28 アニスの想い
最終試験まで二ヶ月を切り、実戦武術もますます熱を帯びて、と言いたいところだったが、最終試験まで二ヶ月を切るということは、他の科目の最終試験も二ヶ月を切っているのである。たとえ実戦武術の最終試験を合格したとしても、他の科目を落としてしまったらまったく意味がなくなる。その結果、単位不足となれば、四年に進級できずに退学処分となるのだ。
学生の本分は、勉学である。実戦武術を選択しようがしまいが、そこは変わらない。なのでティア達五人は、疲れた身体にムチを打ちながら、講義にも集中した。
講義のレベルは三年次で更に上がり、ティアは寝食を惜しまずに没頭した。実戦武術の自主訓練もしたかったが、とてもじゃないがそんな余裕などなかった。物理学、数学、哲学、法学、統計学、ほぼすべての講義で、毎回のようにレポート提出が課された。
頭をひねる毎日で、疲れも相当に溜まったが、その一方で新たに蓄えられる膨大な知識に感動すら覚えることもあった。将来、指導者になったら、必ず活かせるであろうものもたくさんあった。
知りたいことは、まだ山ほどある。
こんなところで、立ち止まっては駄目だ。
自分に活を入れたティアは、レポートの作成に力を注いだ。
今にも雪が降り出しそうな、どんよりとした曇り空の下、ティアの姿はヴァイス市南東部にある王立図書館分館の資料室にあった。
明日の法学の講義に提出しなければならないレポートが終わらなかったので、追い込みを掛けるために王立図書館の分館を訪れた。大学の図書館だと他の学生と会って集中できないだろうし、ヴァイス市中心部にある王立図書館の本館は、人の出入りが激しくて集中できないだろう。ここなら、市の中心部からはだいぶ離れているし、静かな環境でレポート作成に集中できる。
ティアのもくろみ通り、分館にはほとんど人がいなかった。資料室に至っては、貸し切り状態だった。
よし、早めに終わらせるぞ。
気合いを入れ直したティアは、法学の参考書を開いた。
朝の開館から籠もったティアだったが、夕方前になってようやくレポートの完成の目途がついた。
大きく伸びをしてから席を立ったティアは、休憩で外の空気を吸うために分館の玄関を出た。
外に足を踏み入れた瞬間、耳が痛くなるほどの寒風が襲ってきた。ティアは、思わず自分を抱きしめた。
この様子だと、今夜は雪が降るかもね。
雪は好きなんだけど、寒いのは嫌だなあ。
鉛色の空を見上げたティアは、白い息をはいた。
ふと、人の気配がしたので横を向くと、そこにはアニスが立っていた。薄青のワンピースの上に、クリーム色のセーターを羽織っている。首には、深い紫色のマフラーが巻かれていた。
「珍しいね。アニスもここで勉強してるの」
驚いたティアが訊ねると、アニスは静かに首を横に振った。
「あなたに、話したいことがあるの」
「え」
「顔を貸しなさい」
そう言うと、アニスはティアに背を向けた。
なんだろう、改まって。
でも、いつになく真面目な顔だった。
きっと、すごく大事なことなんだろう。
私も、真面目に向き合わなくちゃ。
「後で返してね」
前を歩くアニスの背中に、ティアは語りかけた。
アニスに連れられてやってきたのは、分館の中庭だった。建物が壁となって寒風を塞いでくれているので、幾分だが寒さは和らいだ。
足を止めたアニスは、ティアに向き合った。その眼差しは、真剣そのものだった。
「話したいことって」
ティアが訊ねると、アニスはおもむろに口を開いた。
「私はとっくに、あなたの正体を知っているわ」
「え」
「あなたが、エレル王国の王女だってことを」
ティアは、瞠目した。
あなたは、もうちょっと立場をわきまえた方がいいわね。
騎馬術の際の、アニスの言葉が思いだされた。
やっぱり、そうだったんだ。
「いつから、知っていたの」
「あなたが、入学する直前よ」
ティアは、息をのんだ。
「そんなに、早い段階で」
「お父様から、聞かされたわ」
確か、アニスのお父さんって、軍の大幹部なんだっけ。
国の政を左右することだから、大幹部なら知っていても不思議じゃないか。
「お父様は、こうも言っていたわ」
アニスの瞳に、少しだけ憂いが帯びる。
「王女に負けることは、許されないって」
「え」
「ラクサール王国を代表して、エレル王国の王女に勝てと」
アニスは、言葉に力を込めた。
「どうして、そこまで」
茫然としたティアが訊ねると、アニスの表情が少しだけ柔らかくなった。
「たまたまよ。私の同期に、あなたがいた。それだけのこと」
「それだけで、私に勝てだなんて、意味がわからない」
「でしょうね。王女様であるあなたには」
「どういうこと」
「私には、お兄様が六人いるの。どのお兄様もとても優秀で、私は幼い頃からだいぶ比べられたわ。唯一の女の子であることを考慮しても、私はお兄様達より確実に劣っていた。その証拠に、お父様からは、これまで褒められたことはただの一度もなかったわ」
アニスは、白い息をはいた。
「お父様に認められたい一心で、私は奮起した。ヴァイス大学に合格して、将来は軍の幹部を目指す。それが、お父様に認められるただひとつの道だと信じて疑わなかった。けれどもお父様は、それだけでは飽き足らなくて、あなたに勝つことを私に求めたの」
「そんなの、勝手すぎる。アニスにはアニスの人生があるのに。お父さんに決められた人生なんて、不幸すぎるよ」
ティアが声を荒げると、アニスは首を横に振った。
「不幸だと感じたことはないわ。これは、私が望んだこと。お父様に認められることが、私の存在意義なの」
「わからない。全然わからない」
「そうね。わからないでしょうね」
アニスは、肩をすくめた。
「お兄様達は優秀だったけど、それぞれ家を出て独立して、誰一人としてお父様の後を継ごうとはしなかった。お父様の、後継者に求めるものが高すぎて、お兄様達も嫌になったみたいね。そのことについて、お父様は決して口にはしなかったけど、寂しくに思っているに違いないわ。だからこそ、私はお父様の後を継ぐのにふさわしい人間にならなければならないの」
「それが叶ったら、アニスは幸せになれるの」
「ええ。お父様に、褒めてもらえるのなら」
アニスは、静かに微笑んだ。
それは、ティアに向けられた、初めての笑みだった。
「理解してもらわなくて結構よ。幸せの尺度なんて、他人が測れるものではないもの。王族のあなたと貴族の私、一人っ子のあなたと七人兄弟の末っ子の私。育ってきた環境がまるで違うのだから、理解できる方がおかしいわ」
「でも、何か、モヤモヤする」
ティアは、眉をひそめた。
「モヤモヤしているのは、こちらの方よ」
「え」
「あなたに勝つことを至上命題とされた私が、いつの間にかあなたに惹かれてしまっている」
アニスの告白に、ティアは目を見張った。
「頭脳明晰で、武術に精通しているだけでなく、あなたには王族という権威を振りかざすことなく、誰にでも分け隔てなく接していた。その上、人垂らしの権化のようで、誰とでもすぐに仲良くなれた。私にないものを、あなたはたくさん持っていた」
アニスは、小さく息をはいた。
「あれだけ冷たくあしらっていた私のことを、それでもあなたは大好きだと言ってくれた。無邪気に、真っ直ぐに。敵わない、と思ったわ。あなたのような人こそ、人の上に立つべき人物なのよ」
ティアは、唇をかみしめた。
「大学に入学する前は、楽しいことは一切排除して、ひたすら勉学に打ちこむつもりだった。お父様の後を継ぐには、そうするしかないと思っていた。けれど、あなたと出会ったことで、楽しいことがどんどん増えていった。不思議よね。入学する前はあなたには敵意しかなかったのに、今は顔を見るのが楽しみになっている」
アニスの顔が、だんだんぼやけてきた。
「感謝の言葉は、言わないわ。それは、卒業するまで取っておく。だって私は、あなたに勝つことを諦めていないから」
温かいものが、頬を伝った。
「必ず、生き残りなさい。あなたは、エレル王国の希望なのだから」
何、それ。
まるで、遺言みたいなことを言って。
「アニスも、だよ」
ティアが涙混じりの声で言うと、アニスはフッと笑った。
「当たり前じゃない。卒業するまで、と言ったでしょ。私に、負けるという選択肢はないのよ」
いつものアニス節だったが、ティアにはどこか空虚なものに感じられた。まるで、感情がこもっていないように。
「実戦武術は、お互い全力を尽くしましょう。後悔のないように」
そう言って、ティアの肩をポンと叩いたアニスは、その場から離れていった。
アニスの足音が聞こえなくなるまで、ティアは立ち尽くしていた。
アニスは、死ぬつもりだ。
最終試験官と、差し違える覚悟だ。
そこまでして、お父さんに認められたいの。
死んだら、終わりなのに。
ティアの目尻からは、止めどなく涙が溢れていた。




