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婚約破棄を望まれなかった悪役令嬢は、完璧な王太子の帰る場所になる  作者: ましろゆきな


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7/10

第七章 名前を呼ぶだけの夜

 ルシアンの怪我は、命に別状こそなかったものの、完治までには数週間を要すると診断された。


 ヴィオラは、王城に泊まり込み、看病にあたることを願い出た。フォルティス侯爵は渋い顔をしたが、最終的には娘の意志を尊重した。


「私が、殿下の傍にいるべきだと思うのです」


 その言葉に嘘はなかった。だが、その動機の全てが、純粋な想いだけでできているわけでもなかった。


(私のせいで、殿下は傷ついた)


 式典での出来事が、頭から離れない。庇われた瞬間から、あの日の記憶がずっと付きまとっている。看病は、責任であり、償いでもあった。


 ルシアンの想いを、あの日ようやく否定しないと誓ったはずだった。それでも、心のどこかで、まだ自分を許しきれずにいる。


(私は、本当にこの人の傍にいていいのだろうか)


 愛されることに、慣れていない。誰かに大切にされることに、まだどこか怯えている自分がいた。


 ◇◇◇


 看病の日々は、静かに過ぎていった。


 最初の数日、ヴィオラはひたすら甲斐甲斐しく世話を焼いた。包帯を替え、水差しを用意し、食事の世話をする。侍女がやると申し出ても、頑として譲らなかった。


「フォルティス嬢、そこまでしていただかなくても」


「いいえ。私がすると決めましたので」


 言葉は硬い。ルシアンもそれ以上は何も言わず、ただ大人しく世話を受け入れていた。


 三日目の夜、ヴィオラが包帯を替えている最中、ルシアンがふと呟いた。


「フォルティス嬢は、今も、あの日のことを気にしているのですか」


 ヴィオラの手が、一瞬止まった。


「……分かりますか」


「分かります。あなたの手つきが、いつもより丁寧すぎるので」


 ルシアンは、小さく笑った。


「まるで、壊れ物を扱うようです」


「殿下は、壊れ物のようなものです。少なくとも、今は」


「では、いつもは違うと?」


「いつもは、もう少し頑丈な方だと思っていました」


 その返答に、ルシアンは声を上げて笑った。すぐに脇腹の痛みに顔をしかめたが、それでも笑いは止まらないようだった。


「フォルティス嬢は、本当に容赦がありませんね」


「殿下が、無茶ばかりなさるからです」


 軽口を叩き合いながらも、ヴィオラの中の緊張は、なかなか解けなかった。


 ◇◇◇


 変化が訪れたのは、看病が始まって一週間ほど経った頃だった。


 その夜、ヴィオラは書物を朗読していた。ルシアンが好きだという、古い時代の英雄譚。声に出して読むうち、ヴィオラ自身も物語に引き込まれ、いつもより砕けた調子で読み進めていた。


「――こうして、王は剣を捨て、民のもとへ歩いていった。それが、この国で最初の……」


「フォルティス嬢は、朗読が上手ですね」


「本を読むのは、嫌いではありません」


「もっと聞きたいです」


 その素直な言葉に、ヴィオラは少し面食らった。これまでのルシアンなら、もっと遠慮がちに、婉曲に頼んできただろう。今の言葉には、そういう飾りがなかった。


「……分かりました」


 ヴィオラは、続きを読み始めた。


 しばらくして、ふと顔を上げると、ルシアンが穏やかな表情でこちらを見つめていた。


「殿下?」


「いえ、続けてください」


「聞いていらっしゃいますか」


「聞いています。声を、聞いています」


 その言葉の意味を、ヴィオラは深く考えないようにした。考えると、頬が熱くなりそうだったからだ。


 その日を境に、二人の間の空気は、少しずつ変わっていった。


「殿下」「フォルティス嬢」という呼び方は変わらなかったが、会話の端々に、婚約者という肩書きを忘れたような、ただの二人の時間が増えていった。


 ルシアンは、幼い頃の失敗談を語った。剣の稽古で泣いてしまったこと、初めての公務で言葉に詰まったこと。完璧な王太子の裏にあった、不器用な少年時代の話だった。


 ヴィオラも、少しずつ自分のことを話すようになった。剣を握った時の高揚感。厨房に立つ時の安らぎ。そして、時折、理由もなく胸が痛くなること。


「私は、時々、自分でも自分がよく分からなくなります」


 ある夜、ヴィオラはぽつりと呟いた。


「令嬢らしくあれと言われて育ちながら、剣を握ることをやめられなかった。侯爵家の娘として振る舞いながら、時々、理由の分からない感情に引きずられる。……変な女だと、思われても仕方ないと思います」


「そうは思いません」


 ルシアンは、静かに首を振った。


「あなたは、あなたです。令嬢らしさも、剣の腕も、時折見せる不思議な影も、全部含めて、私が知っているヴィオラです」


 名を呼ばれたのは、あの馬車の中以来だった。


「殿下……」


「ルシアンと、呼んでください」


「え?」


「せめて、二人きりの時だけでも」


 ヴィオラは、しばらく言葉に詰まった。


「……ルシアン様」


「様も、いりません」


「それは、さすがに」


 困ったように笑うヴィオラを見て、ルシアンも柔らかく笑った。


「では、少しずつで構いません」


「……はい」


 ◇◇◇


 看病を始めて十日目の夜。


 ルシアンの容体はすっかり落ち着き、床上げも近いと医師から告げられていた。


 その夜、ヴィオラは看病の疲れからか、ベッドの脇に置いた椅子に座ったまま、いつの間にか眠りに落ちていた。


 目を覚ましたルシアンは、しばらくの間、その寝顔をただ静かに見つめていた。


 いつも凛としているヴィオラが、無防備な顔で眠っている。膝の上には、まだ開いたままの本。栞代わりに挟まれた指先が、ゆっくりと上下する呼吸に合わせて、微かに動いていた。


(この人は)


 ルシアンは、痛む身体を無理に起こし、傍らの上着を、そっとヴィオラの肩にかけた。


 ヴィオラは目を覚まさなかった。


 ただ、小さく身じろぎして、少しだけ、ルシアンの方へ体を傾けた。


 ルシアンは、その様子を見て、これまで見せたことのない、心からの笑みを浮かべた。


(あなたが、私を守ってくれた)


(今度は、私が、あなたを守る番です)


 窓の外では、静かな夜が更けていく。


 王太子と婚約者ではなく、ただのルシアンとヴィオラとして過ごす夜が、もうしばらく続いていた。

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