10 紫の瞳
ノアが倒れたと聞きつけ、シルヴィアは足早に一年生の寮へ向かった。
廊下の突き当たりにある一室。その扉を静かに開く。
「団長」
最初に振り返ったのはエリオットだった。
部屋にはすでに全員の姿があり、ベッドに横たわるノアの傍らでは、リアが椅子に腰掛けていた。目元を赤く腫らし、ノアの袖口をぎゅっと握っている。
少し離れた窓際には、心配そうに様子を見守るセレナの姿もあった。
シルヴィアは何も言わず歩み寄る。
「容態は」
エリオットが一歩下がり、場所を譲る。
「私が治癒魔法を施してからは落ち着いています。意識も、先ほど戻ったばかりです」
「そうか。……原因は」
問われたエリオットは、わずかに眉根を寄せる。
「現時点では断定できません。ただ、症状だけを見るなら、重度の魔力酔いによく似ています」
その言葉に、リアが勢いよく顔を上げた。
「魔力酔い……?」
「ああ。だが、ノアの魔力はかなり乱れてるにも関わらず、魔力量そのものにはなんの異常もなかった」
「そんなこと……あるんですの?」
不安げに呟いたセレナへ、エリオットは首を横へ振った。
「通常では有り得ないな」
部屋に沈黙が落ちた。
シルヴィアは再び目を潤ませているリアへ視線を向ける。
「リア」
「……はい」
「倒れる前、何があった」
「団長。俺が話します」
口を開こうとしたリアを手で制すと、ノアはゆっくりと身体を起こした。
「俺なら大丈夫です」
シルヴィアはノアをじっと見つめた。顔色は青白く、無理に身体を起こしているのは一目で分かる。だが、瞳には少しも揺らぎもない。
「……無理はするな」
「はい」
呼吸を整えるよう一度息を吐くと、ノアは口を開いた。
「中庭でリアと話をしていたら……聖女に声を掛けられました」
リアがノアの言葉に合わせるようこくりと頷く。
「向こうから話しかけてきたんです。『一度話してみたかった』って」
「……それから?」
「握手をしました。……その時です」
そこまで話したところで、ノアは首を押さえながら表情を歪ませた。
「握手した時に……甘い匂いがしました。花とも違う、もっと……頭に残るような甘い匂いです。その匂いを嗅いでから、少しずつ気分が悪くなって、気付いた時には立っていられませんでした……」
「……甘い、匂い……」
ノアの言葉を小さく繰り返すエリオットに、全員の視線が一斉に集まる。
「エリオット、何か心当たりがあるのか?」
エリオットは考え込むように目を伏せた。
「……一つ、思い当たることがあります」
シルヴィアは無言のままエリオットを見つめ、エリオットは記憶を探るように言葉を選ぶ。
「香水だと思っていたので気にも留めていませんでしたが、聖女の近くで、私も時折同じ甘い香りを感じたことがあります」
「時折、ということはいつもではないんだな?」
「はい。常に香っているわけではなく、隣にいても全く感じない時もあれば、妙にはっきりと香る時もあります。魔法の気配もなく、他に異変もありませんでしたので、香水か何かだと考えていました」
「リア」
「はい」
「お前は、近くにいてその香りを感じたか?」
リアは記憶を辿るように少し目を伏せた。
中庭。聖女の笑顔。差し出された手。
その時の光景を一つひとつ思い返し、小さく首を横へ振った。
「いいえ、私はなんの香りも感じませんでした」
「ノアと一緒にいたんですわよね?」
セレナが確かめるように尋ねる。
「うん。握手もすぐ隣で見てたけど、花の匂いも香水の匂いも何もしなかったよ」
「つまり、ノアだけがその甘い香りを感じたということか」
シルヴィアは低く呟くと、顎に手を添え視線を落とした。
ノアは香りを感じ、その直後に倒れた。
リアは隣にいながら何も感じていない。
エリオットは聖女の傍にいる時間が長い。それでも香りを感じるのは時折で、身体にも異常は現れていない。
そしてシルヴィアもまた、これまで幾度となく聖女と顔を合わせてきたにもかかわらず、一度としてその香りを感じたことはなかった。
胸の内で、ばらばらだった欠片が静かに並び始める。
(香りには現れる条件がある、ということか……)
だが、その条件が何なのかまでは、まだ分からない。それにこの香りがこれまでの一連の違和感と繋がっているのかどうか。
不可解な点がある以上、決めつけるのはまだ早い。
シルヴィアは顔を上げた。
「エリオット」
「はい」
「今後は聖女から漂う香りを見過ごすな。香りが強くなる状況や、周りの反応。些細なことでも構わない、全て報告しろ」
「御意」
続いてシルヴィアは、ノアたち三人へ目を向ける。
「ノア、リア、セレナ。念のため、お前たちは当面、聖女へ不用意に近づかないよう、可能な限り接触は避けろ」
「「「御意」」」
シルヴィアはベッドの端まで歩み寄る。
「ノア」
「はい」
「今日はもう何も考えなくていい。まずはゆっくり休め」
「……はい」
シルヴィアはノアの頭へぽん、と手を置いた。
「それが今のお前の最優先任務だ」
「……はい、団長」
ノアはまだ顔色こそ優れないものの、照れたように眉尻を下げて笑った。
***
エリオットにノアのことを任せ、シルヴィアは一足先に部屋を後にした。
寮の外へ出ると、夕暮れの柔らかな風が頬を撫でる。
西へ傾いた陽が校舎を淡く朱色に染め、渡り廊下には長く影が伸びていた。
静かな廊下を一人歩いていると、不意に小さな鳴き声が耳へ届く。
「……にゃあ」
シルヴィアは足を止め、声のした方へ視線を向けた。
花壇の縁に、小さな黒猫がちょこんと座っている。
目が合うと、猫は警戒する様子もなく尻尾をゆらりと揺らし、寄ってきた。
「……お前か」
しゃがみ込み、そっと手を差し出す。
黒猫は恐る恐る鼻先を近づけると、すり、と指先へ頬を擦り寄せた。
「ふっ……」
シルヴィアの口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
優しく頭を撫でると、猫は喉を鳴らした。気持ち良さそうに目を細め、そのままシルヴィアの手へ身体を預ける。
しばらく穏やかな時間を過ごしていると、背後から弾んだ声が響いた。
「あっ、猫!」
シルヴィアは振り返らない。
足音と気配だけで、ユイたちが渡り廊下を歩いてくることを察していた。
ギルバードたちと共に歩いていたユイが、目を輝かせながら駆け寄ってくる。
「かわいい……!」
ユイがしゃがみ込み猫へ手を伸ばすと、その手に驚いたのか、黒猫はぴょんと大きく跳ねた。
「にゃっ!」
勢いよく身体を翻した猫の前足が、シルヴィアの眼鏡へかすめると、かたん、と小さな音を立て、眼鏡が石畳へ落ちた。
黒猫は植え込みをひらりと飛び越え、そのままどこかへ走り去っていく。
「あっ……逃げちゃった」
残念そうに猫の後ろ姿を見送ったユイは、眼鏡を拾い上げようと手を伸ばす人物に目を向けた。
その時——一陣の風が渡り廊下を吹き抜けた。
黒髪がふわりと揺れ、シルヴィアの横顔が夕陽に照らされる。
すっと通った鼻筋に、淡く光を纏う白い肌。
そして──夕陽を捉えた紫水晶の瞳が、ガラス細工のように冷たく、それでいて鋭く澄んだ輝きを放つ。
ユイの呼吸が止まり、ドクン──と、胸が大きく脈を打った。
周囲の景色が、すっと意識から遠のく。
(……きれ、い……)
その姿から目が離せなくなり、自分でも理由の分からない鼓動が胸を叩く。
ドクン、ドクン、と心臓だけが騒がしく鳴り響いた。
シルヴィアは眼鏡を拾い上げ掛け直すと、ユイへ一瞥を向けることもなく立ち上がった。
(……やはり、甘い香りはしないな)
これほど近くにいても、シルヴィアはノアたちが口にしていた甘い香りを一切感じることができなかった。
「失礼する」
なぜかその場にしゃがんだまま動かないユイへ、それだけ告げて立ち去ろうとした、その刹那——。
背後から、ぶわっと濃密な甘い香りが押し寄せた。
「……!」
花蜜を煮詰めたような、とろけるほど甘い香り。
息を吸うたび、肺の奥まで甘さが流れ込んでくるような濃密さだった。
(……なるほど、ノアたちが言っていたのはこの香りか)
歩みは止めない。
紫の瞳が鋭く細められる。
そんなことなど知る由もなく。
ユイは遠ざかっていくシルヴィアの背中を、ただ見つめていた。
胸の鼓動は、まだ治まらない。
目を逸らせない。
(あの人、ほしい……)
ギルバードに声を掛けられるまでユイはその場から動けなかった。




