23 親衛隊の未来
ラクサール王国軍の訓練場脇にある体育館に、ヴァルターの姿があった。夕方の薄暗い館内で、一人黙々と腕立て伏せをしている。日が暮れても暑さは和らぐことはなく、ヴァルターは軍服の上だけを脱いでいた。筋骨隆々の背中は、まるで龍の顔のように盛り上がっていた。
今日の訓練があまりにも生ぬるくて、不完全燃焼だったヴァルターは、一人で居残り訓練をしていた。二、三年前くらいまでは居残りすることはほとんどなく、訓練が終了したらすぐに官舎に戻っていたが、ここ最近は居残りすることが増えていた。
これが、平和ボケってやつか。
腕立て伏せをしながら、ヴァルターはふと思った。
親衛隊は、新進気鋭の若手で構成されている。年齢制限もあり、三十五歳を迎えると強制的に除隊となり、軍の別の部署へ異動することになる。
ヴァルターは、今年で三十四歳。来年には除隊することが決まっている。親衛隊の中ではベテランの域に達していて、ほとんどが自分より年下の若者だった。
その若者、特に最近入隊した新人から三年目くらいまでの隊員に対して、ヴァルターは常日頃から強い不満を持っていた。武術に秀でた選りすぐりの精鋭が採用されているはずなのに、若者からはギラついたものが一切感じられなかった。
訓練も、言われたことをこなすだけで、更に武術を極めようという気概が感じられなかった。先輩の隊員に対して積極的に質問をしたり、対戦を願い出たりすることも、皆無だった。
近頃の若い者は。
自分が若いころに散々言われた台詞を、まさか自分がはくことになろうとはな。
腕立て伏せを終えたヴァルターは、苦笑いを浮かべた。
タオルで入念に汗を拭き、軍服の上着を羽織った。すでに中年とよばれる年齢に差しかかかっているが、日々の鍛錬のおかげで、大胸筋は衰え知らずで成長していた。
そんな中、降って湧いたのが、ヴァイス大学の話だった。実戦武術の最終試験官。本物の武器を使用しての対戦。ベテランのヴァルターでさえその存在を忘れていた、ここ数年受講者ゼロのこの科目に、五人もの学生が名乗りを上げた。
その話を聞いたとき、ヴァルターは感動すら覚えた。世界に名だたる最高学府であるヴァイス大学から、命知らずの学生が五人も現れるとは。卒業すれば将来が約束されるにもかかわらず、安全な科目ではなく、あえて命をかける科目を選ぶとは。親衛隊の若者には、その学生達の爪の垢を煎じて飲ませたい気分だった。
その学生達への興味と、来年には除隊となる自分が関わることのできる最後の一大イベントであると考えたヴァルターは、最終試験官の応募が始まった初日に申しこんだ。百人を超える応募者の中から選ばれたヴァルターだったが、喜びよりも落胆の方が大きかった。
ヴァルターを落胆させたもの、それは応募者の内訳だった。百人を超える応募者の中で、新人から三年目までの若者は一人もいなかった。その理由は単純明快だった。要するに、本物の武器を使うリスクを回避したいのだ。命のやり取りを、怖がっているだけなのだ。
なんと情けない。親衛隊を名乗る者が、そのような及び腰でいいのか。本来、親衛隊とは、死の危険性と隣り合わせの任務をこなしていく重要な組織であるのに。
もはや、怒りさえ湧かなかった。根底にあるのは、戦争を知らない若者世代独特の感性であるからだ。もちろん、ベテランのヴァルターでさえ、戦争をリアルタイムで経験しているわけではない。だがヴァルターが子供の頃は、今よりも学校の授業で戦争について詳しく学んでいたし、社会科見学で戦争記念館に何度も訪れたりして、経験していなくても戦争は身近にあるものとして認識することができた。
時代に合わせて教育のカリキュラムが改訂され、最近は戦争についての授業が極端に少なくなってきている。もはや戦争は、歴史の授業での暗記項目でしかなくなっていた。平和な期間が長くなればなるほど、戦争はおとぎ話のように実感のないものとなるのだ。
ヴァルターの中で、もはや親衛隊は砂上の楼閣だった。いつ崩れてもおかしくない、脆弱で頼りないもの。自分が除隊となって以降、今の若者世代が三〇代となる頃には、親衛隊はその役割と意義を失い、解体されているかもしれない。
それも時代の流れか、と諦念していたところに、今回の実戦武術の話が舞い込んできた。若者世代の申し込みがゼロだったのは残念極まりないが、これがきっかけで親衛隊が変わるかもしれない。ヴァルターはそこに、一縷の望みを託した。
だが、対戦相手の学生の正体を知った瞬間、これは親衛隊だけでなくラクサール王国そのものが激変する契機になるやもしれない、とさえ思った。
アイケ元帥の娘アニスと、隣国エレル王国の王女ティア。
もし仮に、二人を殺す結果となった場合、世界の勢力図が大きく書き換わる可能性がある。そうなると、親衛隊の存在意義が増すに違いない。平和が遠くなる代わりに、戦争、死というものが身近になり、怠惰や怠慢は追放され、組織は収斂する。
アニスとティアには、何の恨みもない。だが、彼女たちを殺すことが、結果として親衛隊の、ひいてはラクサール王国そのものの発展に寄与する可能性があるのならば、遠慮なく剣を振る覚悟だった。
除隊前の、最後のご奉仕だ。
そのためにも、鍛錬は怠らないようにしなければ。
俺が死んでも、世界は何も変わらないのだから。
腰を上げたヴァルターは、ひとつ息をはいた。
俺は、間違っているのかもしれない。
だが、もう船は港を離れた。
途中での下船は、決して許されない。
ヴァルターは、固く握った拳を見つめた。




