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100万円貯めたら、あの頃に戻れるらしい。  作者: Tranonym


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1/11

あの頃に戻りたい

俺は無職だ。


大学を中退してから、まともな仕事に就くこともなく、なんとか今日まで生きてきた。


金はない。


彼女もいない。


友達もいない。


ちなみに、ネットにも友達はいない。


オンラインゲームで一緒に遊ぶ相手もいなければ、SNSで気軽にやり取りする相手もいない。


我ながら、なかなかのものだと思う。


だったら実家に帰ればいいじゃないか、と思われるかもしれない。


でも、それだけは嫌だった。


別に家族と仲が悪いわけじゃない。


ただ、実家に帰れば、きっといろいろ聞かれる。


「仕事はどうするの?」


「これからどうするつもり?」


そんなこと、俺が一番知りたい。


だから、帰らない。


幸いなことに、今の生活には一つだけ素晴らしいところがある。


自由だ。


それはもう、驚くほど自由だ。


朝起きる必要もない。通勤電車に乗る必要もない。嫌な上司に頭を下げる必要もない。


好きなときに寝て、好きなときに起きる。


ゲームをして、動画を見て、腹が減ったら何かを食べる。


誰にも文句を言われない。


最高じゃないか。


……まあ、最近はその最高の生活にも、少し飽きてきたのだが。


ゲームを起動しても、特にやりたいことがない。


オンラインのフレンド一覧は、そもそも空っぽだ。


動画サイトを開いても、いつも見ているチャンネルは更新されていない。


おすすめには、昨日見たような動画ばかりが並んでいる。


「……つまんねえな」


時計を見る。


午後二時を少し回ったところだった。


普通の人なら、まだ仕事をしている時間だろう。


でも俺には関係ない。


「寝るか」


そう呟いて、ベッドに横になった。


働いている人たちには申し訳ないが、眠たいときに眠れるというのは、なかなか贅沢なことだと思う。


少なくとも、働くよりはずっといい。


そう思いながら、俺は目を閉じた。


*


夢を見た。


大学時代の夢だった。


懐かしい校舎。


長い廊下。


教室から聞こえてくる学生たちの笑い声。


窓から差し込む午後の日差し。


「あれ……?」


気がつくと、俺は大学の中にいた。


目の前には、見覚えのある顔がいくつもあった。


一緒に講義を受けていた友達。


くだらない話で笑い合っていた連中。


そして、その中には、かつて付き合っていた彼女の姿まであった。


懐かしい。


本当に懐かしい。


忘れていたはずの顔が、次々と思い出される。


不思議なことに、夢はものすごくリアルだった。


教室の空気も、机の感触も、周囲の話し声も。


まるで本当に、あの頃に戻ったかのようだった。


友達の一人が、俺に何かを話しかけてきた。


昔なら、きっと適当な冗談を返して笑っていたはずだ。


ところが。


「…………」


言葉が出てこない。


いや、声が出ないわけじゃない。


何を話せばいいのか、分からないのだ。


友達は楽しそうに笑っている。


俺も笑おうとする。


でも、うまく笑えない。


何がそんなに面白いのか、分からない。


今度は、彼女が話しかけてきた。


あんなに好きだった人だ。


一緒にいるだけで楽しかったはずなのに。


それなのに、何を話せばいいのか分からなかった。


どんなふうに笑いかけていたのか。


どんな冗談を言っていたのか。


何一つ、思い出せない。


ただ、ぎこちなく立っていることしかできなかった。


おかしい。


こんなはずじゃない。


あの頃は、もっと楽しかったはずだ。


友達もいた。


彼女もいた。


バイトもしていた。


休みの日には誰かと遊びに出かけていた。


少なくとも、今よりはずっと普通の人間だったはずだ。


なのに。


夢の中にいるのは、今の俺だった。


大学時代の姿をしているのに、中身だけが今の俺なのだ。


長いこと誰ともまともに話していない。


人と会うことを避けてきた。


笑うことも、冗談を言うことも、いつの間にか忘れてしまった。


そんな俺が、あの頃の世界に突然放り込まれても、何もできなかった。


目の前には、あんなに戻りたかった日常がある。


なのに、俺だけがその中に入っていけない。


友達の笑い声が、だんだん遠くなっていった。


*


目が覚めた。


いつもの天井。


いつもの部屋。


いつものベッド。


「……なんだ、夢か」


しばらく天井を見つめていた。


妙に鮮明な夢だった。


あんなに昔のことなのに、友達の顔も、彼女の表情も、はっきり覚えている。


それにしても、不思議なものだ。


あの頃は確かに楽しかった。


それは間違いない。


でも、今の俺があそこに戻ったら、また同じように楽しめるのだろうか。


長い時間をかけて、俺は変わってしまったのか。


それとも、もともとこういう人間だったのか。


大学時代は周りに人がいたから、なんとなく普通の人間として振る舞えていただけなのかもしれない。


今となっては、もう分からない。


ただ、一つだけ気になることがあった。


「……あいつら、今どうしてるんだろう?」


急に興味が湧いてきた。


そうだ。


調べてみよう。


幸い、時間ならいくらでもある。


自由なのだから。


スマホを手に取った。


まずは、昔の彼女だ。


名前も覚えている。


顔だって、さっきの夢のおかげではっきりと思い出せる。


検索欄に名前を入力する。


検索。


「……あれ?」


出てこない。


漢字を変えてみる。


大学名を追加してみる。


それらしいアカウントをいくつか開いてみる。


「うーん……違うなあ」


結局、見つからなかった。


まあ、結婚して名字が変わっているのかもしれない。


そもそもSNSをやっていない可能性だってある。


「……残念」


少しだけ期待していただけに、拍子抜けした。


でも、せっかくだ。


ほかの友達も調べてみよう。


そこで、俺は重大な問題に気づいた。


名前が思い出せない。


顔は分かる。


あの教室で、いつも俺の近くに座っていた男。


よく一緒に飯を食っていた。


くだらない話もした。


顔なら今でも鮮明に浮かぶ。


でも名前が出てこない。


「田中……じゃないよな」


「鈴木……いや、違う」


「なんだったっけ……」


俺は頭の中で、あ行から順番に名字を並べ始めた。


あ、い、う、え、お。


か、き、く、け、こ。


……。


「いや、待てよ」


確か「お」がついていた気がする。


小野?


大野?


小川?


「……小田!」


そうだ、小田だ!


「うわ、懐かしいw」


思わず一人で笑ってしまった。


そうだよ、小田!


なんで忘れていたんだ。


早速、大学名と名前を組み合わせて検索してみた。


すると、それらしいSNSのアカウントが見つかった。


プロフィール写真を開く。


「おおお! 小田じゃん!」


少し老けた気もするが、間違いない。


あの小田だ。


プロフィールを見る。


「へえ……銀行で働いてるのか」


立派なものだ。


投稿には仕事のことや、休日の過ごし方が書かれていた。


朝早く起きて運動をしているらしい。


健康に気を遣った食事の写真も載っている。


「意識高えなあw」


思わず笑ってしまった。


でも、なんだか嬉しかった。


懐かしい友達が元気に暮らしている。


それだけで、少し温かい気持ちになった。


次は誰だ?


あいつもいたな。


確か、あいつは……。


名前を思い出して検索する。


「え、市役所?」


別の友達は公務員になっていた。


さらに別の友達は、どこかの会社で役職に就いているらしい。


「みんなすげえなあ……」


そうだ。


大学名でまとめて調べたら、もっと見つかるかもしれない。


卒業生。


同窓会。


大学名と卒業年度。


いろいろ検索しているうちに、一枚の写真を見つけた。


同窓会の集合写真だった。


「おお、同窓会やってたんだw」


写真を拡大する。


「うわ、こいついたなあ!」


「この人、名前なんだったっけ?」


「あ、こいつ全然変わってねえw」


懐かしい顔が次々と出てくる。


みんな、楽しそうに笑っていた。


肩を組んでいるやつ。


昔と変わらない笑顔のやつ。


すっかり大人びた顔になっているやつ。


その一人一人を、俺は時間をかけて眺めた。


気がつけば、笑っていた俺の口元は、いつの間にか動かなくなっていた。


写真の中に、俺はいない。


当たり前だ。


俺は大学を中退している。


卒業生でもないし、同窓会に呼ばれる理由もない。


別に、誰かを恨んでいるわけじゃない。


でも。


「……俺も、あそこにいたのかな」


もし大学を辞めていなかったら。


もし、あの頃のみんなと同じように卒業していたら。


この写真のどこかで、俺も笑っていたのだろうか。


そんなことを考えてしまった。


画面を閉じようとして、ふと別の投稿が目に入った。


「え、この人、海外で働いてるの?」


昔、同じ講義を受けていた学生だった。


今は海外で仕事をしているらしい。


「すげえ……」


その投稿をしばらく眺めたあと、俺はスマホを置いた。


ふぅ、と息を吐く。


部屋は静かだった。


さっきまで、あんなに懐かしくて楽しかったのに。


今は、妙に胸のあたりが重い。


「……なんなんだろうな」


思い返せば、俺たちは同じ大学に入学した。


同じ入学試験を受けた。


同じように合格して、同じ教室で講義を受けていた。


もちろん、全員が同じ能力だったわけじゃない。


それくらいは分かっている。


でも、そこまで大きな差があったとも思えない。


少なくとも、あの頃の俺は、彼らと同じ場所にいた。


同じレールの上を走っていた。


それなのに。


今はどうだ。


銀行で働いているやつ。


市役所で働いているやつ。


海外で活躍しているやつ。


そして俺は。


今日もゲームをして、動画を見て、昼寝をしていた。


「……はは」


笑ってみた。


全然おかしくなかった。


スマホをもう一度手に取る。


小田の投稿が表示された。


朝のランニング。


健康的な朝食。


今日も一日頑張ろう、という短い文章。


その投稿がされた時間、たぶん俺は寝ていた。


「……そりゃ、差もつくよな」


小さく呟いた。


あいつらが毎日何かを積み重ねている間、俺は何をしていた?


何かを始めようと思っても、面倒くさくなってやめた。


働こうと思っても、嫌になってやめた。


人と関わることも、いつの間にか避けるようになった。


そして、何もしないことを自由と呼んでいた。


俺はダメなやつだ。


本当に、どうしようもないやつだ。


でも。


「……あの頃は違ったんだよな」


少なくとも、あの頃の俺は、こんな生活をしていなかった。


友達がいた。


彼女がいた。


バイトにも行っていた。


自分から誰かを誘って遊びに出かけることだってあった。


何より、明日が来ることを嫌だと思っていなかった。


ふと、昔聞いた言葉を思い出した。


朱に交われば赤くなる。


そうだ。


人間は、周りの環境に影響される。


もし、もう一度あの場所に戻れたら。


もう一度、あいつらと同じ教室で過ごせたら。


きっと、俺だって変われる。


今の俺には、あの頃にはなかった後悔がある。


何がいけなかったのか、少なくとも少しは分かっているつもりだ。


だったら、今度こそ。


「あの頃に……戻りたいなあ」


口に出してみた。


当然、何も起こらない。


分かっている。


そんなこと、できるわけがない。


時間は戻らない。


人生はやり直せない。


そんなことくらい、俺だって知っている。


でも。


もし、戻れたら。


あの頃の友達と、もう一度笑いたい。


初めて付き合った彼女と、もう一度デートしたい。


大学をちゃんと卒業したい。


そして今度こそ、みんなと同じように、自分の人生を歩いてみたい。


「あの頃に戻りたい……」


さっきよりも、強く思った。


「本当に……戻りたい……」


そのときだった。


「そうか」


「うわあああああっ!?」


突然、背後から声がした。


俺は反射的に飛び上がった。


心臓が、ものすごい勢いで鳴っている。


なんだ!?


誰だ!?


慌てて振り向く。


すると、机の前に置いていた椅子に、一人の老人が座っていた。


「……は?」


白い髪に、少し伸びた白いひげ。


くたびれた上着を羽織った、どこにでもいそうな老人だった。


いや、どこにでもいそうだからこそ怖い。


ここは俺の部屋だ。


しかも、さっきまで誰もいなかった。


「だ、誰ですか!?」


老人は答えない。


「いや、ちょっと! どうやって入ったんですか!?」


俺は玄関のほうを見た。


鍵は閉まっている。


窓も閉まっている。


そもそも、人が入ってくれば気づくはずだ。


老人はそんな俺を気にする様子もなく、ただ静かにこちらを見ていた。


そして、ゆっくりと口を開いた。


「お前は、昔に戻りたいのか」


「……え?」


一瞬、頭が真っ白になった。


今、なんて言った?


昔に戻りたい?


それは、さっき俺が考えていたことだ。


いや、口にも出していた。


まさか聞かれていたのか?


「な、なんでそれを……」


「戻りたいのだな」


老人は同じことを繰り返した。


俺は少し迷ってから、小さくうなずいた。


「……はい」


なぜか、素直に答えてしまった。


「戻りたいです。できることなら、本当に……」


老人はしばらく俺を見つめていた。


そして、何の前触れもなく言った。


「ならば、まず百万円を貯めてみせろ」


「…………え?」


百万円?


「……百万円って、お金の?」


老人は何も言わない。


「えっと……それを貯めたら、どうなるんですか?」


返事はない。


「もしかして……大学時代に戻れるってことですか?」


俺は思わず身を乗り出した。


「本当に!? 百万円貯めたら、人生をやり直せるんですか!?」


老人は立ち上がった。


「あ、ちょっと! まだ聞きたいことが――」


次の瞬間。


消えた。


「…………は?」


文字どおり、消えた。


歩いて出ていったわけじゃない。


ドアを開けたわけでもない。


そこに立っていた老人が、まるで最初から存在しなかったかのように、忽然と姿を消したのだ。


「……えええええ!?」


俺は慌てて椅子に近づいた。


誰もいない。


机の下を覗く。


いない。


押し入れを開ける。


もちろん、いない。


「……なんだよ、これ」


しばらく部屋の真ん中に立ち尽くしていた。


夢なのか?


いや、さっき昼寝から起きたばかりだ。


スマホを確認する。


画面には、懐かしい同級生たちの写真が表示されたままだった。


現実だ。


少なくとも、俺にはそうとしか思えなかった。


だとしたら、あの老人は何者なんだ?


鍵のかかった部屋に突然現れて、突然消えた。


しかも、俺の願いを知っていた。


「……神様?」


そう呟いてみた。


ありえない。


普通に考えたら、ありえない。


でも、あんなことができる存在を、ほかに何と呼べばいいんだろう。


そして、俺の頭の中には、さっきの言葉が何度も繰り返されていた。


百万円を貯めてみせろ。


百万円。


「……マジかよ」


思わず笑ってしまった。


百万円なんて、今の俺には途方もない金額だ。


でも、考えてみれば、決して不可能な金額じゃない。


働けばいい。


働いて、節約して、少しずつ貯めればいい。


たったそれだけで、あの頃に戻れるかもしれない。


友達と笑っていた日々。


初めての彼女とのデート。


くだらないことで盛り上がった大学の教室。


そして、あの頃には当たり前のようにあった未来。


全部、もう一度やり直せるかもしれない。


「……やってやる」


自然と言葉が出た。


働くのは嫌いだ。


人と関わるのも苦手だ。


外に出るのだって、正直面倒くさい。


でも、あの頃の俺にはできていた。


だったら、今の俺にだってできるはずだ。


「百万円……絶対に貯めてやる」


誰もいない部屋で、そう宣言した。


返事はない。


当然だ。


それでも、なぜだか少しだけ笑えてきた。


こんな気持ちになるのは、いつ以来だろう。


俺には時間がある。


嫌になるほど、時間がある。


今まで、その時間をどうやって潰すかばかり考えていた。


でも、明日からは違う。


まずは仕事を探そう。


何だっていい。


コンビニでも、配送でも、工場でも。


働いて、金を稼いで、百万円を貯める。


そうしたら、あの頃に戻れる。


もう一度、人生をやり直せる。


気がつけば、さっきまで面倒くさいとしか思えなかった明日が、少しだけ待ち遠しくなっていた。


何年ぶりだろう。


こんな気持ちになったのは。


その夜、俺は久しぶりに、明日が来るのを楽しみにしていた。


まさか、その明日を何度も恨むことになるとは、このときは思いもしなかった。

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