はみんなでダンジョンマラソンやります!』
「……おおお!」
ダンジョンマラソン!
いいじゃないか!
最近追加された高難度ダンジョンを、みんなで何度も周回するイベントだ。
まだ欲しい装備もあるし、ちょうど参加したかったんだよな。
「……よし!」
今日は頑張るぞ!
……。
…………。
「あっ」
そうだ。
今日、バイトだった。
「…………」
……。
「あー……」
俺は時計を見た。
もうすぐ出勤の準備をしなければならない。
「……くそっ」
今日に限って。
これから面白くなるところなのに。
ちょうどみんなが集まってきたところなのに。
俺だけバイトかよ。
しかも夜勤。
みんなが一番遊んでいる時間に、俺はコンビニでレジを打っている。
「……うーん」
何とかならんかなあ。
……。
いや、ならんか。
バイトだもんな。
行かなきゃいけない。
「……あー、めんどくせえ」
最近、本当にこればっかり考えている。
仕事自体は別に嫌いじゃない。
もう大体のことはできるようになった。
森田店長は優しい。
柴田さんとも普通に話している。
あの漫画の件は、まあ、ちょっと気になるけど。
結局、店長もお客さんに見られないようにと言ってくれたわけだし。
仕事が終わっていれば、少しくらい漫画だって読める。
廃棄のお弁当ももらえる。
時給だって悪くない。
「……いいバイトなんだよなあ」
本当に。
いいバイトなんだけど。
「……めんどくせえなあ」
なんでだろう。
最近、コンビニまで行くのが面倒で仕方ない。
家からあんなに近いのに。
歩いてすぐなのに。
最初は、近くて最高だと思っていた。
今は、その短い距離がやたら遠く感じる。
「……はぁ」
俺は椅子の背もたれに体を預けた。
「……もう辞めちゃおうかなあ」
また、そんなことを考えてしまった。
別に誰かに嫌なことをされたわけじゃない。
仕事で困っているわけでもない。
ただ、面倒なんだ。
毎回、決まった時間に家を出るのが。
好きなことを途中でやめなきゃいけないのが。
……。
…………。
「……いや、待てよ」
そうだ。
もう少しで初給料じゃないか。
まだ一度も給料をもらっていないんだぞ。
せっかくここまで働いたんだから、まずは初給料を受け取ってみよう。
口座にまとまったお金が入ったら、また気持ちも変わるかもしれない。
「……そうだな」
あと少し頑張ろう。
まずは初給料。
辞めるかどうかは、そのあと考えればいい。
それに、俺には百万円を貯めるという目標があるんだ。
「……よし!」
俺はゲームの画面に戻った。
『すみません! 今日バイトなので参加できません!』
メッセージを送る。
『了解です! また今度!』
「……うん」
仕方ない。
次の休みに参加すればいい。
……。
…………。
「……あー、でもやりたかったなあ」
俺はゲームを終了した。
*
まだ出勤まで一時間以上あった。
「……うーん」
どうしようかな。
今から別のゲームをしても、中途半端になるし。
動画でも見るか?
いや、見始めたら余計に動きたくなくなるな。
「…………」
……。
「……もう行くか」
そうだ。
どうせ行かなきゃいけないんだから、早く行ってしまえばいい。
店に着いてしまえば、気持ちも切り替わるだろう。
それに、早く行って掃除でも始めれば、あとが楽になるかもしれない。
「……よし!」
俺は立ち上がった。
こういうときは、考える前に動くに限る。
服を着替え、靴を履いた。
そして、家を出た。
コンビニまでの道を歩く。
「……ふぅ」
やっぱり外に出てしまえば、どうってことないな。
さっきまであんなに面倒だったのに。
もう少しで初給料だし。
頑張ろう。
「……うん」
今日は一時間も早く来たんだ。
その分、気合いを入れて働こう。
自動ドアが開いた。
ピロリロリーン。
「お疲れさまでーす!」
「あれ?」
レジにいた森田店長が顔を上げた。
「おお、どうしたの? 今日は早いねえ!」
「あはは! 早く来ちゃいました!」
「まだ一時間くらいあるんじゃない?」
「そうなんですよ!」
俺は笑った。
「でも、来ちゃったので、もう働きますね!」
「えっ、いいの?」
「大丈夫です! 掃除とかやっておきます!」
「でも、まだ時間前だからねえ」
「あ、バイト代は別にいいですよ!」
「いやいや、それはダメだよ」
店長は笑いながら首を振った。
「働いてもらうなら、ちゃんと時間つけるよ」
「えっ、そうですか?」
「うん。せっかく早く来てくれたし、じゃあお願いしようかな」
「はい!」
「無理しなくてもいいからね」
「大丈夫です!」
なんだか、今日の俺はやる気がある。
家にいたときは、あんなに面倒だったのに。
不思議なもんだなあ。
「じゃあ、着替えてきます!」
「うん、お願いね」
俺はバックヤードへ向かった。
制服に着替える。
いつものメモ帳をポケットに入れる。
「……よし!」
さて。
何からやろうか。
……掃除だな。
掃除を先に終わらせておけば、あとが楽だ。
俺は掃除用具のある場所へ向かった。
大きな床掃除用の機械。
初日の頃は、これを動かすだけでも大変だった。
重たいし、音もするし、扱い方もよく分からなかった。
でも、今は違う。
「……ふふ」
もう慣れたもんだ。
俺は機械を引き出した。
コードを確認する。
コンセントの位置も覚えている。
以前なら一つひとつ柴田さんに聞いていたけど、今は全部一人でできる。
「……よいしょ」
機械を所定の位置まで運ぶ。
今日はまだ少しお客さんがいるな。
邪魔にならないようにしないと。
俺はコードを持って、コンセントのほうへ体を向けた。
そのときだった。
ドンッ。
「痛っ!」
「……えっ!?」
何かが肩に当たった。
いや。
俺の肩が、誰かに当たった。
振り向くと、男性のお客さんが立っていた。
「なんだよ、お前!」
「す、すいません!」
俺は慌てて頭を下げた。
「すいません! 掃除をしようとして……!」
「はあ!?」
お客さんの声が大きくなった。
「何ぶつかってきてんだよ!」
「あっ、すいません! 本当にすいません!」
「周り見ろよ!」
「はい! すいません!」
「危ねえだろうが!」
「……すいません!!」
まずい。
まずいまずい。
俺、ぶつかっちゃった。
お客さんに。
「……ったく」
お客さんは舌打ちした。
「気をつけろよ、バカが!」
「……はい! すいませんでした!」
お客さんは不機嫌そうに、その場を離れていった。
「…………」
……。
「……ふぅぅ」
俺は大きく息を吐いた。
びっくりしたあ。
めちゃくちゃ怒ってたな。
……。
まあ、そりゃ怒るか。
ぶつかったのは俺だし。
周りをちゃんと見てなかった。
「……ああ、くそっ」
なんでこんなことになったんだ。
早く来て、掃除しようとしただけなのに。
「……大丈夫?」
「……うわっ!」
後ろから声がした。
森田店長だった。
「何かあった?」
「……あ、いえ!」
俺は慌てて首を振った。
「大丈夫です! 何でもありません!」
「そう?」
「はい!」
店長は俺の顔を見た。
「……大丈夫そう?」
「はい! 大丈夫です!」
「分かった。じゃあ、あとはよろしくね」
「はい!」
店長はレジへ戻っていった。
「…………」
……。
…………。
「……ふぅぅ」
よかった。
……いや。
何がよかったんだ?
別に、よくないだろ。
お客さんにぶつかったんだから。
……。
まあ、ちゃんと謝ったし。
もう済んだことだ。
「……うん」
そうだ。
終わったんだ。
俺は額を拭った。
「……あっつ」
なんか、暑い。
店内は涼しいはずなのに。
汗が出ている。
心臓もまだドキドキしている。
「……ふぅ」
一回、冷蔵庫に行こうかな。
飲み物を補充する、あの大きな冷蔵庫。
あそこ、涼しいんだよな。
ちょっと入って、落ち着こう。
……。
…………。
いや、ダメだ。
掃除機を出したままだ。
コードもあるし、こんなところに置いていけない。
「……くそっ」
とりあえず片づけないと。
俺は機械を動かした。
さっきまで簡単に扱えていたはずなのに、何だか妙に重たい。
コードをまとめる手もうまく動かない。
「……あー、もう」
汗が気になる。
背中も暑い。
顔も熱い。
早く冷蔵庫に入りたい。
でも、掃除機を片づけないと。
「……よいしょ」
ようやく機械を戻した。
「……ふぅぅ」
よし。
これで少し涼める。
そう思ったときだった。
「だからさあ!」
大きな声が聞こえた。
「…………」
……ん?
レジのほうだ。
誰かが怒鳴っている。
「……え?」
俺はそちらを見た。
「…………」
……。
「あっ」
さっきのお客さんだ。
森田店長と話している。
……いや。
話しているというより、怒っている。
「さっきのバイトがよお!」
「……えっ」
「いきなりぶつかってきてな!」
「……あ」
まずい。
「どういう教育してんだよ!」
「……うわあ」
俺はその場で固まった。
お客さんの声が店内に響いている。
店長が何か答えている。
でも、よく聞こえない。
「…………」
……。
行かなきゃ。
俺のことだ。
俺がぶつかったんだから。
「……ああ、くそっ」
俺は急いでレジへ向かった。
「す、すいません!」
二人がこちらを向いた。
「さっきは本当にすいませんでした!」
俺は頭を下げた。
「ああ!? お前か!」
「はい! すいません!」
「危ねえだろうが!」
「はい! 本当にすいません!」
森田店長が俺を見た。
「……あれ? さっき、ぶつかったの?」
「……あ、はい」
「そうだったの?」
「……はい」
「さっき、大丈夫って言ってたよね?」
「…………」
……。
…………。
「あ、えっと……」
そうだ。
さっき、何でもありませんって言ったんだった。
……。
なんで、あんなこと言っちゃったんだろう。
「……あの、掃除をしようとして……」
「うん」
「それで、あの、コンセントを……」
「うん」
「……そのときに、あの……」
……。
…………。
「あの……」
言葉が出てこない。
何を説明すればいいんだっけ。
いや、分かっている。
掃除機を動かそうとして、お客さんにぶつかった。
それだけだ。
それを言えばいい。
「……あの、掃除を……」
……。
…………。
ダメだ。
頭が真っ白だ。
何を言っているのか、自分でも分からない。
汗が止まらない。
さっきよりも、もっと出ている気がする。
額から汗が流れてくる。
首も。
背中も。
顔なんて、もう真っ赤なんじゃないだろうか。
「……すいません」
とりあえず謝った。
「本当にすいません……」
俺は何度も頭を下げた。
森田店長は落ち着いた声で、お客さんに謝っていた。
「こちらの不注意で申し訳ありません」
「ったく、気をつけてくれよ!」
「はい。お怪我はありませんでしたか?」
「怪我はねえよ! でも危ねえだろ!」
「申し訳ありません。今後は十分気をつけます」
「ちゃんと教育しとけよ!」
「はい。申し訳ありませんでした」
そんなやり取りが続いた。
俺も何度か謝った気がする。
でも、あまり覚えていない。
お客さんが何を言ったのか。
店長が何と答えたのか。
最後にどういう話になったのか。
……。
気がつくと、お客さんはいなくなっていた。
「…………」
……。
…………。
「……ふぅぅぅ」
俺はその場で息を吐いた。
終わった。
……のか?
「…………」
もう、汗がすごい。
本当にすごい。
シャワーを浴びたあとみたいだ。
いや、シャワーを浴びたあとよりひどいかもしれない。
こんなに汗をかくこと、最近あったかな。
「……ああ……」
早く拭きたい。
顔を洗いたい。
シャワーを浴びたい。
……。
…………。
家に帰りたい。
「……ちょっと、いいかな」
森田店長が声をかけてきた。
「……あ、はい」
「バックヤードで少し話そうか」
「……はい」
俺は店長のあとについていった。
*
バックヤードに入ると、店長は椅子を勧めてくれた。
「まあ、座って」
「……はい」
俺は椅子に腰を下ろした。
「大丈夫?」
「……はい」
「びっくりしたね」
「……はい」
店長は、いつもと同じ穏やかな声だった。
怒っている様子はない。
「何があったか、もう一度教えてもらっていい?」
「……あ、はい」
俺は説明した。
掃除をしようとしていたこと。
コンセントを差そうとしたこと。
そのとき、通りかかったお客さんにぶつかってしまったこと。
今度は何とか、最後まで説明できた。
「……なるほどね」
店長はうなずいた。
「じゃあ、わざとじゃないんだね」
「はい! もちろんです!」
「うん。それは分かってるよ」
「……はい」
「ただ、お客さんがいるときは、周りをよく見ないとね」
「……はい」
「大きな機械だから、特に気をつけないと」
「……はい。すいません」
「うん」
店長は少し間を置いた。
「それとね」
「……はい」
「何かあったら、ちゃんと言ってほしいんだ」
「…………」
「さっき、大丈夫って言ってたでしょ?」
「……はい」
「でも、実際にはお客さんにぶつかってたんだよね」
「……はい」
「そういうときは、すぐに呼んでくれていいから」
「……はい」
「まだ新人なんだし、失敗することだってあるよ」
「…………」
「誰だって最初から全部できるわけじゃないからね」
「……はい」
「大丈夫。みんな通ってきた道だから」
「……ありがとうございます」
俺は頭を下げた。
優しいなあ。
本当に、いい店長だ。
俺がちゃんと報告しなかったことだって、怒らずに話してくれている。
……。
…………。
でも。
「…………」
……暑い。
めちゃくちゃ暑い。
汗が止まらない。
俺は手の甲で額を拭った。
制服の中まで汗でびっしょりだ。
気持ち悪い。
何でこんなに汗が出るんだろう。
もうお客さんは帰ったのに。
店長だって怒っていないのに。
「…………」
……。
このまま仕事を続けるのか?
あと何時間も?
「…………」
いや、仕事はできる。
できるとは思う。
でも、この汗だくの状態でレジに立つのか?
さっきのお客さん、また来るかもしれないし。
いや、来ないか。
……来る可能性はあるよな。
「…………」
ああ。
シャワー浴びたい。
着替えたい。
家に帰りたい。
「……どうした?」
店長が俺の顔をのぞき込んだ。
「顔色、あんまりよくないね」
「……あ、はい」
「少し休んでもいいよ?」
「……ありがとうございます」
「水でも飲んで、落ち着いてから戻ればいいから」
「……はい」
「無理しなくていいよ」
「…………」
……。
…………。
俺は口を開いた。
「あの、店長……」
「ん?」
「……僕」
「うん?」
「……辞めます」
「…………」
……。
「……え?」
店長が目を丸くした。
「辞める?」
「……はい」
「バイトを?」
「……はい」
……。
…………。
あ。
言っちゃった。
「……どうしたの? 急に」
「……いや、その」
俺は膝の上で手を握った。
「……向いてないと思うので」
「向いてない?」
「……はい」
店長は少し困ったような顔をした。
「今日、こんなことがあったから?」
「……あ、いえ!」
俺は慌てて首を振った。
「そういうわけじゃないです!」
「そうなの?」
「……はい」
「でも、急だったからねえ」
「……そうですよね」
「仕事もだいぶ覚えてくれたし、助かってるんだけどなあ」
「……ありがとうございます」
本当にいい店長だ。
俺が失敗したばっかりなのに。
こんなことを言ってくれるなんて。
……。
…………。
「何かほかに理由がある?」
「……ああ、えっと」
理由。
……。
…………。
理由かあ。
仕事が面倒になってきたから。
ゲームが面白いから。
……。
いや。
そんなこと言えるわけないだろ。
「……ちょっと、忙しくなりそうで」
俺はそう答えた。
「忙しく?」
「……はい」
「そうかあ」
店長は少し考えた。
「だったら、シフト減らそうか?」
「……え?」
「週四日は大変だと思うし」
「……ああ、はい」
「週二日とかでもいいよ?」
「…………」
……。
週二日か。
それなら、だいぶ楽になるな。
ゲームだってできる。
仕事も続けられる。
しかも、給料も入る。
……。
…………。
でも。
「……いえ、大丈夫です」
「そう?」
「……はい」
「しばらく休んでから、また考えてもいいんだよ?」
「……ありがとうございます」
「うん」
「……でも、辞めようと思います」
言ってしまった。
また言ってしまった。
……。
…………。
もう、引っ込められないな。
店長はしばらく黙っていた。
そして、小さくうなずいた。
「……そうかあ」
「……はい」
「残念だなあ」
「……すいません」
「いやいや。謝らなくていいよ」
店長は少し笑った。
「でも、正直言うと、急に辞められるとシフトの調整が大変なんだよね」
「……あ、はい」
「まだ何日か入ってもらう予定だったでしょ?」
「……はい」
「残りのシフト、来られそう?」
「…………」
……。
…………。
「あの……」
「うん」
「……難しいと思います」
「……そうかあ」
店長は腕を組んで、少し考えた。
「分かった。じゃあ、そのあたりはこっちで調整するよ」
「……すいません」
「ただ、制服は返しに来てね。給料の振り込みもあるし、また連絡させてもらうから」
「……はい!」
「今日はもう帰って休みなさい」
「……えっ?」
「だいぶ疲れてるみたいだし」
「……あ、はい」
……。
…………。
帰れる。
帰っていいのか。
「本当はもう少し一緒に働いてほしかったけどね」
店長は笑った。
「短い間だったけど、ありがとう」
「……こちらこそ、ありがとうございました」
俺は頭を下げた。
「働いてくれた分のお給料は、ちゃんと振り込むからね」
「……ありがとうございます」
「うん。気をつけて帰ってね」
「……はい」
俺は立ち上がった。
もう一度、頭を下げた。
「短い間でしたけど、お世話になりました!」
「うん。お疲れさま」
「ありがとうございました!」
店長は、最後まで優しかった。
*
制服を脱いだ。
私服に着替える。
「…………」
……。
「……ふぅぅ」
俺は大きく息を吐いた。
終わった。
……。
辞めることになった。
本当に。
「…………」
……。
「……言っちゃったなあ」
まだ少し、手が震えている。
さっきのことを思い出すと、また汗が出てきそうだ。
あのお客さん。
めちゃくちゃ怒ってたなあ。
怖かった。
……。
…………。
でも。
もう帰っていいんだ。
「……ふぅ」
よかった。
本当によかった。
鏡を見る。
顔が赤い。
髪も汗で濡れている。
「……うわ」
ひどいな。
さっき、こんな顔で店長と話していたのか。
恥ずかしい。
「……早く帰ろう」
俺はバッグを持った。
バックヤードを出る前に、もう一度店長に挨拶した。
「ありがとうございました!」
「うん。お疲れさま」
「はい!」
俺は店を出た。
自動ドアが開く。
ピロリロリーン。
「…………」
……。
「あー……」
夜の空気が気持ちいい。
さっきまで、あんなに暑かったのに。
少し歩くと、汗も引いてきた。
「……ふぅぅ」
それにしても。
……。
…………。
「……辞めちゃったなあ」
本当に辞めちゃった。
あんなに頑張って仕事を覚えたのに。
レジだってできるようになった。
掃除も。
品出しも。
廃棄の確認も。
大体、一人でできるようになっていた。
「…………」
……。
結構、いい職場だったよな。
森田店長は優しかったし。
柴田さんも、まあ、あの漫画のこと以外は普通だったし。
廃棄のお弁当だってもらえた。
「……うーん」
もったいなかったかなあ。
……。
…………。
いや。
でもな。
どうせ最近、辞めようと思ってたんだし。
今日のことがなくても、近いうちに辞めていたかもしれない。
「……そうだよな」
そうだ。
ただ、少し早くなっただけだ。
別に今日、辞めるつもりだったわけじゃないけど。
……。
…………。
「……まあ、いいか」
辞めちゃったものは仕方ない。
それより。
「…………」
……。
「あっ」
そうだ。
今日、ゲームできるじゃないか。
「……おお!」
そうだよ!
ダンジョンマラソン!
まだ間に合うんじゃないか?
俺はスマホを取り出した。
さっきのメッセージを開く。
『今日はみんなでダンジョンマラソンやります!』
「……ふふ」
帰ったら参加できるかな。
みんな、まだ集まっているだろうか。
「……よし!」
俺は少し歩く速度を上げた。
……。
…………。
でも。
「……あー」
ちょっとだけ、胸のあたりが重い。
なんだろう。
さっきまで、あんなに帰りたかったのに。
帰れることになったのに。
「…………」
……。
もしかして。
少し後悔してるのかな。
「……うーん」
店長、本当に優しかったなあ。
あんなことがあったのに、怒らなかった。
シフトも減らしていいと言ってくれた。
俺が仕事を覚えたことも、ちゃんと見てくれていた。
「…………」
……。
…………。
そういえば。
今日は一時間も早く出勤したんだった。
俺は時計を見た。
「…………」
……。
「……まだ、いつもの出勤時間にもなってねえじゃん」
何やってんだろ、俺。
……。
…………。
「……まあ、明日考えるか」
今日はもう疲れた。
とりあえず家に帰ろう。
シャワーを浴びて。
着替えて。
それからゲームだ。
「……ふふ」
今日は時間を気にせず遊べるな。
俺はスマホをポケットにしまった。
そういえば、バイトに行くときは、あんなに遠く感じた道だったのに。
帰りはあっという間だな。
「……あっ」
そうだ。
ダンジョンマラソン、人数いっぱいになってないかな。
「……急ごう」
俺は少し早足になった。




