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婚約破棄を望まれなかった悪役令嬢は、完璧な王太子の帰る場所になる  作者: ましろゆきな


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第三章 焼き菓子ひとつぶんの距離

 婚約が正式に披露されてから、ひと月が経った。


 ヴィオラは週に三度、王城に通うようになっている。婚約者教育という名目だが、実際には作法の講師よりも、ルシアンと過ごす時間の方が長かった。


 その日も、ヴィオラは執務室の扉をノックした。


「殿下。お茶をお持ちしました」


「ああ、フォルティス嬢。ありがとうございます、そこに置いておいてください」


 顔も上げずに、ルシアンが答える。机の上には書類の山。羽根ペンを走らせる手は止まらない。


 ヴィオラはトレイを机の端に置きながら、さりげなく彼の顔を覗き込んだ。


 目の下に、薄い隈がある。


「殿下、昨夜は何時までこちらに?」


「……さあ。気づいたら朝でした」


「お食事は?」


「摂りました、確か」


「確か、というのは、摂っていないということです」


 ルシアンがようやく顔を上げた。気まずそうな、けれど隠しきれない笑みが浮かぶ。


「バレましたか」


「バレるも何も、殿下は隠すのが下手すぎます」


 ヴィオラは小さくため息をつくと、トレイの隅に置いていた包みを差し出した。


「これを。侯爵邸の厨房で焼いてもらったものです。手が空いた時にでもどうぞ」


 包みを開くと、素朴な焼き菓子が並んでいる。宮廷の菓子職人が作るような繊細な細工はない。木の実の入った、少し不揃いな焼き色のクッキーだった。


 ルシアンは、それをしばらく見つめていた。


「……フォルティス嬢が?」


「侯爵家の厨房で焼いてもらったものです」


「頼んだだけ、ですか?」


 ルシアンは、まっすぐにヴィオラを見た。答えを急かすでもなく、ただ、じっと待っている目だった。


「……」


「フォルティス嬢?」


「……少しだけ、手伝いました」


 ヴィオラは目を逸らした。実際には、生地をこねるところから最後の型抜きまで、ほとんど自分でやったのだが、それを大袈裟に言うつもりはなかった。侯爵家の令嬢が厨房に立つなど、あまり褒められたことではないと分かっている。


 ルシアンは、それ以上追及しなかった。


 ただ、包みをそっと引き寄せると、大切なものを扱うように、丁寧に机の引き出しへとしまった。


「殿下? 今食べないのですか」


「後で、いただきます」


「せっかくお持ちしたのに」


「……いえ」


 ルシアンは少し困ったように微笑んだ。


「今食べると、涙が出そうなので」


 冗談めかした口調だったが、その目は本当に少しだけ潤んでいるように見えた。


 ヴィオラは、それ以上何も言えなかった。


 ◇◇◇


 三日後、ヴィオラはルシアンと共に城下視察に赴くことになった。婚約者として、初めて公務に同行する日だ。


 馬車の中、ルシアンは丁寧に今日の予定を説明した。孤児院の慰問、市場の視察、そして商人たちとの面談。分刻みのスケジュールだった。


「殿下、昼食のお時間は」


「入っていません」


「……入れましょう」


「大丈夫です。慣れています」


 ヴィオラは眉を寄せたが、それ以上は言わなかった。今は彼を叱る場面ではない。


 視察は順調に進んだ。孤児院では子どもたちに囲まれ、ルシアンは疲れも見せず一人ひとりに声をかけていた。市場では商人たちの話に丁寧に耳を傾け、時には冗談を交えて場を和ませる。


 完璧な王太子。


 その姿を見ながら、ヴィオラはずっと、彼の顔色を観察していた。


 昼を過ぎたころ、ルシアンの笑顔にわずかな翳りが見え始めた。声の張りが、少しだけ弱くなっている。誰も気づかないくらいの、本当にわずかな変化。


(そろそろ、限界のはず)


 次の予定と予定の間、ほんの十数分の空き時間。ルシアンが馬車に戻ったところで、ヴィオラは懐から包みを取り出した。


「殿下」


「フォルティス嬢? どうかしましたか」


「これを」


 差し出したのは、あの日と同じ、素朴な焼き菓子だった。今日のために、朝早く起きて焼いたものだ。


「昼食は入っていないと仰っていましたが、次の面談まで、何も召し上がらないおつもりですか」


「……いえ、それは」


「立場上、公務中に食事を摂れないことがあるのは分かります。でも、これくらいなら、誰にも咎められないはずです」


 ルシアンは、包みとヴィオラの顔を交互に見た。


「馬車の中でなら、誰の目もありません。召し上がってください」


 しばらくの沈黙。


 ルシアンは、静かに包みを受け取った。


 一つ、口に運ぶ。木の実の粒が、かちり、と小さな音を立てる。


「……美味しいです」


「良かった」


「本当に、美味しい」


 その声が、少し震えていることに、ヴィオラは気づいた。


「殿下?」


「すみません」


 ルシアンは焼き菓子を握ったまま、少しだけ俯いた。


「誰かが、私のために――王太子としてではなく、ただ、私のために、こういうことをしてくれたのは。多分、初めてです」


 ヴィオラは何も言わなかった。


 ただ、彼の言葉の意味を、静かに受け止めた。


 王族として生まれ、完璧であることを求められ続けた人。誰もが彼に何かを求め、彼はそれに応え続けてきた。だが、彼自身のために動いてくれる人は、これまでいなかったのだろう。


「胸がいっぱいなので」


 ルシアンは、残りの焼き菓子をそっと布に包み直した。


「続きは、自室で一人の時にいただきます。今食べると、きっと、みっともないところをお見せしてしまうので」


「みっともなくなど」


「いいえ」


 ルシアンは、笑った。今度は、作られた笑顔ではなかった。


「今の私は、きっとひどい顔をしています」


 その言葉に、ヴィオラは思わず彼の顔を見つめた。


 目元が、赤い。


 王太子としての仮面の下に、確かに一人の青年がいる。ヴィオラにとってはそれは、初めて出会った日から、ずっとそこにあると分かっていたものだった。


 けれど、ルシアン自身がそれを誰かに見せたのは、これが初めてなのかもしれない。


「――次は、もっとたくさん焼いてきます」


 ヴィオラは、そう言うのが精一杯だった。


「楽しみにしています」


 馬車の外から、次の予定を知らせる声がかかる。ルシアンはすぐに背筋を伸ばし、いつもの完璧な微笑みを纏い直した。


 だが、馬車を降りる直前、ヴィオラにだけ聞こえるくらいの小さな声で、彼はもう一度呟いた。


「ありがとうございます、ヴィオラ嬢」


 名を呼ばれたのは、初めてだった。


 ヴィオラは、しばらくその場から動けなかった。

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