第二章 婚約者候補
フォルティス侯爵邸に、王家からの使者が訪れたのは、お茶会から十日後のことだった。
応接間に通されたヴィオラは、父の傍らに座り、使者が差し出す封書を見つめていた。金の封蠟に刻まれているのは、セレスティア王家の紋章。
「――ヴィオラ・フォルティス嬢を、王太子殿下の婚約者として、正式にお迎えしたく存じます」
使者が読み上げる声は、やけに遠くから聞こえた。
父の表情が固まる。母は口元を押さえた。兄は使者と父の顔を交互に見て、何か言いたげに眉を寄せている。
ヴィオラ自身は、しばらくの間、言葉の意味がうまく頭に入ってこなかった。
(候補、ではなく……もう、決まっているというの?)
王太子の婚約者は、通常であれば複数の候補の中から時間をかけて選定される。だが今回の使者の口ぶりに、選定の過程を経る余地はなかった。
「王妃陛下より、フォルティス嬢を、と直々のご指名でございます。他の候補の方々には、後日改めてご説明があるとのことです」
迷いのない、一方的とすら言える決定だった。
ヴィオラは膝の上で、拳をそっと握った。
◇◇◇
使者が帰った後、応接間には重い沈黙が落ちた。
「……本当に、良いのか」
最初に口を開いたのは父だった。いつも豪快で、剣を握れば誰にも負けない威厳を見せる父が、今は珍しく歯切れの悪い声を出している。
「ヴィオラ。お前が望まないなら、辞退することもできる。王家相手に無礼だと思われるかもしれないが、私が頭を下げれば済む話だ」
「お父様」
「王太子殿下がどのようなお方かは、私も噂でしか知らない。だが、お前を政治の道具のように差し出すつもりは、フォルティス家にはない」
父の言葉に、母も静かに頷いた。
「そうよ、ヴィオラ。あなたの人生だもの。私たちのために、無理をする必要はないの」
兄は何も言わなかったが、その目には妹を案じる色がはっきりと浮かんでいた。
愛情深い家族だ。ヴィオラは改めてそう思う。前世の記憶を持つ自分にとって、この家族の温かさは、時に少し眩しすぎるくらいだった。
だからこそ。
「――お受けします」
ヴィオラは、迷いのない声でそう言った。
三人が、驚いたようにヴィオラを見る。
「本当に良いのか。お前は、殿下のことをまだよく知らないだろう」
「ええ。よく知りません」
ヴィオラは正直に答えた。
「でも、悪い方ではないと思います。少なくとも、私利私欲で誰かを傷つけるような方ではない。それだけは、あの日、確かに感じました」
お茶会での出来事を思い出す。侍女の火傷を気遣い、自分の指の傷には気づきもしない、あの不器用な優しさ。
(あれは、演技でできるようなものではないもの)
「それに」
ヴィオラは続けた。
「フォルティス家が、王家からの正式な指名を断れば、家として角が立ちます。お父様が謝罪して済む話ではないかもしれません。だったら、私が受ける方が、みんなにとって波風が立たない」
「ヴィオラ、それは――」
「恋をしているわけではありません」
ヴィオラは、はっきりと言った。
「今はまだ。でも、責任として引き受けることに、迷いはありません。これは、私が選んだことです。お父様やお母様のためだけではなく」
沈黙が落ちる。
父はしばらくヴィオラの顔を見つめていたが、やがて、諦めたようにも、どこか誇らしげにも見える表情で、小さく息を吐いた。
「……お前は昔から、そうやって、自分で決めたことは曲げないな」
「お父様に似たんだと思います」
「そうか」
父は苦笑した。母はまだ心配そうな顔をしていたが、それ以上は何も言わなかった。
◇◇◇
その夜、自室のベッドに横たわりながら、ヴィオラは静かに天井を見つめていた。
(王太子妃、か)
実感が、まるで湧かない。
恋愛感情があるわけではない。ただの興味本位でもない。強いて言うなら――あの日、庭園で見た指先の傷が、ずっと頭から離れないだけだ。
(あの人は、多分、誰にも気づかれないまま、ずっとああやって生きてきたんだわ)
誰かのために動くことが当たり前になりすぎて、自分自身の痛みにさえ鈍くなっている人。
前世の記憶が、ふと蘇る。
守られていたのに、何も返せなかった自分。目の前で犠牲になった人に、感謝の言葉すら伝えられなかった、あの後悔。
(今度は、見て見ぬふりはしない)
それが恋なのか、ただの正義感なのか、ヴィオラ自身にもまだわからない。
けれど、フォルティス家の令嬢として、王太子の婚約者として、これから自分がすべきことは、はっきりしていた。
(あの人を、放っておきたくない)
それだけは、はっきりしていた。
変えてあげたいとか、教えてあげたいとか、そういう大それたことではない。ただ、あの不器用な優しさを、今度は見過ごしたくない。それだけだった。
まだ輪郭のはっきりしない想いを胸に、ヴィオラは目を閉じた。
◇◇◇
数日後、婚約を国内外に披露するための謁見の場が設けられた。
王家からの指名はすでに受けている。だが、こうして本人同士が正式に顔を合わせるのは、あのお茶会以来のことだった。
謁見の間に呼ばれたヴィオラは、両親と共に、国王夫妻、そしてルシアンの前に立った。
王妃は柔らかく微笑んでいる。国王は威厳ある表情の中に、どこか興味深げな色を浮かべていた。
そして、ルシアンは。
「フォルティス嬢」
名を呼ぶ声は、以前よりわずかに柔らかい気がした。
「このたびは、私の婚約者となることをお受けくださり、感謝します」
「――こちらこそ、身に余る光栄です」
型通りの礼を返しながら、ヴィオラはちらりとルシアンの手元に視線をやった。
あの日の傷は、もう跡形もない。
ただ、彼の指には、あの時ヴィオラが巻いたハンカチの色を思い出させるような、淡い青のリボンが、さりげなく袖口に結ばれていた。
偶然だろうか。
それとも。
ヴィオラが視線を上げると、ルシアンと目が合った。彼はほんの一瞬、悪戯を見つかった子どものような表情を見せ、それからすぐに、いつもの完璧な微笑みに戻った。
(……何なのよ、あれは)
ヴィオラは、こっそりと眉を寄せる。
まだ何も始まっていない。恋でもなければ、確かな絆でもない。
けれど。
これから始まる日々が、決して単調なものにはならないだろうという予感だけは、この瞬間、ヴィオラの中に確かに芽生えていた。




