第7話
翌日早朝、アリスティアは高台へと足を運んでいた。
石段を上りながら、冷たい風が頰を撫でる。
レオハルトが半歩後ろを歩き、ゲルハルトが横に並ぶ。
他の部隊はまだ宿舎で準備中だった。
高台に着くと、戦場が一望できた。
アリスティアは石垣に手を置き、視線を巡らせた。
「まずは地形から、お願いします」
中佐が頷いた。
「東部戦線は7年も膠着しています。敵の陣地はあの丘の向こうで、こちらは川を天然の堀として使っています」
アリスティアは目を細め、凝視した。
遠くの平原に、小さな黒い塊がざわめき始めた。
20人ほどの騎馬集団――敵だ。
こちら側の偵察部隊と、ばったり鉢合わせした。
矢が放たれる気配が見えた。
だが距離が遠く、詳細はほとんどわからなかった。
馬の嘶きが微かに聞こえ、馬が乱れる様子がうっすらと見える。
だが矢はほとんど当たらず、たまに命中しても盾で弾かれるようだ。
命中率が、ひどすぎた。
馬がぶつかり合い、混戦に。
剣が振り下ろされるのに、動きは鈍い。
突きは浅く、すぐに引き戻される。
格闘になれば、まるで農具を振り回すような乱暴さ。
誰かが倒れる気配が伝わってきた。
「……何だ、あれは」
アリスティアは目を大きく見開いた。
生まれの差か、装備の良さか。
こちら側が若干有利に働き、数名の負傷者を出しながらも敵を追い払った。
だが勝因は技術ではなく、ただの物量と運だった。
ゲルハルトが隣に立ち、腕を固く組んだ。
「いかがですか、アリスティア様。初めて見る生の戦場は、中々にショッキングでしょう」
レオハルトも眉を寄せた。
「お嬢様に、こんなものを見せなければならないとは……申し訳ありません」
アリスティアは首を振った。
「いいえ。ショックというより……」
彼女は言葉を探すように視線を再び戦場に戻した。
「言葉が出ないわ」
ゲルハルトが少し困惑した様子で尋ねた。
「言葉が……出ない?」
アリスティアは慎重に言葉を選んだ。
「ええ。これで7年も戦っているの?」
中佐が深いため息をついた。
「その通りです。補充兵の多くは領民から徴兵された者たちで、訓練期間はわずか数か月。貴族の子弟は後方で指揮を取るだけ。現場は常に人手不足で……」
レオハルトが補足する。
「だからこそ、アリスティア様の補充部隊は異例の精鋭揃いなのです。皆、自ら志願した猛者ばかりですから」
アリスティアは視線を巡らせた。
眼下を、銀色に輝く川が蛇のように曲がりくねって流れている。
陽光を浴びて、キラキラと水面がまぶしい。
すぐ下の川辺では、すでに水浴びを終えた団員たちが上半身裸で体を拭っていた。
こちらの高台からでも、はっきり見える距離だ。
「あの川、水がきれいそうね」
アリスティアが指をさす。
ゲルハルトが答えた。
「はい。水源は上流の山脈で、飲用にも問題ありません。兵士たちの水浴び場としても使われています」
さらに目を移すと、川の少し上流に、煙突から煙を上げる集落が見えた。
「あの村は?」
中佐が即座に答えた。
「ヴェルデン村です。この要塞が築かれてからは、完全に農村に戻っています。以前は中継拠点として使っていましたが、今は民間人のみで、数百人規模の住民が暮らしています」
「要塞ができたおかげで、平和に農作業ができているのね」
「ええ。兵士たちも時折、物資を分け与えたり、畑の手伝いをしたりしています」
アリスティアは高台を降り始めた。
石段を下りながら、ゲルハルトが後ろから声をかける。
「副司令補佐、今日から本格的に作戦会議を――」
「ええ、後でね。今は少し、部隊の様子を見ておきたいの」
要塞の広場に戻ると、水浴びを終えた団員たちがぞろぞろと戻ってきていた。
上半身裸のまま、肩を叩き合ったり大声で笑い合ったりしながら歩いている。
水滴がまだ胸や背中を伝い、朝陽に光ってキラキラ輝く。
その横に、三人の女性が立っていた。
銀の鎧に金色の装飾が施された、見事な軽装甲冑。
高身長で、男性騎士に引けを取らない体躯。
長い髪をそれぞれ違った形でまとめ、凛とした雰囲気を漂わせている。
三人とも、元薔薇騎士団――王都で王女殿下の近衛を務めていたエリート集団の出身だ。
今は「百合薔薇部隊」としてアリスティア付きの補佐官に任命されている。
リーダー格のクラリス・ローゼンブルクが一歩前に出て、礼をした。
「アリスティア様、お帰りなさいませ。ゲルハルト中佐より、高台での視察にご同行したと伺いました」
活発な雰囲気のカタリナが続けた。
「やっとお会いできました! 私たち、ずっと待ちくたびれちゃってましたよ!」
ソフィーネは控えめに頭を下げた。
「……お疲れ様です。アリスティア様」
アリスティアは応えた。
「あなたたちが噂の薔薇騎士団の三人ね。よろしく、クラリス、カタリナ、ソフィーネだったわね」
だが、アリスティアの視線は自然と横の男性団員たちに注がれていた。
筋肉は騎士らしい引き締まりを見せている。
だが現代の重装備兵に比べると華奢で、持久力重視の体型だ。
肩幅もそれほど広くなく、胸板も厚みがない。
カタリナが腰に手を当て、吠えた。
眉をつり上げ、男どもを睨みつける。
「おい、そこの男ども! アリスティア様に何を見せているんですか! さっさと服着なさい、あっち行けーっ!」
男性団員たちがびくっとして背筋を伸ばす。
「は、はいっ!」
「失礼しましたーっ!」
慌てて鎧を抱え直し、足早に散っていく。
アリスティアが手を上げて制した。
「いいのよ。こういうのにも慣れないと、前線では困るわ」
クラリスが少し心配そうに眉を寄せた。
「しかし、アリスティア様。あまり見慣れない光景でしょうから……」
「ええ、大丈夫」
アリスティアは笑みを浮かべた。
しかし、内心では別のことを考えていた。
――確かに騎士らしい筋肉はある。
――でもこの世界の戦い方では不十分だ。
――この世界には銃がない。
――衝撃吸収のための厚い筋肉が必要だ。
――王城の近衛騎士も、王子も、吹き飛んだときの感触が軽かった。
――ここではっきりわかった。
――このままじゃダメ。
――食事を根本から変えないと。
ソフィーネが言った。
「アリスティア様、そんなにじっと見つめられると、彼らもさすがに恥ずかしがってますよ」
アリスティアははっと我に返った。
「あ、ごめんなさい。考え事をしていて」
すると、近くにいた団員が言った。
「いやいや、こんなんでよければいくらでも見てくださいよ!」
別の団員が調子に乗って続ける。
「何なら下も見せましょうか!」
レオハルトが即座に前に出て、追い立てた。
「貴様ら、ふざけるな! 副司令補佐の前だぞ! さっさと着替えに行け!」
団員たちが慌てて敬礼し、逃げるように走り去っていく。
カタリナが肩をすくめた。
「まったく、男ってのは……」
クラリスがアリスティアに向き直り、丁寧に言った。
「アリスティア様、前線は慣れないことも多いかと存じます。私たち三人がお側でお世話させていただきます。何かあれば遠慮なくおっしゃってください」
ソフィーネが一歩近づき、アリスティアの右手を取った。
白い手袋越しに、ほんのりとした温かさがじんわり伝わってくる。
「……私たちも、精一杯サポートいたします。どうぞよろしくお願いします」
アリスティアはその手を握り返した。
「こちらこそ、よろしくね。三人とも、レオハルトの親戚だって聞いたわ。頼りにしてる」
カタリナが明るく笑った。
「レオハルト様の遠縁ですよ! だからこそ、アリスティア様のことはしっかり守ります!」
レオハルトが少し顔を赤らめて咳払いをした。
「……余計なことは言うな、カタリナ」
クラリスが言った。
「では、早速ですが司令室へご案内いたしましょう。今日から本格的に作戦会議です」
アリスティアは歩き出した。
――食の改善、訓練の改革、そして戦い方そのものの変革。
――やるべきことは山積みだ。
――でも、ここからが本当の始まり。
要塞の石畳を踏みしめながら、アリスティアの瞳には闘志が宿っていた。
一方、敵陣営の大きな天幕の中。
バルデリック・シュタウフェン伯爵が、重い足取りで中央の椅子にどっしりと腰を下ろした。
革の鎧がギシッと音を立てる。
負傷した斥候の生存者が、よろめきながら天幕に入ってきた。
部下が支え、額を地面に擦りつけるように跪かせた。
「伯爵様……斥候部隊が大損害を被りました。グランベルクの補充部隊と遭遇し、返り討ちに遭った模様です」
伯爵は地図を広げたテーブルに肘を突き、指で額を押さえた。
「ふむ……グランベルクの新兵か。数百の補充が入ったという噂は本当だったようだな」
副官の男が前に出て、報告を続ける。
「今が狙い目です、伯爵様! まだ馴染んでいないはず。要塞の守りが硬くなる前に総攻撃を仕掛けましょう」
バルデリックはゴンッ! と拳をテーブルに叩きつけた。
木の音が天幕に低く響き、布がわずかに揺れる。
「焦るな。だが、準備はしておけ。騎馬を先頭に、歩兵を後ろから押し込む。破城槌も二台用意しろ」
副官が目を輝かせ、すぐに敬礼した。
「了解! いつ出立いたしましょう?」
伯爵は地図に視線を落とし、指で要塞の位置をなぞった。
「二か月後に本国より大規模援軍が到着する。それを待って一気に総攻撃をかける」
「はっ! 伯爵様の仰せのままに!」
部下たちの足音が遠ざかり、天幕に静寂が戻る。
バルデリックは一人残り、ワインの杯を乱暴に手に取った。
赤い液体が少しこぼれ、テーブルに滴る。
杯を傾け、喉を鳴らして飲み干した。
「猿どもめ……踏み潰してやる」
唇が歪み、目がぎらりと光った。
その時、天幕の入り口が開き、小柄な影が滑り込むように入ってきた。
伯爵がはっと杯を置き、慌てて腰を浮かせる。
「これはこれは……」
「予定は順調か? 斥候部隊が全滅したと聞いたが」
バルデリックが額に汗を浮かべた。
「は、はい……返り討ちに遭った模様で……」
「ふむ……次は私も出よう」
「殿下が自ら……?」
「それは危険すぎます!」
「心配無用だ。……何が起きてもな」
そう言い残し、天幕の闇に溶けるように去っていった。
バルデリックはただその背を見送った。




