第六章 助けなくていいのに
湖畔での静養から王都に戻って数日後。
ヴィオラはルシアンとともに、王立図書館の落成式典に出席していた。
式典自体は滞りなく進み、あとは招待客との歓談を残すのみとなっている。
回廊を歩きながら、ルシアンは招待客の一人ひとりに丁寧に言葉をかけていた。
ヴィオラは、その隣で婚約者として静かに寄り添っている。
「フォルティス嬢、少しよろしいですか」
声をかけてきたのは、見覚えのない男だった。
地味な服装をした、図書館の関係者らしき身なりをしている。
「はい。何でしょう」
ヴィオラが振り返った。
その瞬間。
男の袖口から、鈍く光る刃が覗いた。
「――!」
考えるより先に、身体が動く。
腰を落とし、身を捻る。
剣術で鍛えた反射が、身体を危険から遠ざけようとした。
だが。
「ヴィオラ!」
鋭い声が響いた。
視界の端から、誰かが飛び込んでくる。
白い正装が、目の前を覆った。
次の瞬間。
布を裂く音。
そして――赤。
「――っ!」
ルシアンだった。
自分の身体で、ヴィオラを庇っている。
「殿下!」
護衛たちがほとんど同時に男へ殺到した。
抵抗する間もなく取り押さえられ、刃が乾いた音を立てて床に落ちる。
式典の場は、悲鳴と怒号で瞬く間に混乱へ包まれた。
「殿下!」
ヴィオラは、崩れ落ちるように膝をついたルシアンを支えた。
脇腹のあたりが、赤く濡れている。
「殿下、しっかりしてください!」
「……大丈夫です」
ルシアンは痛みに顔を歪めながらも、無理に笑おうとした。
「急所は外れています」
「そんなこと……!」
「それより、あなたに怪我は?」
「私は、何ともありません」
「それなら、良かった」
それだけ言うと。
ルシアンは、ヴィオラの腕の中で静かに目を閉じた。
「殿下!」
ヴィオラの声が、回廊に響いた。
⸻
医務室の白い天井を、ヴィオラはずっと見つめていた。
処置は終わり、命に別状はない。
医師はそう告げた。
けれど。
ベッドに横たわるルシアンの顔を見ていると、胸の奥が締め付けられるように痛んだ。
(また……)
脳裏に、鮮明な記憶が蘇る。
前世。
自分を守ろうとした侍女が、賊の刃に倒れた。
血。
震える手。
何もできなかった自分。
声すら出せず、ただ立ち尽くしていた。
あの日と、同じだった。
(また、私のせいで……)
ヴィオラは震える手で口元を覆った。
どれだけ時間が経っても、この記憶は消えない。
誰かが自分のために傷つくたび。
誰かが自分を守ろうとするたび。
あの日の無力感が、何度でも蘇ってくる。
やがて。
「……フォルティス嬢」
弱々しい声が聞こえた。
「殿下!」
ヴィオラが顔を上げる。
ルシアンが、ゆっくりと目を開けていた。
「良かった……あなたは無事――」
「なぜ庇ったのですか!」
気づけば、叫んでいた。
自分でも驚くほど強い声だった。
「私なんて、助けなくていいのよ!」
ルシアンが目を見開く。
「殿下は次期国王です! あんな刃、避けようと思えば避けられたはずです。それなのに、なぜ私を庇って――」
声が震える。
目の奥が熱い。
「殿下に何かあったら、この国はどうなるのですか!」
ヴィオラは、息を詰まらせた。
「私なんかより、殿下の命の方が、ずっと――」
「ヴィオラ」
静かな声が、言葉を遮った。
ルシアンは、包帯の巻かれた脇腹を押さえながら、ゆっくりと身を起こした。
「私よりも、あなたの命の方が軽い」
その目が、まっすぐヴィオラを見つめる。
「そう思っているのですか」
「そうではなく――」
「いいえ」
ルシアンは静かに首を振った。
「今の言葉は、そういう意味です」
痛みを堪えているはずなのに、その眼差しは驚くほど揺るがなかった。
「あなたは、自分の命を軽く扱いすぎる」
「……」
「あの日、庭園で私に言ったでしょう」
ルシアンの声は穏やかだった。
「傷つけば血が出る。無理をすれば疲れる、と」
ヴィオラの唇が震える。
「それなら、あなたにも同じことが言えます」
「でも、殿下は……」
「私は、次期国王である前に」
ルシアンは、ヴィオラの目をまっすぐに見た。
「あなたを愛する一人の人間です」
ヴィオラは息を呑んだ。
その言葉を。
その意味を。
今は、素直に喜ぶことなどできなかった。
「いけません」
ヴィオラの声は、涙で震えていた。
「私は……私は、また同じことを、繰り返させてしまう」
「同じこと?」
「前世で……」
言葉が、喉につかえる。
それでも、もう止められなかった。
「私を守って、死んでいった人がいました」
ルシアンの表情が、わずかに変わる。
「その人は、最後まで私を守ろうとしてくれました。でも私は、何も返せなかった」
声が震える。
「声も出せず、ただ見ていることしかできなかった。それなのに、今また、同じことが――」
ヴィオラは、両手で顔を覆った。
「私を助けようとする人は、みんな傷つく」
涙が、指の隙間からこぼれる。
「だから……私なんて、助けなくて良かったのに」
しばらく、沈黙が続いた。
やがて。
ルシアンが、傷の痛みも構わず、ヴィオラの手をそっと取った。
「その方は」
静かな声だった。
「あなたに助けられなかったことを、恨んでいると思いますか」
「……分かりません」
「私は、そうは思いません」
ルシアンの指が、ヴィオラの手を包む。
「誰かを守ろうとする気持ちは、見返りを求めるものではないはずです」
ヴィオラは、顔を上げた。
「その方は、あなたを守れたことに、きっと意味を見出していたはずです」
「でも――」
「そして、あなたは今」
ルシアンの声が、少しだけ強くなる。
「その方の想いを、否定しようとしている」
ヴィオラは、大きく目を見開いた。
「あなたを守ろうとした人の行動を、間違いだったと言っている」
ルシアンは、まっすぐにヴィオラを見つめた。
「それは、私の想いも、同じように否定していることになりませんか」
何も言えなかった。
胸の奥で、何かが崩れていく。
自分はずっと。
大切な人が自分を守ろうとしたことを、罪悪感という形に変えてしまっていた。
その人が選んだ想いを。
その人が最後まで守ろうとしたものを。
自分の後悔で、否定していたのだ。
「私は、あなたを守れて良かったと思っています」
ルシアンは、痛みに顔をしかめながらも微笑んだ。
「後悔は、何一つありません」
「……殿下」
「だから、あなたも――」
ルシアンの手が、ヴィオラの手を少しだけ強く握る。
「どうか、私の想いを否定しないでください」
ヴィオラの目から、堪えきれなかった涙が静かにこぼれ落ちた。
「……ごめんなさい」
「謝る必要はありません」
「でも……」
「代わりに」
ルシアンは、少しだけ笑った。
「これから、私が元気になるまで。あなたにお願いしたいことがあります」
「何でしょう」
「そばにいてください」
それだけでいい。
そう言うように、ルシアンは微笑んだ。
「それだけで、十分です」
医務室の窓から、夕暮れの光が差し込んでいた。
ヴィオラは、ルシアンの手を握り返した。
「……はい」
小さく頷く。
今度は。
誰かに守られることを、拒まないために。
そして。
この人が、自分を守ろうとしてくれたことを、いつかきちんと受け止められるようになるために。
ヴィオラは、もう一度、強く頷いた。




