第15話 もみじ
紅葉の秋。太陽が低く沈み始め、黄金色の光が地平線に長い影を落としていた。少し肌寒くなった露天風呂からは静かな湯気が立ち上り、艶やかな水着を纏ったサラが、湯船に身を委ねている。
「ふぅ……。この静けさ、本当に何物にも代えがたいわね」
サラが小さいため息をつく。視線が、風呂の外、赤く染まる山肌に向けられた。
「カイザーが5000歳くらいって言ってたから、サラは何歳……はっ!?」アルトは我に返った。
サラは、ニッコリとただ微笑んでいる。
「怖えー……」
『パチン!』甲高い音が、静寂を容赦なく切り裂き、アルトの脳髄を震わせた。
「飛んできたのかこれ? 手の振りは見えなかったぞ」
アルトの左頬に、赤くぽっとした、赤ちゃんサイズの手形が張り付く。
サラは、少しだけ肩をすくめた。まるで、最高の芸術作品を眺めるような微笑みだ。
「こ、怖えー、サラ……。『ビンタ魔法』、怖えー……」
アルトの脳が絶叫する。彼はまだ、それが「心」に直接働きかけてくる魔法だとは気づいていなかった。
「普通なら『失礼なことを考えてたでしょう』とか、上品な口撃を繰り出してくるはずなんだけど」
表面的な痛みではない。精神に刻み込まれる「恥じらい」と、抗えない「屈服」の感覚。それがアルトを襲った。
「一週間くらいは、剥がれないわよ。『もみじ魔法』とでも名付けようかしらね」
サラは静かに微笑み続ける。
「心に来るな……。羞恥魔法? これ……恥ずかしい……」
アルトは思わず思考を停止させた。
(場面転換)
湿気と、微かな秋の香りが漂う露天風呂。アルトとサラは、再び対峙していた。
「だからねっ、アルトが来てから視聴率が一気に跳ね上がったのよ!」
「……視聴率って?」
「あっ……」
彼女の完璧な笑顔が一瞬だけ揺らぐ。深い深淵を覗かせるような、複雑な表情になる。
「それで……結局、僕の召喚は、この箱庭コンテンツ『エデン』の視聴率を稼ぐためだったの?」
アルトは、目の前に沈むように浸かるサラを鋭い眼光で見据えた。空気は重く、僅かに甘い緊張感が満ちている。この沈黙は、サラが「都合の悪い真実」に直面した瞬間だった。
「……」
サラの唇が微かに震える。視線が泳ぎ、虚空を見つめる瞳には、普段の冷静な仮面が剥がれ落ちていた。
「ねえ、どうなの?」
アルトの声には、抗いがたい粘り気のある要求が混じっている。彼はもう答えを求めているというより、彼女の動揺そのものを味わうかのように迫っていた。
「……テヘペロ」
突如、サラは可愛らしく舌を出し、蠱惑的にニッコリと微笑んだ。
「クッコロ!」
アルトは精神を叩き割られてのけ反り、玄武岩に頭を打って、湯船へとドボンと沈み込んだ。
「怖えー……」
熱湯に身体を浸したアルトの思考は、一変していた。恐怖、後悔、そして一抹の興奮。
『ババアのテヘペロいただきましたー。ババア、怖えー……』
決して口に出すことなく、彼は目を閉じ、その甘い敗北を心に刻み込む。
――その刹那。
「ズバァアッ!」
透明なバチのような衝撃が、柔らかな湯をすり抜けて、アルトの右頬に激しく打ち付けられた。まるで、彼女の感情そのものが物理的な刃となって具現化したかのようだ。
「何よ、アルト!」
湯煙の中に、サラの感情を帯びた声が響く。その声は、静かな水面に激しい波紋を広げるように、情熱と苛立ちを湛えていた。
「カイザーのせいで、百年間もずっと不人気な『エデン』を、あんな軽薄な視線でバカにされたこともあったのよ。この空間で、この物語で、私たちが必死に築いてきたものなのに。……肩身が狭かったのよ、仕方ないじゃない」
再び、予測不能な「ビンタ魔法」が、湯面に美しい花火を散らしながら飛んでくる。容赦ない。
アルトは、湯に沈んだまま、肩をすくめた。水面に浮かぶ泡が、彼の動揺を隠すように微かに散る。
「キレたサラ、怖えー」
彼は、追い詰められたサラの姿を認めつつ、その妖しく昂ぶった瞳を焼き付けた。
「逆ギレ、だけど……艶めかしい」
彼の声は、甘く、そして少しだけ危うい熱を孕んでこぼれた。彼の「怖えー」という言葉は、敗北ではなく、むしろこの危うい関係性を祝福するような、熱烈な肯定の響きを持っていた。
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