11 聖女ユイ
翌日、シルヴィアは教室で教科書へ視線を落としながら、わずかに眉をひそめた。
(……またか)
昨日まで一度たりとも感じることのなかった甘い香りが、時折鼻先をかすめる。
ただ、ユイとの別れ際に突然強く漂ったあの甘い香りとは違い、今日はふと思い出したように漂ってくるだけで、あの時のような濃さも勢いもない。
条件が変わったのか。それとも時間の経過によるものか。
(エリオットも常に香りを感じるわけではないと言っていたな……)
それに昨日もそうだが、ユイが魔法を使っている気配を全く感じられない。
シルヴィアは何気ない動作で教室の前方へ視線を向けた。その先では、ユイがぼんやりと窓の外を眺めている。
昨日と変わらないように見えるその姿に、シルヴィアはすっと目を細めた。
***
授業中にもかかわらず、ユイは心ここに在らずだった。
昨日の出来事が、どうしても頭から離れない。
(エリオットと一緒に編入してきた、地味な男の子だと思ってたのに……)
眼鏡を外したら、まさかあんなにも綺麗な顔をしていたなんて、思いもよらなかったのだ。
(特にあの紫の瞳……すごく素敵だった……)
思い出すだけで、自然と頬が緩んでしまう。
この世界へ来てから、格好いい人や可愛い人はたくさん見てきた。
だけど——。
(綺麗だって思った人は、初めてだったな……)
小さく息を吐き、窓の外へ視線を向ける。
(そういえば、この世界へ来てからもうすぐ半年か……)
半年前までは、まさかこんなにも幸せな毎日を送れるなんて思ってもいなかった。
突然訪れたあの日を境に、ユイの人生は大きく変わった——。
***
友達と駅前で別れ、いつも通り家へ向かって歩いていると、突然眩い光がユイの視界を覆った。
(わっ、なに……!?)
次に目を開けた時には、見たこともない場所に立っていた。目の前には巨大な石造りの城と色鮮やかな庭園が広がっている。
「……え? どこ、ここ……」
目の前の光景を理解できず、ユイはその場に立ち尽くしていた。すると、不意に背後から声がした。
「……聖女、様?」
ユイは驚いて振り返る。そこには、まるで絵本に出てくる王子様みたいな青年が、一冊の本を手に立っていた。
(……なに、この人……あり得ないくらい格好良いけど、コスプレ……? ……いや、違う)
改めて辺りを見回し、一つの考えに至る。
(……私、異世界に来たんだ……!)
その事実に衝撃を受けつつも、不安より先に胸が高鳴った。
学校へ行って、友達と他愛ない話をして、家へ帰る。そんな毎日の繰り返しが嫌だったわけじゃない。だけど、どこか物足りなかった。
だからこそ、心が弾んだ。
「……やはり、神託の通りだった」
「ええっと……」
青年の呟きに、ユイはぱちぱちと瞬きを繰り返す。
そんなユイを安心させるように、穏やかな笑みとともに、そっと手が差し出された。
「突然で驚かれたでしょう。ですが、どうかご安心ください。私はこの国の第一王子、ギルバード・クレイスと申します。私と一緒に国王に会っていただけないでしょうか?」
ユイが戸惑いながらもその手を取ると、ギルバードはもう一度ユイへ微笑みかけ、そのまま国王の元へ向かった。
国王謁見室に着くと魔力鑑定が行われ、その結果ユイが『聖女』だと判明すると、国王は大いに喜び、国の賓客として迎え入れた。
国王の元を後にして、案内された客室は圧倒されるほど豪華だった。部屋を見回していると壁際の大きな鏡が目に入り、そこに映る姿を見て、ユイは今日二度目の衝撃を受ける。
淡いピンクの髪にヘーゼルの瞳。
鏡の中には、前の世界の姿とはまるで違う可憐な少女が映っていたのだ。
(うそ……これが、私? 聖女でこの見た目なんて、もう無敵でしょ……)
こうして、ユイの異世界での生活が始まった。
美味しい食事に、綺麗なドレスや宝石。興味を示せば、なんでも与えられた。誰もがユイを特別扱いする。
さらには、第一王子であるギルバードまで、忙しい公務の合間を縫って毎日のように顔を見せ、ユイを気に掛ける様子を見せていた。
(ふふ、ギルって絶対私のこと好きだよね。まあこんなにも可愛いし無理もないか。異世界って、ほんと最高)
しばらくして学園へ通うことになり、ギルバードの側近候補である三人とも出会い、すぐに打ち解けた。
ギルバードには及ばないものの、彼らもまた人目を引くほど整った容姿をしており、そんな彼らに囲まれる日々は、ユイの心をさらに満たしていく。
他の生徒もユイが微笑みかけるだけで、誰もが嬉しそうな表情を浮かべ、好意的な態度を見せた。
『今日もお綺麗です』
『聖女様、本当に素晴らしいお方だわ』
『少しでもお話しできて嬉しいです』
そんな言葉を掛けられることが、ユイの日常になっていた。女子生徒からは憧れられ、男子生徒からは熱い視線を向けられる。
私に声をかけられて、喜ばない人なんていない。
みんなが聖女・ユイを好きになる。
それが、この世界では当たり前なのだ。
(手に入らないものなんて、何もない)
「……ユイ?」
聞き慣れた声に、ユイはゆっくりと顔を上げた。
「……え?」
目の前には、心配そうにこちらを覗き込むギルバードの姿があった。
「今日はずっとぼーっとしているようだが、大丈夫か?」
その言葉で、ユイはようやく我に返る。
いつの間にか授業は終わっており、教室中には椅子を引く音や談笑する声が響いていた。
「あっ……ごめん。ちょっと考え事しちゃってた」
「珍しいな。何か悩み事があるなら、すぐに相談してくれ」
「ううん、大丈夫。ありがとう、ギル」
ユイは笑顔で答えると、再びあの黒髪の男子生徒のことが頭に浮かんだ。
(名前は確か……シリルさん、だっけ? 話しかけに行ってみよっと)
そう思い、席を立ったところへ教師がユイのもとへ歩み寄ってきた。
「聖女様、お客様がお見えです。応接室までお越しください」
「え、私にですか?」
「はい」
「誰だろ……」
ユイは首を傾げつつ、ギルバードたちへ向き直る。
「ちょっと行ってくるね」
「ああ。また後で」
ギルバードたちに見送られ、ユイは教室を後にした。
廊下へ出ると、教師が先導するように歩き出す。放課後の校舎には、生徒たちの賑やかな笑い声があちこちから聞こえてきた。
「お客様って、どなたですか?」
「グレイソン侯爵様です」
(グレイソン侯爵様か……)
この世界へ来た聖女は、生活する上で不自由がないよう後見人を付けることが決められている。
その役目を買って出てくれたのが、国政にも深く携わるオズワルド・グレイソン侯爵だった。
学園へ通うための手続きをしてくれたのもグレイソンで、入学してからも月に一度は様子を見に来てくれるほど面倒見が良く、とても優しい。
歳も父親とそう変わらないこともあって、ユイがグレイソンに安心感を覚えるのに時間は掛からなかった。
(でも、前回会ってから1ヶ月経ってないはずだけど……どうしたんだろう)
そんなことを考えながら、ユイは教師の後に続き、応接室へと向かった。




