25 お酒はほどほどに
その日の訓練を終えると、フリックは足早に官舎へ戻っていった。
部屋のドアを開け、周りに人がいないかを確認してから、中に入った。後ろ手にドアを閉め、忍び足でタンスの前まで移動した。
タンスの引き出しには、綺麗に折りたたまれた衣類が入っていた。フリックが一番下の衣類をめくると、琥珀色の液体の入った小瓶が出てきた。
小瓶を手にとったフリックは、蓋を開けるやいなや、琥珀色の液体を喉に流し込んだ。すぐに瓶は空になり、口角からこぼれる雫を手の甲で拭った。
軍の規律で、官舎内での飲酒は固く禁止されていた。飲酒が発覚すれば、即座に懲戒免職となる。酒が飲みたければ、休みの日に官舎の外へ行って飲むしかない。フリックも次の休みまで我慢するつもりだったが、あと三日もあると思うと我慢できなくなった。
瓶を衣類の下に戻したフリックは、安堵のため息をついた。ヴァイス大学での最終試験官が決まってから、いや、対戦相手がアイケ元帥の娘アニスとエレル王国の王女ティアだと知ってから、一気に酒量が増えた気がする。
この手で、殺すことになってしまうのか。
アニス様を。
フリックは、自分の震える手のひらを見つめた。
ティアの名を聞いたときよりも、アニスの名を聞いたときの方が、フリックにとっては衝撃的だった。
軍の中でも数少ない、敬愛するアイケ元帥の愛娘。
公私共に親しくしてもらったフリックは、アイケの豪邸に何度かお呼ばれしたことがあった。その際に、幼いアニスとも何度か会った。
聡明で美しく、気品も漂っていたが、フリックの前では緊張からか笑顔は見せなかった。挨拶もそこそこに、自分の部屋に引きこもってしまった。
「困ったもんだよ」
アイケは、苦笑いを浮かべた。その顔は、どこにでもいるごく普通の父親の顔に見えた。
成長したアニスは、ヴァイス大学に入学し、新入生総代として答辞を述べた。ヴァイス大学出身のアイケにとっても、自慢の娘であるに違いなかった。
アイケにはアニスの他に息子が六人いて、全員がヴァイス大学を卒業し、それぞれ貿易業や建築業や教育機関など、幅広い分野で活躍している。しかし、アイケのように軍に入った息子はいなかった。
アイケの教育方針として、決して進路を強要しない、というのがあったことが大きかったが、そうはいっても一人も軍に入らなかったのは、アイケにも思うことがあったのではないか。だからこそアニスには、自分の後釜として軍に入ってほしかったのではないか。
だが、実戦武術の対戦相手発表の際のアイケは、最終試験官に選ばれた親衛隊員を前にして、娘を殺せ、と冷徹に言い放った。二人の間に、何があったのか。フリックは、知るよしもなかった。
元帥の力を持ってすれば、アニス様を安全に退避させることなど造作もない。だが、まったくそうする気配がない。アニス様の学力を持ってすれば、卒業などたやすいのだから、とっとと辞退すればいいものを、そんな噂も聞こえてこない。
お互い、意固地になっているのか。それとも、別の何かが。
酔いが回って頭がクラクラしてきたフリックは、ベッドに倒れ込んだ。木製の脚のきしむ音が、部屋に響いた。
寝返りを打ったフリックは、天井を見上げた。顔はすっかり赤らんでいて、もはや飲酒の事実を隠す気もない。
アニス様に、ティア王女、か。
こんな展開、誰が想像できるかよ。
フリックは、肩を揺らして笑った。
ベールに包まれていた、エレル王国の王女。
国王夫妻の大切な一人娘であるが故に、暗殺を恐れて公にしていないという噂の一方で、言うことを聞かないおてんば娘で公務をことごとく断っているという噂もあった。
そんな謎多き王女が、まさか隣国ラクサール王国のヴァイス大学に入学していたとは。
おそらく、ラクサール王国内でこの事実を知っているのは、政治局や軍の幹部の一部と、大学の上層部の人間だけであろう。巷からは、そんな噂すら聞こえてこない。もし公表すれば、それこそヴァイスの街が、ひいてはラクサール王国が大混乱に陥るのは必至だからだ。
どうも大学側は、静観を決めている節がある。当たらず障らず。もちろん、他の学生への影響を考慮してのことだろうが、面倒なことに巻き込まれたくないという後ろ向きな印象も拭えない。
それはそうだろう。隣国の王女様を、人質として預かっているようなものだ。最高学府といえど、一大学に政治的なキャスティングボートを握らせるのは、あまりにも荷が重すぎる。
そんな大学側の思惑などあざ笑うかのように、ティアは実戦武術を選択した。そのことを知ったときの大学関係者やラクサール王国の中枢部の人間の驚きは、幾ばくか。
ヴァイス大学に合格するほどの知性と、自ら実戦武術を選択するほどの武勇を兼ね備えた王女様。
彼女が王位に就けば、エレル王国は建国以来の栄華を極める可能性だって充分にある。
エレル王国にとっての、大きな希望。その希望の芽を摘み取ることはすなわち、エレル王国の衰退を意味する。
現王のフォートン五世は、先々代のフォートン三世とは真逆の、超が付くほどの穏健派として知られている。ラクサール王国のリードア国王とも頻繁に交流を重ね、両国の友好関係を維持することに腐心していた。年々軍事費の予算も削減し、敵対する意思のない姿勢を示している。
だがその一方で、領土問題については譲れないところがあるようだった。フォートン三世の時代に占領した北部地域は農業に適した肥沃な土地で、占領前に比べると食糧自給率は三十パーセントも向上した。この地をラクサール王国に返還となれば、エレル王国の経済は一気に衰退してしまう。
逆に、ラクサール王国にとっては、元々所有していた土地を戦争で奪われたままの格好だった。幸い、ラクサール王国はエレル王国の三倍の面積を誇り、南部地域一帯も農業が盛んだったので、経済的損失はそれほど多くはなかったが、昔から北部地域に住んでいた人々にとっては、故郷を奪われた形となったままだった。それゆえ現在でも、北部地域には、根深い恨みが渦巻いている。事実、二十数年前には、元からいた住民と新しく入ってきた住民との大規模な衝突が起き、多数の死傷者が出ていた。
フォートン五世の治世の間は何とか抑えられても、次期国王の治世になった途端に、溜まりに溜まっていたラクサール王国民の不満が爆発する危険性もある。難しい舵取りを迫られるのは必至で、だからこそティアのような才媛は、エレル王国の行く末を担うにふさわしい自分と言える。
そのティアを殺せば、エレル王国は確実に弱体化する。そうなれば、ラクサール王国の強大な軍事力であれば、エレル王国をたやすく滅ぼすことができるだろう。
フリックの頭に、ある考えが浮かんだ。
アニス様を殺すことと、ティア王女を殺すことは、どちらもラクサール王国の発展に寄与するのではないか。
ティア王女を殺すのは、紛れもなくエレル王国を衰退させるためであり、アニス様を殺すのは、次の戦争に備えて軍の引き締めを図るためなのだ。
アイケ元帥の愛娘アニス様は、自らの危険をも顧みず、我々親衛隊と勇敢に戦い、そして散っていった。
この死を、無駄にしてはならない。
今こそ、軍が一致団結する時だ。
アニス様の死は美談として語られ、戦争へ突き進むためのプロパガンダとなる。軍だけでなく国民も熱狂し、アニスは戦いの象徴として祭り上げられる。
フリックの脳裏には、背中に白い羽の生えたアニスの姿が浮かんだ。
その瞬間、背筋がゾクッとした。
例えようのない興奮が、身体を駆け巡った。
みんな、狂っている。
だが、最高にいかしている。
フリックは、天井に向かって拳を突き上げた。
殺してやるよ、アニス様。
あなたは死して神となり、ラクサール王国を導くのだ。




