第九章 帰る場所になってくれますか
魔獣襲来の一件から、数日が経った。
王都はすっかり平穏を取り戻し、村の被害も、王家からの支援によって着々と復旧が進んでいる。
その日の午後、ヴィオラはルシアンに呼ばれ、王城の庭園を訪れていた。
案内された場所を見て、ヴィオラは思わず足を止めた。
白いガゼボ。整えられた花壇。あの日と、同じ庭園だった。
「ここは――」
「覚えていますか」
ルシアンが、柔らかく微笑んだ。
「私たちが、初めて言葉を交わした場所です」
「忘れるはずがありません」
ヴィオラは、小さく笑った。
「殿下の指が、切れていた場所ですから」
「あの時のあなたの台詞は、今でもよく覚えています」
ルシアンは、少し照れたように目を伏せた。
「『それは、殿下ご自身を犠牲にしていい理由にはなりません』」
「まさか、そんな昔のことまで」
「忘れられるはずがありません。私にとって、あれが全ての始まりだったので」
二人は、あの日と同じベンチに、並んで腰を下ろした。
夕暮れには、まだ少し早い時間。庭園には、穏やかな午後の光が満ちていた。
「今日、あなたを呼んだのは」
ルシアンは、少し緊張した面持ちで切り出した。
「きちんと、伝えたいことがあったからです」
「はい」
「魔獣の一件で、あなたは私に『必ず帰ってきてください』と言ってくれました。あの言葉が、どれだけ私を支えてくれたか――」
ルシアンは、一度言葉を切った。
「あの言葉があったから、私は、無事に帰ってこられたのだと思っています」
「それは、殿下ご自身のお力です」
「いいえ」
ルシアンは、はっきりと首を振った。
「以前の私は、誰かを守ることしか考えていませんでした。けれど、あの日初めて思ったのです。帰らなければ、と」
ルシアンは、ヴィオラの方へ、まっすぐに向き直った。
「ヴィオラ」
「はい」
「今までのような無茶はしません。一人で事件に飛び込んだりもしません」
「殿下……」
「あなたが待っていてくださるので、私は必ず帰ります。何度でも――一生ずっと、あなたのところへ帰ってきます」
ヴィオラの目が、じわりと熱くなった。
「あなたが好きです」
その一言は、これまでのどんな長い台詞よりも、まっすぐにヴィオラの胸へ届いた。
「私の、帰る場所になってくれますか」
夕暮れの光が、二人を静かに照らしていた。
ヴィオラは、しばらくの間、何も言えなかった。込み上げてくるものが多すぎて、言葉にするのに、少し時間が必要だった。
「殿下」
「はい」
「私は、殿下の優しさが嫌なのではありません」
ヴィオラは、ゆっくりと、けれどはっきりと言葉を紡いだ。
「その優しさを持った、あなた自身が好きなのです」
ルシアンの目が、大きく見開かれた。
「不器用で、自分のことを後回しにしがちで、時々放っておけなくて――それでも、誰かのために本気で動ける、そのあなたが」
ヴィオラの声も、少しずつ震え始めていた。
「私は、殿下だから好きになったのではありません。ルシアンだから、好きになりました」
「ヴィオラ……」
「――ええ」
ヴィオラは、まっすぐにルシアンを見つめて頷いた。
「私が、あなたの帰る場所になります」
ルシアンの表情が、これまで見たどの瞬間よりも、大きく崩れた。安堵と、喜びと、少しの涙が入り混じった、飾らない顔だった。
「でも」
ヴィオラは、少しだけ悪戯っぽく付け加えた。
「約束してください。本当に、ちゃんと帰ってきてくださいね?」
「もちろんです」
ルシアンは、涙を堪えながら、それでも笑った。
「何度でも、誓います」
風が、庭園の花の香りを運んでくる。
あの日、この場所で、ヴィオラはルシアンの傷ついた手を取った。
そして今、この場所で。
ルシアンが、そっとヴィオラの手を取った。
「――ずっと、大切にします」
守られる側だったルシアンと、守る側だったヴィオラ。
その手は今、どちらが守っているのでもなく、ただ静かに、重なっていた。
夕暮れの庭園に、二人だけの静かな時間が流れていた。




