第七章 名前を呼ぶだけの夜
ルシアンの怪我は、命に別状こそなかったものの、完治までには数週間を要すると診断された。
ヴィオラは、王城に泊まり込み、看病にあたることを願い出た。フォルティス侯爵は渋い顔をしたが、最終的には娘の意志を尊重した。
「私が、殿下の傍にいるべきだと思うのです」
その言葉に嘘はなかった。だが、その動機の全てが、純粋な想いだけでできているわけでもなかった。
(私のせいで、殿下は傷ついた)
式典での出来事が、頭から離れない。庇われた瞬間から、あの日の記憶がずっと付きまとっている。看病は、責任であり、償いでもあった。
ルシアンの想いを、あの日ようやく否定しないと誓ったはずだった。それでも、心のどこかで、まだ自分を許しきれずにいる。
(私は、本当にこの人の傍にいていいのだろうか)
愛されることに、慣れていない。誰かに大切にされることに、まだどこか怯えている自分がいた。
◇◇◇
看病の日々は、静かに過ぎていった。
最初の数日、ヴィオラはひたすら甲斐甲斐しく世話を焼いた。包帯を替え、水差しを用意し、食事の世話をする。侍女がやると申し出ても、頑として譲らなかった。
「フォルティス嬢、そこまでしていただかなくても」
「いいえ。私がすると決めましたので」
言葉は硬い。ルシアンもそれ以上は何も言わず、ただ大人しく世話を受け入れていた。
三日目の夜、ヴィオラが包帯を替えている最中、ルシアンがふと呟いた。
「フォルティス嬢は、今も、あの日のことを気にしているのですか」
ヴィオラの手が、一瞬止まった。
「……分かりますか」
「分かります。あなたの手つきが、いつもより丁寧すぎるので」
ルシアンは、小さく笑った。
「まるで、壊れ物を扱うようです」
「殿下は、壊れ物のようなものです。少なくとも、今は」
「では、いつもは違うと?」
「いつもは、もう少し頑丈な方だと思っていました」
その返答に、ルシアンは声を上げて笑った。すぐに脇腹の痛みに顔をしかめたが、それでも笑いは止まらないようだった。
「フォルティス嬢は、本当に容赦がありませんね」
「殿下が、無茶ばかりなさるからです」
軽口を叩き合いながらも、ヴィオラの中の緊張は、なかなか解けなかった。
◇◇◇
変化が訪れたのは、看病が始まって一週間ほど経った頃だった。
その夜、ヴィオラは書物を朗読していた。ルシアンが好きだという、古い時代の英雄譚。声に出して読むうち、ヴィオラ自身も物語に引き込まれ、いつもより砕けた調子で読み進めていた。
「――こうして、王は剣を捨て、民のもとへ歩いていった。それが、この国で最初の……」
「フォルティス嬢は、朗読が上手ですね」
「本を読むのは、嫌いではありません」
「もっと聞きたいです」
その素直な言葉に、ヴィオラは少し面食らった。これまでのルシアンなら、もっと遠慮がちに、婉曲に頼んできただろう。今の言葉には、そういう飾りがなかった。
「……分かりました」
ヴィオラは、続きを読み始めた。
しばらくして、ふと顔を上げると、ルシアンが穏やかな表情でこちらを見つめていた。
「殿下?」
「いえ、続けてください」
「聞いていらっしゃいますか」
「聞いています。声を、聞いています」
その言葉の意味を、ヴィオラは深く考えないようにした。考えると、頬が熱くなりそうだったからだ。
その日を境に、二人の間の空気は、少しずつ変わっていった。
「殿下」「フォルティス嬢」という呼び方は変わらなかったが、会話の端々に、婚約者という肩書きを忘れたような、ただの二人の時間が増えていった。
ルシアンは、幼い頃の失敗談を語った。剣の稽古で泣いてしまったこと、初めての公務で言葉に詰まったこと。完璧な王太子の裏にあった、不器用な少年時代の話だった。
ヴィオラも、少しずつ自分のことを話すようになった。剣を握った時の高揚感。厨房に立つ時の安らぎ。そして、時折、理由もなく胸が痛くなること。
「私は、時々、自分でも自分がよく分からなくなります」
ある夜、ヴィオラはぽつりと呟いた。
「令嬢らしくあれと言われて育ちながら、剣を握ることをやめられなかった。侯爵家の娘として振る舞いながら、時々、理由の分からない感情に引きずられる。……変な女だと、思われても仕方ないと思います」
「そうは思いません」
ルシアンは、静かに首を振った。
「あなたは、あなたです。令嬢らしさも、剣の腕も、時折見せる不思議な影も、全部含めて、私が知っているヴィオラです」
名を呼ばれたのは、あの馬車の中以来だった。
「殿下……」
「ルシアンと、呼んでください」
「え?」
「せめて、二人きりの時だけでも」
ヴィオラは、しばらく言葉に詰まった。
「……ルシアン様」
「様も、いりません」
「それは、さすがに」
困ったように笑うヴィオラを見て、ルシアンも柔らかく笑った。
「では、少しずつで構いません」
「……はい」
◇◇◇
看病を始めて十日目の夜。
ルシアンの容体はすっかり落ち着き、床上げも近いと医師から告げられていた。
その夜、ヴィオラは看病の疲れからか、ベッドの脇に置いた椅子に座ったまま、いつの間にか眠りに落ちていた。
目を覚ましたルシアンは、しばらくの間、その寝顔をただ静かに見つめていた。
いつも凛としているヴィオラが、無防備な顔で眠っている。膝の上には、まだ開いたままの本。栞代わりに挟まれた指先が、ゆっくりと上下する呼吸に合わせて、微かに動いていた。
(この人は)
ルシアンは、痛む身体を無理に起こし、傍らの上着を、そっとヴィオラの肩にかけた。
ヴィオラは目を覚まさなかった。
ただ、小さく身じろぎして、少しだけ、ルシアンの方へ体を傾けた。
ルシアンは、その様子を見て、これまで見せたことのない、心からの笑みを浮かべた。
(あなたが、私を守ってくれた)
(今度は、私が、あなたを守る番です)
窓の外では、静かな夜が更けていく。
王太子と婚約者ではなく、ただのルシアンとヴィオラとして過ごす夜が、もうしばらく続いていた。




