第四章 好きなもの探し
「フォルティス嬢に、少しお時間をいただきたいのですが」
いつもの執務室ではなく、庭園の東屋に案内されたのは、視察から半月ほど経ったある午後のことだった。
テーブルには茶器が二人分。給仕の姿はない。護衛は少し離れた場所に控えているだけで、その場にいるのは、ヴィオラとルシアンの二人きりだった。
「珍しいですね。侍女もいらっしゃらないなんて」
「少し、二人で話がしたくて」
ルシアンは自らポットを傾け、ヴィオラのカップに紅茶を注いだ。手つきは慣れている。おそらく、これまで誰かに淹れさせることはあっても、自分で誰かに淹れたことは、あまりなかったのだろう。
「今日は、公務の話ではありません」
「では、何のお話でしょう」
「――フォルティス嬢のことを、もっと知りたいのです」
ヴィオラは、思わずカップを持つ手を止めた。
「私の、ことを?」
「ええ。婚約してから、私はあなたのことをほとんど知らないと気づきました。好きな色も、好きな食べ物も、休日に何をして過ごすのかも」
ルシアンは少し照れくさそうに続けた。
「王太子妃教育の資料には、フォルティス嬢の剣術の腕前や、社交界での評判は書かれています。ですが、あなた自身が何を好きなのか、何をしている時に一番楽しそうなのか――そういうことは、どこにも書かれていませんでした」
ヴィオラは、少しの間、言葉に詰まった。
(そんなことを、聞かれたのは初めてだわ)
これまで誰も、彼女に「何が好きか」を尋ねたことはなかった。フォルティス侯爵家の令嬢として、剣が使えること、礼儀作法ができること、家のために役立つこと。求められるのはいつもそういうことばかりだった。
「……好きな色は、緑です。父の剣の柄に使われている色で、小さい頃から見慣れているからだと思います」
「緑、ですか」
「食べ物は、甘いものより塩気のあるものが好きです。あまり令嬢らしくないと母にはよく叱られます」
「それは、意外です」
ルシアンは、興味深そうに目を細めた。
「休日は――剣の稽古をしているか、厨房で何かを作っているか、そのどちらかです。あまり優雅な過ごし方ではありませんね」
「いいえ」
ルシアンは、はっきりと首を振った。
「あなたらしいと思います」
その一言に、ヴィオラは少しだけ驚いた。令嬢らしくない、はしたない、と言われ慣れていた自分を、そのまま肯定されたのは、これも初めてのことだった。
◇◇◇
それから、ルシアンは変わった。
執務の合間に、さりげなくヴィオラのことを尋ねるようになった。好きな花、好きな音楽、苦手なもの。一つひとつを、まるで大切な情報を集めるように、丁寧に聞き出していく。
ヴィオラは最初、少しくすぐったいような気持ちでそれに応えていたが、次第にルシアンの様子が、これまでと少し違うことに気づき始めた。
彼は、何かを「与える」ときの顔が変わった。
以前のルシアンは、誰に対しても等しく親切だった。相手が誰であれ、同じ質の優しさを、同じ丁寧さで差し出す。それは公平で、王太子として正しい在り方だった。
だが最近は、時折、様子が違う。
「フォルティス嬢。これを」
ある日、執務室を訪れると、ルシアンが小さな包みを差し出した。
「何でしょう」
「城下で見つけた菓子店の、塩味のクッキーです。以前、甘いものより塩気のあるものが好きだと仰っていたので」
ヴィオラは、目を丸くした。
「覚えていらしたのですか」
「もちろんです」
ルシアンは、少し得意げに笑った。
「他にも、緑の糸で刺繍を入れたハンカチを注文しています。仕上がりにはもう少し時間がかかりますが」
「そんな、お忙しいのに――」
「忙しくても、これは苦になりません」
ルシアンは、まっすぐにヴィオラを見た。
「むしろ、あなたが何を喜ぶかを考えている時間は、私にとって、一番気の抜ける時間なのです」
その言葉に、ヴィオラは何も返せなかった。
◇◇◇
数日後、王城で小さな慰労会が開かれた。
城下視察の成功と、孤児院への支援拡大が正式に決まったことを祝う、内輪だけの席。招かれたのはごく限られた人々で、堅苦しい儀礼は必要ないという触れ込みだった。
会が終わり、招待客が引き上げていく中、ルシアンはヴィオラをそっと庭へ誘った。
「少し、付き合っていただけますか」
案内された先には、小さなテーブルが用意されていた。その上に置かれていたのは、あの塩味のクッキーと、緑色の糸で花の模様が刺繍されたハンカチ。
「間に合ったのですね」
「ぎりぎり、間に合いました」
ルシアンは、少し照れたように笑った。
「本当は、もっと早くお渡ししたかったのですが」
「十分です。……ありがとうございます」
ヴィオラは、ハンカチを受け取り、その刺繍をそっと指でなぞった。丁寧な仕事だった。急いで頼んだにしては、ずいぶんと凝っている。
「あの」
「はい」
「なぜ、ここまでしてくださるのですか」
ヴィオラは、率直に尋ねた。
「私たちの婚約は、政略的なものです。義務として、大切にしていただければ、それで十分なはずです。それなのに、殿下は――」
「フォルティス嬢」
ルシアンが、静かに遮った。
「私はこれまで、多くのものを人に与えてきました。時間も、労力も、時には自分自身のことすらも」
その声には、これまでヴィオラが聞いたことのない響きがあった。
「けれど、それは全て、王太子としての義務からでした。誰かのために動くことが正しいから。求められているから。私が動かなければ、誰かが困るから」
「……」
「でも、あなたに何かを贈ろうとする時、私は初めて気づいたのです。義務ではなく、ただ、あなたが喜ぶ顔が見たいのだと」
ルシアンは、少し困ったように微笑んだ。
「これは、私にとって、とても不思議な感覚です。誰かのために何かをすることが、こんなにも――楽しいと感じたのは、初めてなので」
風が、庭の花の香りを運んでくる。
ヴィオラは、ハンカチを胸元にそっと抱えたまま、しばらく言葉を探していた。
(この人は、本当に何も知らないんだわ)
義務ではない優しさの与え方を。誰かのためにではなく、その人自身のために動く喜びを。
それを今、初めて知ろうとしている。
「殿下」
「はい」
「その気持ちを、どうか大切になさってください」
ヴィオラは、それだけ言うのが精一杯だった。
それ以上の言葉は、続かなかった。この感情に名前をつけるのは、自分の役目ではない気がした。
ルシアンは、しばらくヴィオラの顔を見つめていた。
それから、これまで見たどの笑顔よりも、柔らかく笑った。
「――努力します」
庭に、静かな夕暮れが降りていた。




