06 ノイの優しさ
その日は、なんだか朝から身体が重たかった。頭もガンガンする。それでもティアはベッドから降りて、大学へ行くために支度をした。
これしきのことで、休んでいられない。レポートがたまっちゃう。
だが、午前中の講義を終えたところで、耐えられなくなった。リデルとミーアにも心配されたティアは、観念して午後の講義を休むことにした。
ふらふらになりながらも寮に到着したティアは、部屋に入るなりベッドに倒れ込んだ。
身体が熱い。頭も痛い。
これって、絶対風邪だよなあ。
ここ十年以上は風邪を引いたことなかったのに、まいったな。
仰向けになったティアは、天井を見上げた。天井の模様がぐるぐると回っているように見えた。
吐き気を覚え、布団を頭から被った。
早く治さなくちゃ。でも、身体がだるくて動けない。
どうしよう。どうしたらいい。
その時、ドアがガチャリと開く音がした。
「ティア」
布団を除けると、ノイが息を切らせながら立っていた。
「どうして」
「リデルが教えてくれたの。ティアが具合悪くて早退したって」
ノイは、ティアの額に手を置いた。
「すごい熱」
ノイの顔が曇る。
「やめてノイ。風邪が移っちゃう」
ティアが言うと、ノイは首を横に振った。
「症状を教えて。大学のお医者様に相談して、往診してもらうように頼んでみるから」
「だから、移っちゃうって」
「私に移ってティアが楽になるのなら、それでも構わない」
ノイの言葉に、ティアは息をのんだ。
「頭痛はする、喉の痛みは、咳は出る」
ノイの顔が、徐々に滲んでいく。
「なんで」
目尻から、温かいものがこぼれた。
「なんで、そんなに優しいの」
声を震わせるティアに、ノイは微笑みを向けた。
「友だちだもん」
「え」
「それ以外に、理由なんて必要なの」
ノイが囁くように問いかけると、ティアは嗚咽の声を漏らした。
泣きやむまで、ノイは黙ってティアの頭を撫でていた。
夕方になって、大学の指定医に来てもらった。今流行りの風邪との診断で、一週間分の薬を処方された。ノイは寮の食堂の調理師に頼んで、特別に卵入りのスープを作ってもらい、ティアに食べさせた。
薬を飲んだティアは、ベッドに横になった。
後は寝るだけなのに、目が冴えてしまって、なかなか寝付けなかった。
ノイは、机に向かってレポートを書いていた。ペンの走る音が、部屋に心地よく響いてくる。
「眠れないの」
机に向かったまま、ノイが訊ねる。
「うん」
ティアが返事をすると、手を止めたノイはこちらを向いた。
「何か、お話しして」
ティアが言うと、ノイはクスッと笑った。
「ティアでも、甘えることがあるんだね」
「たまには、ね」
「そんなのとは無縁だと思ってた」
確かに、ノイの言うとおりだった。母親のティルスに対しても、甘えた記憶はほとんどない。甘えた姿を他人に見せるのは、恥だとさえ思っていた。
それなのに、ノイには甘えてみたくなった。風邪の症状に加えて慌ただしい大学生活で心が弱っていたからなのか、それとも、ノイと二人きりだからなのか。ティアには、よくわからなかった。
「何のお話がいい」
「ノイの、小っちゃい頃の話が聞きたい」
「オチとかないけど、それでもいい」
「うん」
「わかった」
天井を見上げて少し思案してから、ノイは姿勢を正した。
「私の両親は共働きでね、よくおばあちゃんの家に預けられてたの。学校にもおばあちゃんの家から通っていて、親の帰りが遅いときは泊まったりしていた。おばあちゃんはいつも優しくて朗らかで、太陽みたいな人だった。そんなおばあちゃんが私は大好きで、両親が側にいなくても、寂しいと思ったことはなかった」
ノイの表情が、少しだけ陰った。
「でも、私が八歳の時、おばあちゃんは急に倒れて、そのまま亡くなったの。昨日までピンピンしていたのに、本当に突然だった」
ティアは、胸が苦しくなった。
「おばあちゃんが亡くなった後、私は自宅から学校に通うようになった。学校から帰っても、仕事で両親がいなくて、夕飯も一人で食べた。寂しくて寂しくて、おばあちゃんに会いたいって、しょっちゅう泣いてたな」
ノイは、ひとつ息をはいた。
「それから何ヶ月か経ったある日の夕方、学校からの帰り道をひとりで歩いていたら、一羽の白い蝶々がふわふわと飛んできたの。私、虫があまり好きじゃなくて、思わず手でしっしとやったんだけど、蝶々は私の手をひらりひらりとかわして、どんどん近づいてくるの。来ないでってその場にしゃがみ込んだんだけど、蝶々は私の肩に止まってきた。そしたらね、さっきまであんなに怖かったのに、何かが弾けたように不思議と怖くなくなったの。私の肩で羽を休めている蝶々が、とても愛おしく思えたんだ」
ノイは、微笑みを浮かべた。
「それからすぐに、蝶々は私から離れて行った。時間にしたら、ほんの一、二分のことなんだけど、私にはあの蝶々がおばあちゃんに思えたの。おばあちゃんが、蝶々に姿を変えて、私に会いに来てくれたんだって」
ティアは、鼻をすすった。
「本当はただの偶然で、それ以上でもそれ以下でもないのかもしれないけれど、私はそう思うことにした。そうすれば、蝶々を見かけるたびに、大好きなおばあちゃんを思いだすことができるから」
ノイは、少しだけ目を潤ませた。
「ね、オチがない話でしょ」
苦笑したノイが言うと、ティアはボロボロと涙をこぼした。
「何で泣かせにくるの。ますます眠れなくなったじゃない」
「あ、ごめん」
焦るノイに顔を背けたティアは、布団を頭から被った。
まいったなあ。
私には持ち合わせていない感性だ。
かなわないや。
ノイへの愛しさと嫉妬で胸がいっぱいになったティアは、そっと唇をかみしめた。




