第八章 必ず帰ると誓う
ルシアンが公務に復帰してから、ひと月が過ぎた。
傷跡はまだ残っていたが、日常はすっかり元に戻っている。ヴィオラとの距離も、あの看病の日々を境に、以前よりずっと近くなっていた。
その日、ヴィオラは王城で行われる会議に、婚約者として同席していた。議題は国境地方の視察についてで、和やかな空気が流れていた。
異変が知らされたのは、会議も終わりに差しかかった頃だった。
「失礼いたします! 至急のご報告が――」
息を切らせた騎士が、会議室に駆け込んできた。
「国境の結界に揺らぎが生じ、魔獣が一体、王都近郊の村へ侵入したとの報告です!」
場が、一瞬で緊張に包まれた。
「被害の規模は」
ルシアンが、すぐに立ち上がって尋ねる。その声には、もう会議の穏やかさは残っていなかった。
「まだ確認中ですが、村の外れに炎の被害が。住民の避難が間に合っていない可能性があります!」
「近衛騎士団、第二部隊を招集。現地の駐屯騎士とも連携させろ」
ルシアンの指示は、迷いなく的確だった。
「私も現地へ向かう。馬を用意してくれ」
「殿下、危険です。ここは騎士団に――」
「指揮を執る者が現地にいなければ、判断が遅れる。それに」
ルシアンは、一瞬だけヴィオラの方を見た。
「私は、一人で突っ込むつもりはない。今回は、ちゃんと部隊として動く」
その言葉に、ヴィオラは小さく息を呑んだ。
以前のルシアンなら、真っ先に自分の身を投げ出していただろう。だが今の彼は、指揮官として、冷静に状況を見ている。
成長している。
ヴィオラは、そう確信した。
「私も参ります」
「フォルティス嬢」
「剣術の心得はあります。それに、殿下をお一人で行かせるわけにはいきません」
ルシアンは、少しの間ヴィオラを見つめ、それから小さく頷いた。
「――分かりました。ですが、私の指示には必ず従ってください」
「もちろんです」
◇◇◇
現地に着いた頃には、日が傾き始めていた。
村の外れ、木々の焼け跡から、まだ薄く煙が上がっている。魔獣は既に騎士団によって包囲されていたが、完全な制圧には至っていなかった。巨大な獣は、鱗のような皮膚に覆われ、唸り声を上げるたびに周囲の空気を震わせている。
「殿下、状況をご報告します」
現地の隊長が駆け寄ってきた。
「魔獣は現在、村の集会所付近で包囲中です。しかし――」
「しかし?」
「集会所の中に、まだ避難できていない住民がいます。老人と子どもを中心に、十数名。魔獣の目の前を突っ切らなければ、脱出できません」
ルシアンの表情が、わずかに強張った。
ヴィオラは、その横顔を見つめる。
(ここで、殿下は――)
以前の彼なら、迷わず自分一人で飛び込んでいっただろう。誰の指示も待たず、誰にも相談せず。
だが、ルシアンは、深く息を吸った。
「隊長。魔獣の注意を、東側に集中させることは可能か」
「弓兵と火矢で、一時的にであれば」
「よし。その隙に、集会所側から救出班を出す。私が先導する」
「殿下ご自身が? それは――」
「集会所への道は、村人でなければ分からない裏道がある。地図には載っていない。私は先の視察で、一度その道を歩いている」
ルシアンの声には、以前のような自己犠牲的な響きはなかった。あくまで、必要な判断としての選択だった。
「救出班は三名。私が先導し、後ろの二人が住民を安全な場所まで誘導する。無理な英雄行為はしない。約束する」
隊長は、しばらく逡巡した後、頷いた。
準備が整う直前、ルシアンはヴィオラの元へ歩み寄った。
「ヴィオラ」
「はい」
「あなたは、ここに残っていてください。危険な場所には、あなたを連れていけません」
「でも」
「今回は、私一人で行かせてください」
ヴィオラは、唇を噛んだ。以前のヴィオラなら、それを止めただろう。自己犠牲を許さない、と。
だが、今のルシアンの目には、あの日のような危うさはなかった。冷静で、計算された覚悟がそこにあった。
「――分かりました」
ヴィオラは、静かに頷いた。
(怖い)
本当は、今すぐ腕を掴んで止めてしまいたかった。
(それでも)
この人が、自分で選んだ道だ。誰かを助けたいという想いを、否定してはいけない。あの医務室で、そう誓ったはずだった。
「ただし」
「ただし?」
「必ず、帰ってきてください」
ルシアンは、少しだけ目を見開いた。
「これは、お願いではありません。約束です」
ヴィオラの声は、震えていたが、はっきりとしていた。
「殿下が誰かを助けに行くことを、止めはしません。それがあなたの選んだ生き方なら。でも、必ず帰ってきてください。私は、ここで待っています」
ルシアンは、しばらくヴィオラの顔を見つめていた。
それから、これまで見たどの表情よりも、穏やかに微笑んだ。
「約束します」
その一言を残し、ルシアンは救出班と共に、闇の中へ駆けていった。
◇◇◇
東側で放たれた火矢が、夜空を赤く染める。魔獣の咆哮が響き渡り、地面が揺れた。
ヴィオラは、拳を握りしめたまま、集会所のある方角をじっと見つめていた。
時間の感覚が、どこかへ消えていた。数分だったのか、数十分だったのか、分からない。ただ、心臓の音だけが、やけに大きく聞こえていた。
(帰ってきて)
祈るように、その言葉だけを繰り返す。
やがて。
闇の向こうから、小さな灯りの列が見えた。
住民たちが、誘導されながら、一人、また一人と、安全な場所へ運ばれてくる。老人の手を引く子ども、母親に抱かれた赤子。誰もが無事だった。
そして、最後に。
「――ヴィオラ」
煤で汚れた顔のまま、ルシアンが歩いてくる。
「ルシアン様!」
ヴィオラは、駆け寄った。淑女としての礼儀も、婚約者としての体裁も、この瞬間はどうでもよかった。
「大丈夫ですか、どこか怪我は――」
「大丈夫です」
ルシアンは、少し疲れた様子ながらも、しっかりとした足取りで立っていた。
「約束通り、帰ってきました」
その言葉に、ヴィオラの目から、堪えていたものが溢れた。
「……お帰りなさい」
「ただいま、戻りました」
背後では、騎士団が魔獣の制圧を終えつつあった。犠牲者は一人も出なかったと、後に報告されることになる。
夜空には、いつの間にか、雲が晴れていた。
静かな月明かりの下で、ヴィオラはルシアンの無事な姿を、何度も何度も確かめるように見つめていた。




