第一章 「それは、殿下ご自身を犠牲にしていい理由にはなりません」
王城の庭園に案内された瞬間、ヴィオラ・フォルティスは小さくため息をついた。
招待状には「王太子殿下の婚約者候補として、ぜひご参加を」と書かれていた。フォルティス侯爵家の令嬢として、断るという選択肢は最初から存在しない。だが、正直なところ気が進まなかった。
王妃主催のお茶会。集められた令嬢は十数名。誰もが着飾り、頬を上気させ、緊張と期待の入り混じった顔でその時を待っている。
ヴィオラだけが、少し違う感情でその場に立っていた。
(面倒なことになったわ)
フォルティス侯爵家は武門の家系だ。社交界の華やかさとは縁遠く、剣を握る手に薔薇の香りは似合わない。それなのに、なぜ自分が王太子の婚約者候補などに選ばれたのか。ヴィオラ自身、いまだに腑に落ちていなかった。
庭園の中央、白いガゼボの下に、彼はいた。
ルシアン・セレスティア。セレスティア王国の第一王子にして王太子。
輝くような金髪に、澄んだ空色の瞳。優雅な仕草の一つひとつに気品が滲み、口元にはいつも柔らかな笑みが浮かんでいる。誰に対しても分け隔てなく礼を尽くし、令嬢たちの他愛のない話にも真剣に耳を傾ける。
「まあ、殿下ったら」
「本当にお優しい方……」
周囲の令嬢たちが頬を染めてささやき合う。ヴィオラは少し離れた場所で紅茶のカップを傾けながら、その光景を静かに眺めていた。
(噂通り、完璧な王子様、というわけね)
カップを持つ手が、少しだけ止まる。
完璧すぎるものを見ると、いつも同じ違和感を覚える。ヴィオラはそれが何なのか、自分でもまだ言葉にできずにいた。
そのとき、庭園の端で小さな悲鳴が上がった。
給仕をしていた若い侍女が、足を滑らせて倒れ込んだのだ。手にしていた銀のトレイが転がり、陶器のポットが割れる乾いた音が響く。熱い紅茶が侍女の腕にかかったらしく、彼女は顔を歪めて手を押さえた。
「申し訳ございません……! 申し訳ございません……!」
真っ青になって謝罪する侍女。周囲の令嬢たちは眉をひそめ、あるいは興味なさげに視線を逸らす。この国でも、使用人の失態は厳しく罰せられることが珍しくない。
誰よりも早く動いたのは、ルシアンだった。
「大丈夫か。火傷を見せてくれ」
王太子自らが膝をつき、侍女の腕を取る。周囲がざわめいた。侍女は恐縮しきって身を縮めるが、ルシアンはまったく気にした様子もなく、自分のハンカチを取り出すと、躊躇なく水差しの水で濡らし、火傷の上にそっと当てた。
「冷やせばじきに痛みは引く。あとで医務室へ行くように。……これは私の不注意で驚かせてしまったせいでもある。すまなかったね」
「そ、そんな……! 殿下のせいなどでは……!」
「いいから。今日はもう下がって、ゆっくり休むといい」
ルシアンは侍女を気遣うように立ち上がらせ、他の使用人に指示を出して、彼女を下がらせた。割れた陶器の片付けも自ら手伝おうとするので、慌てた侍従長が止めに入る。
「殿下、そのようなことは我々が」
「いや、私が近くにいたのだから、私がやろう」
その様子を見ていた令嬢たちから、感嘆のため息が漏れた。
「なんてお優しい……」
「使用人にまであんなに親身になられるなんて」
「さすが王太子殿下だわ」
賞賛の声が波紋のように広がっていく。ヴィオラも最初は、素直に「立派な方だ」と思った。侯爵家の教育でも、身分にかかわらず人に誠実であることは美徳とされている。
だが。
ヴィオラの目は、ある一点に吸い寄せられていた。
破片を拾うルシアンの指先。陶器の鋭い縁で、彼の指がわずかに切れている。血が一筋、白い手袋に赤い染みを作っていた。
誰も気づいていない。ルシアンは眉一つ動かさず、何事もなかったかのように破片を拾い続けている。むしろ、その痛みを表に出すことこそが「はしたない」とでも思っているかのように。
その姿に、ヴィオラは既視感を覚えた。
(……知っている。この顔)
自分のことなど後回しにして、誰かのために動く人間の顔。それが当然だと思い込み、痛みにすら気づかないふりをする顔。
脳裏に、遠い記憶がよぎる。前世で見た、誰かの背中。守られていたはずなのに、何も返せなかった自分。
ヴィオラは唇を引き結んだ。込み上げてくるのは、感動ではなく、苛立ちに近い感情だった。
気づけば、足が動いていた。
「――殿下」
声をかけると、周囲の視線が一斉に集まる。令嬢たちのささやきが止み、侍従たちが息を呑む気配がした。護衛騎士の一人が、無礼な発言がないかとでも言うように、わずかに身構えるのが見えた。
ルシアンが顔を上げる。空色の瞳が、まっすぐにヴィオラを見た。
「フォルティス嬢。どうかされましたか」
いつもの、完璧な微笑み。だがその笑みの下に隠された指先の傷を、ヴィオラは見逃さなかった。
「殿下の指、切れています」
「これくらい、大したことでは」
「大したことでは、ではありません」
ヴィオラは自分の手袋を外すと、躊躇なくルシアンの手を取り、傷口を確認した。周囲がどよめく。年頃の令嬢が、婚約者候補ですらまだ決まっていない王太子の手に、これほど無遠慮に触れるなど前代未聞だった。
だが、ヴィオラは構わなかった。
「お怪我をなさったなら、まず処置をなさるべきです。それを後回しにして、割れた食器の片付けを優先なさる必要はどこにもございません」
「しかし、私の不注意で侍女を驚かせてしまったのだから」
「侍女の失態は、殿下の落ち度ではありません。それに――」
ヴィオラは一度言葉を切った。周囲の目が痛いほど自分に突き刺さっているのを感じたが、止まらなかった。止まれなかった。
「たとえ殿下の落ち度であったとしても、ご自分を犠牲にしてよい理由には、なりません」
しん、と場が静まり返った。
令嬢たちは扇の陰で顔を強張らせ、侍従長は蒼白になっている。護衛騎士の一人が、無礼を咎めようと一歩踏み出しかけた。
「フォルティス嬢、殿下に対してその物言いは――」
「よい」
短く、しかし確かな声で、ルシアンがそれを制した。
彼はしばらくの間、驚いたようにヴィオラを見つめていた。まるで、見たことのないものを見るような目だった。
完璧な王子として賞賛されることには慣れている。優しさを称えられることにも、感謝されることにも。だが、こんなふうに――自分自身の在り方そのものを咎められたことは、一度もなかった。
「……フォルティス嬢は、面白いことを仰る」
ルシアンは小さく笑った。今までの、作られたような完璧な微笑みとは、どこか違う笑みだった。
「私は、王族として当然のことをしたまでです」
その言葉に、ヴィオラは何も答えなかった。
代わりに、ルシアンの目をまっすぐに見た。
空色の瞳が、わずかに揺れる。逸らそうとして、逸らせない。そんな沈黙が、二人の間に数秒続いた。
「王族である前に、殿下は一人の人間でいらっしゃいます」
静かな声だった。
「傷つけば血が出ますし、無理をすれば疲れます。それを誰よりも知っていらっしゃるはずなのに、まるでご自分だけは例外だと思っていらっしゃるように見えました」
言い過ぎただろうか、とヴィオラは一瞬思った。侯爵家の教育を思えば、明らかに礼を欠いた発言だ。父にでも見られていたら、後で大目玉を食らうに違いない。
だが、ルシアンは怒らなかった。
目を逸らしもしなかった。
それどころか、その空色の瞳に、これまで見せたことのない色が浮かんだ。戸惑いにも、驚きにも似た、けれど確かに温かい何か。
「……手当てを、お願いしてもよろしいですか」
差し出された手。血の滲む指先。
ヴィオラは小さくため息をつくと、自分のハンカチを取り出し、丁寧に彼の指に巻きつけた。
「次からは、ご自分のことも、少しは大切になさってください」
「善処します」
その返事に、あまり反省の色は見えなかった。ヴィオラは思わず眉を寄せる。
少し離れた場所で、その一部始終を見ていた王妃は、静かに微笑んでいた。
(この令嬢なら――)
誰もが見て見ぬふりをしてきた、我が子の危うさに、初めて気づいてくれた娘。
王妃の胸の内で、一つの決意が固まりつつあった。
ヴィオラ自身は、まだ知らない。
この日の出来事が、自分の人生を大きく動かすことになるとは。




