働きたくない。でも、100万円は欲しい。
目が覚めた。
時計を見る。
午後十二時十八分。
「……よく寝た」
昨日は珍しく、明日が来るのを楽しみにしながら寝た。
だからといって、早く目が覚めるわけではないらしい。
まあ、別に急ぐ必要もない。
仕事を探すだけなんだから。
「さてと……」
ベッドの上で大きく伸びをする。
昨日の出来事を思い出した。
突然、部屋に現れた謎の老人。
そして、あの言葉。
『ならば、まず百万円を貯めてみせろ』
「……百万円かあ」
改めて考えてみると、とんでもない金額だ。
今までの人生で、銀行口座に百万円が入っていたことなんてあっただろうか。
……ないな。
たぶん一度もない。
大学時代だって、バイト代が入ればすぐに使っていたし、そもそも貯金というものをまともにした記憶がない。
でも、百万円だ。
一億円じゃない。
宝くじを当てろと言われたわけでもない。
働けば、いつかは貯まるだろう。
「……よし。仕事、探すか」
スマホを手に取り、求人サイトを開いた。
勤務地は近所。
未経験歓迎。
学歴不問。
できれば高時給。
そして何より。
楽な仕事。
「……まあ、そんな都合のいい仕事があれば苦労しないよな」
検索ボタンを押した。
画面いっぱいに求人情報が並ぶ。
コンビニ、配送、引っ越し、工場、事務、飲食店。
「おお、結構あるじゃん」
少し安心した。
世の中、人手不足だとニュースで言っていた。
だったら、俺みたいな人間でも雇ってくれる場所くらいあるだろう。
問題は、どこで働くかだ。
「まずは無難にコンビニかなあ」
コンビニ。
近所にもあるし、何度も利用したことがある。
レジで商品を読み取って、袋に入れて、お金を受け取る。
それくらいなら、俺にもできそうだ。
……いや、待てよ。
最近のコンビニって、結構いろいろやっているよな。
公共料金の支払い。
宅配便の受付。
チケットの発券。
揚げ物の調理。
品出し、清掃、商品の廃棄処理。
「あれ……コンビニって、意外と大変じゃね?」
よく考えたら、覚えることが多すぎる。
レジに行列ができたらどうする?
宅配便の手続きが分からなかったら?
後ろに客が並んでいるのに、操作を間違えたりしたら?
怒鳴られたりしないだろうか。
「……うーん」
なんか、思っていたのと違うな。
とりあえず、ほかも見てみよう。
「あ、配送スタッフ」
おっ。
給料がいい。
コンビニよりずっと高い。
しかも、基本的には一人で仕事ができるらしい。
「これ、よくね?」
誰かとずっと一緒に働くより、自分のペースで配達するほうが気楽そうだ。
詳細を開く。
普通自動車免許必須。
車両持ち込み歓迎。
「あー……」
免許はある。
でも、車がない。
会社の車を貸してくれるところもあるんだろうけど、知らない道を走り回るのも面倒くさい。
それに、事故を起こしたらどうする?
荷物を間違えたら?
駐車する場所がなかったら?
「……次」
引っ越し作業員。
「うおっ!」
さらに給料がいい。
日給を見ると、ちょっと心が動いた。
これなら百万円も早く貯まるかもしれない。
だが、仕事内容を読んで、すぐに画面を閉じた。
「……絶対無理だろ」
冷蔵庫。
洗濯機。
タンス。
ベッド。
そんなものを何度も運ぶのか?
いやいやいや。
俺、最近まともに運動した記憶すらないぞ。
スーパーで二リットルの飲み物を何本か買っただけで、帰り道に後悔することだってある。
そんな人間が冷蔵庫を運べるわけがない。
一日目で腰を壊したらどうするんだ。
「給料はいいけどなあ……」
でも、続かなかったら意味がない。
一日働いて三日寝込んでいたら、百万円なんていつまでたっても貯まらない。
そうだ。
大切なのは継続だ。
無理をしないこと。
長く続けられること。
「……やっぱ体力系はやめとくか」
次。
事務スタッフ。
「お、これいいじゃん」
座って仕事ができる。
空調完備。
パソコンを使った簡単な入力作業。
パソコンなら毎日使っている。
……ほとんどゲームと動画を見るためだが。
でも、文字入力くらいならできる。
応募条件を確認する。
基本的なパソコン操作ができる方。
コミュニケーション能力のある方。
電話対応ができる方。
「……あー」
電話対応かあ。
知らない人から電話がかかってきて、名前を聞いて、用件を確認して、誰かに取り次ぐ。
そんなことを毎日?
それに、事務って女性が多いイメージなんだよな。
男の俺でも採用してもらえるんだろうか。
面接に行ったら、俺以外全員女性だったりして。
……気まずいな。
「……まあ、次にするか」
飲食店。
忙しそう。
工場。
立ちっぱなしはきつそう。
清掃。
朝が早い。
警備員。
ずっと立っているのか?
求人を開いては閉じ、開いては閉じる。
「……ろくなのねえじゃん!」
思わず声が出た。
未経験歓迎。
アットホームな職場。
明るく楽しい仲間たち。
丁寧に教えます。
「何がアットホームだよ……」
どうせ入ってみたら、全然違うんだろ。
楽しい職場なら、なんで人を募集してるんだ?
みんな辞めるからじゃないのか?
それに、未経験歓迎ってどこまで本当なんだろうな。
初日から仕事を押しつけられたりしないだろうか。
「……あー、もう」
スマホを置いた。
時計を見る。
午後二時四十七分。
「えっ、もうこんな時間?」
ずいぶん探した気がする。
でも、結局どこにも応募していない。
「……まあ、急いで決めてもいいことないしな」
そうだ。
変なところに入って、すぐ辞めることになったら意味がない。
ちゃんと選ばないと。
「……ちょっと休憩するか」
ベッドに寝転がった。
いつもの天井が見えた。
このままゲームでも起動して、動画でも見て、眠くなったら寝る。
そうすれば、いつもどおりの一日が終わる。
誰にも怒られない。
誰にも急かされない。
ああ。
やっぱり、この生活は素晴らしい。
……でも。
「……百万円、か」
昨日見た大学時代の夢を思い出す。
懐かしい友達。
初めて付き合った彼女。
あの頃の教室。
そして、楽しそうに笑っていた同級生たちの写真。
そこに俺はいなかった。
もし、もう一度あの場所に戻れたら。
今度こそ、違う人生を歩めるかもしれない。
「……そうだよな」
俺は体を起こした。
そうだ。
何のために働くんだ?
立派な社会人になるためか?
違う。
今の生活を豊かにするためか?
それも違う。
俺が欲しいのは、この先の人生じゃない。
俺のリアルは、ここじゃない。
あの頃なんだ。
あの頃に戻って、もう一度やり直す。
そのための百万円だ。
だったら、こんなところで悩んでいる場合じゃない。
「……よし!」
もう一度、求人サイトを開いた。
コンビニ。
そうだ。
コンビニにしよう。
覚えることは多いかもしれない。
客に怒られることもあるかもしれない。
でも、少なくとも冷蔵庫を階段で運ぶよりは、俺に向いている気がする。
それに、最初から全部覚えろなんて言われないだろう。
普通は先輩が教えてくれるはずだ。
「……うん、コンビニだな」
近所の店舗を探す。
「あ、ここ募集してるじゃん」
家から歩いて行ける距離にあるコンビニだった。
何度も利用したことがある店だ。
募集しているのは、夕方から夜間にかけての時間帯。
夜なら、朝早く起きる必要もない。
何より、歩いて通える。
交通費もかからない。
「……これだな」
求人情報に電話番号が載っている。
俺はそれをじっと見つめた。
……。
…………。
「……電話かあ」
急に緊張してきた。
電話なんて、最近ほとんどしていない。
たまにかかってくるのは、家族か営業電話くらいだ。
知らない相手に、自分から電話をかける。
なんか嫌だな。
「……いや、大丈夫だろ」
別に難しいことをするわけじゃない。
求人を見て電話しました。
アルバイトに応募したいです。
それだけだ。
それだけ言えばいい。
「……よし」
番号を入力する。
発信ボタンに指を置く。
……。
「……いや、ちょっと待て」
一度、スマホを下ろした。
何を話すか、頭の中で練習しておこう。
『お忙しいところ失礼します。求人を拝見してお電話したのですが……』
うん。
いいじゃないか。
社会人っぽい。
『アルバイトに応募したいのですが、まだ募集していますでしょうか』
完璧だ。
あとは相手の質問に答えるだけ。
何も難しいことはない。
「……よし!」
発信。
プルルルル……。
プルルルル……。
「あ、やっぱりやめ――」
『はい、お電話ありがとうございます。〇〇店です』
出た。
早い。
早すぎる。
「あっ、も、もしもし!」
『はい』
「あ、あの、求人を見て……その、アルバイトの……」
あれ?
さっき練習した言葉は?
どこへ行った?
『アルバイトのご応募ですか?』
「あっ、はい! そうです!」
『ありがとうございます。少々お待ちください』
保留音が流れた。
「……ふぅ」
危なかった。
何が危なかったのかは分からないが、とりあえず話は通じた。
やがて別の人が電話に出た。
『お電話代わりました。アルバイト希望の方ですね?』
「は、はい!」
名前を聞かれた。
答えた。
勤務できる時間帯を聞かれた。
夕方以降なら大丈夫だと答えた。
週に何日くらい働けるかを聞かれた。
「えっと……週四日くらいで……」
本当はもっと働いたほうが早く百万円に届くんだろうけど、いきなり週五日はきつい気がした。
まあ、慣れてから増やせばいいだろう。
『分かりました。では、明後日の午前十時に面接ということで、いかがでしょうか?』
「あっ、はい! 大丈夫です!」
『履歴書をお持ちください』
「あ、はい! 分かりました!」
『それでは、お待ちしております』
「はい! よろしくお願いします!」
電話が切れた。
「…………ふぅぅぅ」
思わず、長いため息が出た。
終わった。
電話が終わった。
面接の日程も決まった。
「……いけるじゃん、俺!」
なんだ。
思っていたより簡単じゃないか。
ちゃんと受け答えもできた。
……多少たどたどしかった気はするが。
名前も言えた。
日時も確認できた。
履歴書も必要だと分かった。
大きなミスはしていない。
完璧だ。
「いい感じじゃん!」
ちょっとだけ嬉しくなった。
よく考えれば、向こうは人手が足りないから募集しているんだ。
そこに俺が応募した。
店からすれば、むしろありがたい話じゃないか。
レジの操作だって、教えてもらえば覚えられるだろう。
学生時代にはバイトもしていたんだ。
俺だって、やればできる。
「……これは採用されるな」
まだ面接すら受けていないのに、なんだかうまくいく気がしてきた。
スマホの予定表を開く。
明後日。
午前十時。
コンビニ面接。
登録完了。
「よし!」
あとは面接に行くだけだ。
……。
…………。
「……ん?」
ふと、何かが引っかかった。
午前十時。
午前。
十時。
「……あれ?」
俺、今日何時に起きたっけ。
確か、十二時十八分だった。
「…………」
まあ、いいか。
明日は早めに寝ればいい。
目覚ましだってある。
大丈夫、大丈夫。
それより、ほかにも準備しなければならないことがある。
履歴書だ。
証明写真も必要だろう。
それから……。
「……あ」
服。
「……何着ていけばいいんだ?」
面接だ。
アルバイトとはいえ、面接だ。
ちゃんとした服装で行ったほうがいいに決まっている。
「スーツ……?」
いやいやいや。
コンビニのアルバイト面接にスーツって。
さすがに大げさじゃないか?
一応、クローゼットを開けてみる。
奥のほうに、それらしいものがあった。
「あ、あった」
取り出してみる。
……。
「……うわ」
しわがすごい。
しかも、なんだか妙なにおいがする。
長いことしまいっぱなしだったからだろう。
これを着て面接に行くくらいなら、普通の服のほうがよさそうだ。
「……調べるか」
スマホで検索する。
『コンビニ アルバイト 面接 服装』
いくつかのサイトを読む。
清潔感のある私服で問題ない。
派手すぎない服装が望ましい。
必ずしもスーツである必要はない。
「おお、よかった」
そうだよな。
コンビニだもんな。
普通の服でいいんだよな。
「……ん?」
待てよ。
普通の服?
俺はもう一度クローゼットを見た。
そして、引き出しを開けた。
よれよれのTシャツ。
色あせたTシャツ。
いつ買ったのか分からない短パン。
毛玉だらけのスウェット。
首元が伸びきったパーカー。
「…………」
念のため、もう一度確認した。
……ない。
「……ちょっと待て」
まともな服がない。
いや、服はある。
もちろんある。
今だって着ている。
でも、面接に着ていけそうな服がない。
「……マジかよ」
思わず笑ってしまった。
仕事を探した。
応募した。
面接が決まった。
そして。
面接に着ていく服がない。
なんなんだよ、この人生。
「……買うしかないか」
安い服でいい。
無地のシャツと、普通のズボン。
それだけあれば十分だろう。
高級な服なんて必要ない。
「よし、買いに行こう」
そう決めて立ち上がった。
が。
「……いや、待てよ」
今度は別の問題が浮かんできた。
金だ。
服を買うには金がいる。
当然のことだ。
でも、今の俺には、できるだけ金を使いたくない理由がある。
百万円。
そうだ。
百万円を貯めなければならないのだ。
財布を取り出した。
中身を確認する。
千円札が五枚。
小銭が少し。
「……五千円はあるな」
安い店に行けば、なんとかなるだろう。
……。
…………。
「でも、五千円かあ」
五千円。
今の俺にとっては、結構な大金だ。
そもそも、百万円を貯めなければならない人間が、いきなり五千円も使っていいのか?
もしここで五千円使ったら、目標まで五千円遠ざかることになる。
五千円。
働いて取り戻すには、何時間かかるんだ?
「……結構かかるじゃん」
いや、待て。
でも、服を買わなければ面接に行けない。
面接に行けなければ仕事が決まらない。
仕事が決まらなければ百万円は貯まらない。
ということは。
「……これは必要経費だな」
そうだ。
経費だ。
将来の百万円を手に入れるための投資だ。
五千円を使って、それ以上の金を稼ぐ。
実に合理的じゃないか。
「よし、問題なし!」
……いや。
やっぱり、ちょっともったいないな。
面接に行く服なんて、一度きりかもしれない。
採用されなかったらどうする?
五千円払って、不採用。
そんなことになったら目も当てられない。
「……くそっ」
俺はベッドに腰を下ろした。
さっきまであんなにやる気だったのに。
たかが服を買うだけで、どうしてこんなに金がかかるんだ。
スマホを眺める。
いつものゲームのアイコンが目に入った。
起動すれば、すぐにいつもの世界に入れる。
そこには面接もなければ、履歴書もない。
服を買う必要だってない。
……。
…………。
「……いや」
俺はスマホの画面を消した。
違う。
今は違う。
俺は百万円を貯めるんだ。
百万円を貯めて、あの頃に戻る。
そのために仕事を探したんじゃないか。
俺のリアルは、ここじゃない。
あの頃なんだ。
……でも。
「……今は、まだここがリアルなんだよなあ」
思わず呟いた。
どれだけ過去に戻りたいと願っても、今はこの部屋にいる。
財布の中身も五千円のままだ。
面接に着ていく服もない。
昨日、あんな不思議なことが起こったのに、百万円が突然振り込まれたわけでもない。
仕事だって、勝手に決まったわけじゃない。
「……仕方ねえな」
もう一度、立ち上がった。
「買いに行くか」
時計を見る。
午後三時を少し回ったところだった。
「……三時か」
ちょうどいい時間かもしれない。
会社員はまだ働いている。
学生も、たぶんまだ学校にいる時間だろう。
今なら、店もそんなに混んでいないんじゃないか?
……そうであってほしい。
「……よし、今だな」
クローゼットから、比較的まともそうな服を引っ張り出した。
何度も洗濯したTシャツ。
少し色あせたズボン。
それでも、さっきのスウェットよりはましだ。
着替える。
鏡を見る。
「…………」
うん。
まあ。
ひどくはない。
たぶん。
帽子をかぶる。
マスクをつける。
「……よし」
これなら、そんなに目立たないだろう。
別に誰かが俺のことを見ているわけじゃない。
でも、久しぶりに人の多い場所へ行くとなると、なんとなく落ち着かない。
知り合いに会うわけでもないのに。
そもそも、近所に知り合いなんていないのに。
「……まあ、誰も俺のことなんて知らないしな」
そうだ。
服を買いに行くだけだ。
買い物だ。
ただの買い物。
何も難しいことはない。
財布をポケットに入れる。
スマホも持った。
鍵を確認する。
忘れ物はない。
たぶん。
玄関へ向かう途中、部屋の隅に置かれたごみ袋が目に入った。
そういえば、明日はごみの日だった。
「……あー、ごみも出さないとな」
袋はもういっぱいだ。
今のうちにまとめておくか。
……いや、帰ってからでいいか。
それより、服だ。
面接に着ていく服を買わなければならない。
俺は玄関に立った。
ドアノブに手をかける。
……。
「……ふぅ」
一度、深呼吸した。
別に怖いわけじゃない。
ただ、ちょっと久しぶりなだけだ。
大学時代は、毎日のように外へ出ていた。
友達と遊んでいた。
彼女とデートだってしていた。
買い物くらい、何度でもしたことがある。
できないわけがない。
「……よし」
ドアノブを回す。
外の空気が流れ込んできた。
「……行くぞ」
俺は玄関のドアを開けた。
百万円まで、あと百万円。
……先は長そうだった。




