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100万円貯めたら、あの頃に戻れるらしい。  作者: Tranonym


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3/11

服を買いに来ただけなのに。

おいおいおい……。


なんでこんなに人がいるんだよ。


俺は店に入って早々、帰りたくなっていた。


平日の午後三時過ぎ。


会社員は仕事中。


学生は学校。


だから、今なら空いているはずだった。


少なくとも、俺の計算ではそうだった。


それなのに。


「……人、多くね?」


店内には普通に客がいた。


服を選んでいる若い男女。


楽しそうに話している親子連れ。


それに、制服姿の学生までいる。


いやいやいや。


なんで学生がいるんだよ。


学校はどうした。


サボってんのか?


……まあ、もう授業が終わったのかもしれないけど。


それにしても、店員も多い。


あっちにもいる。


こっちにもいる。


なんでこんなに店員がいるんだ。


そんなに売れるのか、服って。


「……くそっ」


こんなことなら、通販にすればよかった。


ネットなら誰とも話さなくていい。


サイズを選んで、注文して、あとは届くのを待つだけ。


最高じゃないか。


でも、面接は明後日の午前十時だ。


今から注文して、間に合わなかったらどうする?


そんな危ない橋は渡れない。


「……仕方ねえな」


とにかく、さっさと買って帰ろう。


服を買う。


それだけだ。


余計なことは考えない。


俺は店内を見回した。


「えーと……シャツから見るか」


無地のシャツが並んでいる売り場へ向かう。


白。


黒。


紺。


グレー。


いろいろある。


「……何色がいいんだろ」


面接だからな。


やっぱり白か?


でも白って汚れが目立ちそうだよな。


黒は無難だけど、暗い印象にならないだろうか。


紺なら大丈夫か?


……いや、別に服の色だけで採用が決まるわけじゃないだろ。


とりあえず、値段を見よう。


千四百九十円。


「……おっ」


思っていたより安い。


これならいける。


ズボンを二千円くらいで買えれば、合計三千五百円程度だ。


財布には五千円ある。


おお。


なんだ、全然余裕じゃないか。


そう思ってシャツを手に取った、そのときだった。


「お客様、何かお探しですか?」


「はっ!?」


思わず変な声が出た。


すぐ横に、女性の店員が立っていた。


「シャツをお探しでしたら、こちらにもございますよ」


「えっ、あっ……いや……」


なんだ!?


いつの間に!?


全然気づかなかったぞ!


「あの……えっと……」


店員は、にこにこと笑っている。


「サイズなど、お分かりになりますか?」


「えっ、あ、はい……いや、その……」


サイズ?


サイズってなんだっけ。


M?


L?


普段、何を着てたっけ。


というか、こんなに人としゃべる予定じゃなかったんだけど。


「……み、見てるだけです」


ようやく、それだけ言えた。


「かしこまりました。何かございましたら、いつでもお声がけくださいね」


「あ、はい……」


店員は軽く頭を下げ、その場を離れていった。


「…………」


ふぅぅぅ。


びっくりしたあ。


なんなんだよ。


急に話しかけないでくれよ。


心臓に悪いだろ。


俺は店員が離れていった方向を、ちらっと見た。


……。


でも、結構かわいかったなあ。


笑顔もよかったし。


ああいう人が彼女だったら、毎日楽しいんだろうな。


……いや、何を考えてるんだ俺は。


服だ。


服を買いに来たんだ。


それにしても。


「……暑い」


なんか、めちゃくちゃ暑い。


店内は別に暑くないはずなのに。


帽子の中が蒸れている。


マスクの中も、なんだか汗ばんできた。


背中も少し湿っている気がする。


あー、もう。


なんなんだよ。


このままじゃ、試着なんてとてもじゃないけど無理だ。


早く買って帰ろう。


俺は、さっき見ていた紺色のシャツを手に取った。


サイズはL。


たぶん大丈夫だろう。


今着ている服も、確かLだったはずだ。


次はズボンだ。


近くの棚に、黒いズボンが並んでいた。


値札を見る。


二千四百九十円。


「……まあ、こんなもんか」


シャツが千四百九十円。


ズボンが二千四百九十円。


合計三千九百八十円。


「……おお」


五千円以内だ。


ちゃんと予算内に収まったじゃないか。


いや、待てよ。


試着くらいしたほうがいいのか?


……。


いや、いいだろ。


今のズボンと大体同じサイズだし。


それに、試着室って店員に声をかけないといけないんだよな。


あー、面倒くさい。


大丈夫だ。


俺は自分のサイズくらい分かっている。


たぶん。


「……よし、これにしよう」


シャツとズボンを持ってレジへ向かった。


幸い、誰も並んでいなかった。


よかった。


これならすぐに終わる。


「いらっしゃいませ」


レジの店員が声をかけてきた。


「あ、これお願いします」


商品を渡す。


ピッ。


ピッ。


「三千九百八十円になります」


「はい」


千円札を四枚取り出した。


「四千円お預かりします。二十円のお返しです」


「あ、はい」


「袋はご利用になりますか?」


「あ、大丈夫です」


「かしこまりました」


店員が商品をまとめてくれる。


「ありがとうございました。またお越しくださいませ」


「……どうも」


終わった。


買えた。


服を買えた。


「……ふぅ」


俺は商品を抱えて、店を出た。


外の空気が気持ちよかった。


さっきまであんなに暑かったのに。


帽子を少し浮かせて、頭に風を通す。


あー、涼しい。


「……疲れたあ」


たった二着買っただけなのに、ものすごく疲れた。


でも、これで面接に着ていく服は確保できた。


あとは帰るだけだ。


……。


…………。


「あっ!」


違う!


まだあった!


履歴書の写真だ!


「……くそっ、忘れてた」


そうだ。


証明写真を撮らなきゃいけないんだった。


また人のいる場所に行くのか。


もう勘弁してくれよ。


……いや、証明写真機なら誰とも話さなくていいか。


それなら大丈夫だ。


俺は近くの証明写真機を探した。


幸い、少し歩いたところにあった。


「……お、あったあった」


料金を見る。


千円。


「……千円か」


財布の中を確認する。


さっきの買い物で、千円札が一枚残っている。


これを使えば、もう千円札はなくなる。


小銭は多少あるけど。


「……まあ、仕方ないか」


これも必要経費だ。


俺は千円札を機械に入れた。


椅子に座る。


帽子を取る。


マスクも外す。


画面に自分の顔が映った。


「…………」


……うわ。


なんか、ひどいな。


髪は伸び放題。


前髪も妙に重たい。


顔色もよくない気がする。


「……こんな顔だったっけ、俺」


まあ、いいか。


証明写真なんて、顔が分かれば十分だろう。


画面の指示に従って姿勢を正す。


背筋を伸ばす。


顎を少し引く。


よし。


これでいい。


『撮影します』


「……はい」


カシャッ。


画面に写真が表示された。


「…………」


……なんか、犯罪者みたいだな。


いや、そんなことないか。


誰だって証明写真は変な顔になるもんだ。


たぶん。


撮り直すか?


……。


いや、もういいだろ。


何度撮っても同じ顔なんだから。


「……これでいいや」


印刷された写真を受け取った。


これで準備はほぼ終わりだ。


買った服を抱え直して、家へ向かった。


「……あー、早く帰りてえ」


もう今日は十分頑張った。


本当に。


*


「……ただいま」


誰もいない部屋に帰ってきた。


返事はない。


当たり前だ。


靴を脱ぐ。


買ってきた服を置く。


帽子を取る。


マスクを外す。


「……ああああ、疲れたあ!」


そのままベッドに倒れ込みたかったが、汗が気持ち悪かった。


とりあえずシャワーを浴びよう。


浴室へ向かい、服を脱いだ。


シャワーのお湯を頭から浴びる。


「……ふぅぅ」


気持ちいい。


生き返る。


それにしても、今日は大冒険だったな。


服屋に行って、店員と話して、服を買って、証明写真まで撮った。


なかなかの一日じゃないか。


しかも、ちゃんと全部終わらせた。


……いや、まだ履歴書が残っているか。


「あー……面倒くせえ」


もう今日は寝たい。


本当に疲れた。


でも、面接は明後日だ。


明日は面接の準備もしなきゃいけないし。


「……履歴書くらい、今日書いとくか」


シャワーを終えて、部屋着に着替える。


買ってきた服を広げてみた。


紺色のシャツ。


黒いズボン。


「……おお」


結構いいじゃん。


地味だけど、面接にはちょうどいいんじゃないか?


一応、体に当ててみる。


うん。


たぶん大丈夫。


そういえば、試着してなかったな。


……まあ、明日着てみればいいか。


今は履歴書だ。


引き出しを探す。


確か、昔買った履歴書があったはずだ。


「……あった!」


封筒の中に、未使用の履歴書が一枚残っていた。


いつ買ったのかは覚えていない。


でも、使えそうだ。


「……よし」


机に座る。


ペンを持つ。


名前。


住所。


生年月日。


ここまでは簡単だ。


問題は、その次だった。


学歴。


「……あー」


大学名を書く。


入学した年を書く。


そして。


中途退学。


「…………」


なんか、嫌だな。


せっかく大学に入ったのに、最後にこれを書かなきゃいけないのか。


でも、実際に辞めたんだから仕方がない。


俺は「中途退学」と書き込んだ。


次は職歴。


「……職歴、か」


大学時代にアルバイトはしていた。


でも、卒業してからはまともな仕事に就いていない。


書けることが、ほとんどない。


「……まあ、コンビニのバイトだしな」


未経験歓迎って書いてあったし。


そこまで気にされないだろう。


たぶん。


次。


志望動機。


「…………」


これだ。


一番面倒くさいやつ。


なんで、この店で働きたいのか。


そんなの決まっている。


百万円を貯めたいからだ。


それ以外に理由なんてない。


「……いや、でもそれ書いたらまずいよな」


履歴書に、


『百万円を貯めて大学時代に戻るため』


なんて書いたら、絶対に変なやつだと思われる。


……実際、変な話ではあるのだが。


まあ、普通の理由を書けばいいだろう。


家から近い。


通いやすい。


長く働けそう。


「……これでいいか」


自宅から近く、通勤しやすいため、長く勤務できると考え応募しました。


「……おお」


結構いいじゃん。


嘘も書いていない。


実際に家から近いし、長く働くつもりだ。


百万円が貯まるまでは。


「……よしよし」


少しずつ欄が埋まっていく。


名前。


住所。


学歴。


職歴。


志望動機。


証明写真も貼った。


「……できた!」


俺は履歴書を持ち上げた。


おお。


なんか、ちゃんとしてるじゃないか。


これを持って面接に行けばいいんだな。


……。


…………。


「あれ?」


写真を見て、ふと気づいた。


「……髪、やばくね?」


改めて見ると、前髪がずいぶん伸びている。


横の髪も、なんだか重たい。


今日は帽子をかぶっていたから気にしていなかったが、面接ではさすがに帽子を取るだろう。


「……散髪かあ」


美容院。


床屋。


どっちでもいいけど、金がかかるよな。


財布を見る。


千円札はもうない。


小銭は残っているが、散髪代にはとても足りない。


「……無理じゃん」


それに、美容院なんて何年も行っていない。


何を話せばいいんだ。


『今日はどうされますか?』


……とか聞かれるんだろうな。


適当に短くしてください、で通じるのか?


「……あー、もう!」


面倒くせえ!


なんなんだよ!


仕事をするだけなのに、なんでこんなに準備がいるんだ!


服を買って。


写真を撮って。


履歴書を書いて。


今度は散髪かよ!


「……もう全部やめるかあ」


思わず口に出してしまった。


別に、働かなくても今日すぐ死ぬわけじゃない。


今までだって、なんとか生きてきた。


このままゲームをして、動画を見て、眠くなったら寝る。


それでも明日は来る。


「…………」


俺はベッドに腰を下ろした。


スマホが目に入った。


昨日、見つけた同級生たちのSNS。


なんとなく、もう一度開いてみた。


小田の投稿。


朝のランニング。


仕事のこと。


休日の勉強。


健康に気を遣った食事。


別の同級生は、仕事で海外に行っていた。


同窓会の集合写真も、まだ見られた。


「……すげえなあ」


みんな、頑張ってるんだな。


仕事をして。


勉強して。


運動もして。


普通に生活している。


きっと、疲れる日だってあるだろう。


面倒くさい日だってあるだろう。


それでも、毎日仕事に行っているんだよな。


「…………」


俺は履歴書を見た。


一応、書き終わっている。


服も買った。


写真も撮った。


あとは、髪をなんとかすればいいだけだ。


「……まあ、髪くらい自分で切れるか」


そうだ。


別に美容師みたいに格好よくする必要はない。


面接で変に見えなければいいんだ。


俺は立ち上がった。


「……よし、やるか」


洗面所へ向かう。


引き出しから、昔買った散髪用のハサミを取り出した。


鏡を見る。


「……どこから切ればいいんだ?」


とりあえず、前髪か。


長いところを少し切る。


チョキ。


……。


「おっ」


意外といける。


もう少し切るか。


チョキ、チョキ。


「……あれ?」


なんか、右のほうが短くないか?


……いや、気のせいか。


左もちょっと切ろう。


チョキ。


「…………」


今度は左が短い気がする。


「……くそっ」


難しいな、これ。


まあ、いいか。


多少の違いなんて、誰も見ていないだろう。


横の髪も少し整える。


耳の周りを切って、前髪を軽くする。


何度か鏡を確認した。


「……うん」


まあまあじゃないか?


少なくとも、さっきよりはましだ。


左右で少し長さが違う気もするが、そんなに目立たない。


たぶん。


「……よし!」


ハサミを置いた。


これで面接の準備はほぼ完了だ。


もう一度、履歴書を見る。


写真の俺より、今の俺のほうが少しだけ髪が短い。


まあ、同じ人間だし問題ないだろう。


「……ふぅ」


それにしても。


俺、結構やれてるんじゃね?


今日は仕事に応募したわけじゃない。


それは昨日やった。


でも、ちゃんと面接の準備をした。


服を買った。


写真を撮った。


履歴書を書いた。


髪まで切った。


「……おお」


なかなかじゃないか。


昨日までの俺なら、絶対にこんなにいろいろやっていなかった。


やればできるんだな、俺。


そうだよ。


考えてみれば、俺だって大学に合格したんだ。


小田も、ほかの友達も、みんな同じ大学に入った。


同じ入学試験を受けて、合格したんだ。


だったら、俺だって本気を出せば、あいつらみたいになれるはずだ。


今はちょっと遅れているだけ。


そう。


ちょっとだけ。


「……よしよし」


なんだか、明後日の面接もうまくいく気がしてきた。


履歴書もある。


服もある。


髪も切った。


あとは面接で普通に話すだけだ。


志望動機。


勤務できる曜日。


いつから働けるか。


そのあたりを覚えておけばいいだろう。


「……まあ、面接対策は明日でいいか」


今日はもう十分頑張った。


さすがに疲れた。


時計を見る。


まだ寝るには少し早い時間だったが、別に構わない。


明日は午前中に起きてみようかな。


面接は午前十時なんだし、そろそろ生活リズムも直さないとな。


……まあ、明日からでいいか。


俺はベッドに横になった。


スマホを手に取る。


いつものゲームを起動しようとして、やめた。


なんとなく、今日はもういい気がした。


「……百万円かあ」


天井を見上げる。


まだ一円も貯まっていない。


むしろ今日、五千円近く使ってしまった。


でも、仕方ない。


あの頃に戻るための必要経費だ。


働き始めれば、すぐに取り戻せる。


そうだ。


これからだ。


「……あの頃に戻ったら、何しようかな」


まずは大学をちゃんと卒業しよう。


それから、友達とももっと遊ぼう。


小田にも、久しぶりに会いたい。


いや、あの頃に戻るんだから、久しぶりじゃないのか。


……なんか変な感じだな。


昔の彼女にも会える。


今度こそ、もっといろんなところへ遊びに行きたい。


考えているだけで、少し楽しくなってきた。


「……ふふっ」


自然と笑みがこぼれた。


そういえば、昨日の夢は本当にリアルだった。


校舎も。


教室も。


友達の顔も。


全部、はっきり覚えている。


あの夢の中では、うまく話せなかった。


笑うことすらできなかった。


でも、今日は少しだけ人と話した。


店員とも話せた。


電話だって、昨日ちゃんとかけられた。


だったら。


今度は、もう少し普通に話せるかもしれない。


「……また、あの頃の夢が見られないかな」


俺は目を閉じた。


もし、もう一度あの教室に戻れたら。


今度は小田に、何か話しかけてみよう。


……何を話すかは、まだ思いつかないけど。

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