第五章 気づいたのは、湖のほとりで
一、舞踏会
王城の大広間に、シャンデリアの光が降り注いでいた。
婚約者として初めて臨む夜会。ヴィオラは見慣れない深紅のドレスに身を包み、慣れない緊張を押し殺しながら、会場の隅で開始の合図を待っていた。
「緊張していますか」
隣に立ったルシアンが、そっと囁いた。純白の正装に身を包んだ彼は、いつも以上に眩しく見える。
「少しだけ」
「大丈夫です。私が隣にいます」
当たり前のようにそう言われて、ヴィオラは思わず彼の顔を見た。以前のルシアンなら、もっと違う言い方をしただろう。「王太子として支えます」とか、「殿下として恥じぬよう」とか。今の言葉には、そういう肩書きの匂いがなかった。
最初のダンスは、婚約者同士で踊るのが慣例だった。
楽団の音が鳴り始め、ルシアンがヴィオラの手を取る。
ステップは決して難しくない。何度も稽古を重ねてきたものだ。それでも、彼の手のひらの体温を通して伝わってくる緊張が、ヴィオラにも移ってくる。
「殿下も、緊張なさるのですね」
「意外ですか」
「少しだけ」
「あなたの手を、ちゃんと取れているか。それだけが、さっきからずっと気になって仕方がないのです」
ルシアンは、少し困ったように眉を寄せた。自分でもなぜそんなことばかり気にしているのか、よく分かっていないような顔だった。
その様子に、ヴィオラの頬がわずかに熱を持った。
周囲の視線が二人に集まっている。令嬢たちの羨望のまなざし、貴族たちの値踏みするような目。だが、くるりとターンをする瞬間、ヴィオラの視界には、ルシアンの顔しか映らなかった。
曲が終わり、拍手が起こる。
ルシアンは礼をしながら、ヴィオラの耳元だけに届く声で囁いた。
「もう一曲、あなたと踊ってもいいですか。今度は、誰にも見られない場所で」
ヴィオラは、思わず笑ってしまった。
「王太子殿下が、公務を放り出すおつもりですか」
「一曲分だけなら、許されると思います」
その夜、二人はバルコニーで、楽団の音だけを頼りに、もう一度だけ踊った。誰の目もない場所で交わす、二人だけのステップだった。
二、花祭り
春の盛り、王都では年に一度の花祭りが開かれる。
街中に花が飾られ、露店が立ち並び、人々が笑い合う。王家の慣例で、王太子は祭りの初日に城下を巡り、民と共に祝うことになっていた。
ヴィオラは今年、初めてその同行を許された。
人混みの中、ルシアンは護衛を最小限に留め、できるだけ気さくな装いで街を歩いた。子どもたちが駆け寄れば膝をついて目線を合わせ、老婆が花を差し出せば丁寧に受け取り、露店の主人と冗談を交わす。
その姿を見ながら、ヴィオラはふと足を止めた。
(この人は――)
完璧な王太子としてではなく、ただ一人の青年として、この街の人々と向き合っている。花を受け取る仕草、子どもに笑いかける横顔、露店の主人と話す時のわずかに砕けた口調。誰に見せるためでもない、素の彼がそこにあった。
春の陽射しが、その横顔を柔らかく照らしている。
ヴィオラの胸の奥で、何かが小さく音を立てた。
言葉にできない感覚だった。焼き菓子を渡した時とも、名前を呼ばれた時とも、少し違う。もっと静かで、もっと不意打ちのような感覚。
「フォルティス嬢?」
気づけば、ルシアンがこちらを振り返っていた。
「どうかしましたか。顔が赤いようですが」
「……日差しのせいです」
ヴィオラは、慌てて視線を逸らした。
春の日差しは、確かに眩しかった。だが、頬の熱の理由が、それだけではないことを、ヴィオラ自身はまだ、はっきりと認めていなかった。
三、湖畔
花祭りから数日後、王都近郊の湖へ静養に訪れることになった。
王家の別荘は湖畔にあり、公務の合間の短い休息として、婚約者を伴っての滞在が許されている。護衛と侍女は少し離れた場所に控え、湖のほとりには、ヴィオラとルシアンの二人だけがいた。
穏やかな水面に、夕陽が反射している。
「静かですね」
「ええ」
「こういう時間は、久しぶりです」
ルシアンは、湖に浮かぶ小さな水鳥を眺めながら、ぽつりと呟いた。
「城にいると、常に誰かに見られている気がします。王太子として、正しく振る舞わなければならないと」
「今は?」
「今は、誰も見ていません。あなたの他は」
ヴィオラは、隣に座るルシアンの横顔を見た。夕陽に照らされたその顔は、いつもより無防備で、いつもより穏やかだった。
「私は、殿下がどんな顔をしていても、責めたりしません」
「知っています」
ルシアンは、小さく笑った。
「だから、あなたの隣は、居心地がいいのです」
風が水面を渡り、小さな波紋を広げていく。
ヴィオラは、湖を見つめながら、ふと自分の胸に手を当てた。
(居心地がいい、か)
この人と過ごす時間が、いつからこんなに穏やかになったのだろう。焼き菓子を渡した日。名前を呼ばれた日。花祭りで見た横顔。一つひとつの記憶が、静かに胸の中に積み重なっている。
義務として始まった婚約。恋ではないと、自分ではっきり言い切っていたはずだった。
でも。
(違う)
この胸の音は、責任感でも、正義感でもない。
ルシアンが笑うと嬉しい。ルシアンが苦しそうにしていると、自分の胸まで痛くなる。ルシアンの横顔を見ていると、時間を忘れてしまう。
それはもう、とっくに――
「フォルティス嬢?」
ルシアンの声に、ヴィオラは我に返った。
「どうかしましたか。急に静かになって」
「……いえ」
ヴィオラは、小さく首を振った。今はまだ、うまく言葉にできそうになかった。
「少し、風が心地よくて」
「そうですね」
ルシアンは、それ以上追及せず、再び湖に視線を戻した。
ヴィオラは、その横顔をもう一度そっと見つめる。
(私は、この人が好きなんだわ)
自覚してしまうと、あっけないくらい簡単だった。
いつからかは、もう分からない。焼き菓子を渡した日かもしれないし、名前を呼ばれた日かもしれないし、花祭りで見た横顔かもしれない。あるいは、そのずっと前、指先の傷に気づいた、あの日から。
湖のほとりに、静かな夕暮れが満ちていく。
ヴィオラは、まだその想いを、ルシアンに伝える勇気を持てずにいた。




