第5話
城館の玄関ホールに足を踏み入れた瞬間、燭台の火が一斉に揺れた。
床に長い影がいくつも伸びている。
正面の大階段の上、ギュスターヴとエレオノーラが並んで立っていた。
いつも威厳を崩さない父の肩が、今はわずかに落ちている。
母は両手を胸の前で固く組み、唇を震わせていた。
アリスティアが一歩踏み出すと、母が我慢の糸が切れたように駆け下りてきた。
ドレスの裾を高く翻し、階段をタタタッ! と降りる。
靴音が響き渡る。
「アリスティア……っ!」
母は勢いそのままに飛び込むように抱きついてきた。
柔らかな体温がアリスティアを包み込んだ。
「……帰ってきたのね、本当に……!」
母の涙が肩に染みていく。
令嬢はぎこちなく、腕を回した。
「……ただいま、お母様」
父も階段を降りてくる。
重い靴音が一つ一つ確実に近づいてくる。
アリスティアの前に立ち止まると、父は手を伸ばした。
肩をがっしりと掴んだ。
「……無事でよかった」
低く呟くと、ぐいっと抱き寄せる。
父の広い胸に顔が埋まり、革と鉄の懐かしい匂いが鼻をくすぐった。
腕の力が容赦なく締めつけた。
「……お父様、息が……っ」
「……すまなかった」
父は短く答えると、さらに腕に力を込めた。
背中をどんと叩いた。
まるで二度と離さないと誓うように。
どれだけ時間が経っただろう。
母がようやく顔を上げた。
「もう離さないって決めたのに……」
アリスティアは母の頬の涙を親指で拭った。
「すみません。でも、帰る場所があるって初めて実感しました」
その言葉に、父が頷く。
「……中へ来い。夕食の支度ができている」
母がアリスティアの手を握ったまま離そうとしない。
父は先導するように歩き出し、背中越しに低く告げた。
「今日は特別だ。お前の好きなものを……いや」
足が止まる。
「違うな。お前が望むものを用意させた」
「……まさか」
父が振り返り、珍しく照れ臭そうに鼻を鳴らした。
「お楽しみだ」
三人が並んで食堂へ向かう。
城館の大食堂はいつもより静かだった。
燭台の火がゆらめき、長いテーブルの中央に並ぶ料理が目に入る。
脂を落とした牛ロースの厚切りステーキ。
香ばしく焼き上げられた鶏胸肉。
ゆで卵の山、色とりどりの蒸し野菜。
甘いパンもクリームスープはどこにもない。
アリスティアは席に着くなり、ぱちっと目を丸くして固まった。
「お父様、お母様……どうしてそちら側も同じメニューなんですか……?」
テーブルの向かいでは、父ギュスターヴが少し頬を赤らめながらナイフを握っていた。
エレオノーラがくすくす笑いを堪えてフォークを構えている。
ギュスターヴはわずかに口元を緩めた。
「気になってな。私たちもこの食事にしてみたんだ。どうにも朝の目覚めが違う。体が軽い。今度、騎士団の朝食にも取り入れてみようと思う」
エレオノーラがナイフで鶏肉を切る。
「私もびっくりしたわ。肌の調子まで良くなった気がするの。アリスティアの言う通りだったわね。ありがとう、アリスティア」
アリスティアは頬を赤くした。
「いえ……私こそ急に変えてしまって申し訳ありません」
ギュスターヴが肉を口に運ぶ。
「謝ることはない。これでいい」
しばらくナイフとフォークの音だけが響いた。
アリスティアはステーキを三分の一ほど平らげてから、口を開いた。
「……実は、お願いがあって」
両親の手がぴたりと同時に止まった。
「私を、前線に送ってください」
ガチャンッ!
エレオノーラのフォークが皿にぶつかり、金属音が食堂に響く。
母は目を大きく見開き、顔から血の気が引いた。
「……何? 今、なんて……?」
父は眉を寄せて娘を見つめた。
「前線です。できれば東部国境の要塞都市、エルデンあたりがいいのですが」
ギュスターヴがナイフを置き、娘をまっすぐ見つめた。
「却下だ」
「私も反対よ」
エレオノーラが即座に続ける。
「あなたはもう十分に傷ついたわ。それなのに前線だなんて……」
アリスティアは両手をテーブルに置き、背筋を伸ばした。
「だからこそ、です。貴族であるほど前線には行きません。追手を撒けます」
ギュスターヴが眉を寄せる。
「だからといって娘を戦場に放り出すわけにはいかん」
「放り出すのではありません。私が行きたいんです」
令嬢は揺るがぬ声で続けた。
「お父様とお母様の立場を考えても、これ以上王都にいるとグランベルク家全体が標的にされます。私を狙っているのは王妃ですから」
エレオノーラが立ち上がり、テーブルを回ってアリスティアの隣に座り直した。
両手で娘の手を包む。
「嫌よ。アリスティア、あなたはもう十分に辛い思いをしたわ。私たちが守る。屋敷にいなさい」
「お母様……」
アリスティアは握り返した。
「守っていただけるのは嬉しいです。でも、守られるだけじゃ、もう嫌なんです」
ギュスターヴが深いため息を吐いた。
静寂が食堂を満たす。
やがて、公爵は口を開いた。
「……分かった。行くことを、許す」
アリスティアの目がぱっと見開かれる。
父は椅子を軋ませず、立ち上がった。
背筋がピンと伸び、肩が一回り大きく広がるように見える。
まるで戦場に立つ将軍の姿だった。
「ただし――」
父はテーブルに両手をどんっと置き、ぐいっと身を乗り出した。
木のテーブルがぎしっと軋み、燭台の火がびくっと揺れる。
瞳に宿る光は、優しい父親のものではなく冷徹な武人のそれだ。
鋭く、容赦ない。
「監視は、つけさせてもらう」
アリスティアが小さく首を傾げる。
「俺が選んだ騎士が常にそばにいる。お前の行動、言葉、食事、睡眠、呼吸のひとつに至るまで全てを報告させる。少しでも妙な動きがあれば、たとえ国境の果てだろうと俺が全軍を率いて迎えに行く。――娘を失うくらいなら、この国を敵に回しても構わん」
最後の一言は呪いのように低く響いた。
エレオノーラが息を呑み、アリスティアの背筋に冷たいものが走る。
ギュスターヴは顔を上げ、娘をまっすぐに見据えた。
その目に揺れるのは、ただひたすらに壊れそうなほど強い愛だった。
「それでも行くと言うなら、止めはしない。だが覚えておけ、アリスティア。お前は俺の娘だ。どこに行こうと誰に守られようと、最後は必ず俺が守る」
静寂。
燭台の火がぽうっと音を立てて揺れた。
アリスティアは微笑んだ。
「……はい、お父様。約束します」
ギュスターヴは食堂の扉の方へ視線をやった。
「――入れ」
父の声に、重い扉がぎいっと開いた。
そこに立っていたのは背の高い若き騎士。
黒髪に薄い碧の瞳が燭台の光を反射して輝く。
レオハルト・クロウエル――ヴィルヘルムの長子、次期騎士団長最有力候補。
レオハルトは硬く引き締まった表情のまま、かちゃっと靴音を響かせて一歩踏み出した。
片膝をどんとついた。
「レオハルト・クロウエル。命により、アリスティア様の護衛を務めさせていただきます」
アリスティアは目を丸くして、思わず呟く。
「……耳朶赤いやつ」
レオハルトの肩がびくりと跳ねた。
ギュスターヴが告げた。
「こういうことも想定していた。いや、むしろ望んでいた」
アリスティアがぱちりと瞬きする。
「お前がいつか自分の道を選ぶ日が来る。それが今日だとは思わなかったがな」
公爵はレオハルトを一瞥し、続けた。
「レオハルトはいずれお前の護衛騎士にする予定だった。ヴィルヘルムも承知の上だ。実戦経験を積ませる名目もあるが、本命はお前を守ることだ」
レオハルトが顔を上げた。
「お父様より以前より命じられておりました。アリスティア様の剣と盾となること、それが私の定めです」
アリスティアは口を半開きのまま、父とレオハルトを交互に見た。
ギュスターヴが肩をすくめる。
「ヴィルヘルムは領地に残る。奴がいなくなれば守りが揺らぐ。だがレオハルトなら、お前の我儘にもしっかり付き合えるだろう」
アリスティアはすぐに頭を下げた。
「承知しました。ありがとうございます」
エレオノーラが笑う。
「本当に強くなったわね……アリスティア」
ギュスターヴは再び席に座り直し、ナイフとフォークを手に取った。
「三日後に出立だ。それまでに体を整えろ」
そしてレオハルトに向かって命じた。
「――レオハルト。お前は今日からアリスティアの影に徹しろ。呼吸を合わせろ。離れるな」
レオハルトが立ち上がり、一礼する。
「はっ! 命に代えても」
アリスティアはちらりと横目でレオハルトを見た。
食堂の外、廊下の陰で。
ヴィルヘルムが壁に背を預けた。
「……頼んだぞ、レオハルト」
夕陽が完全に沈み、城館に深い夜の帳が下りる頃。
アリスティアは自室の窓辺に立ち、ガラスに額を寄せていた。
東の空を見上げている。
彼女は呟いた。
「絆されるな……次は本物の戦いだ」
窓の外、銀色の月が昇り始めた。
一方、王宮の奥深く、燭台の火がわずかに揺れるだけの薄暗い部屋。
王妃イザベラは苛立たしげに扇を握りしめていた。
コンコンッ
重い扉が控えめにノックされ、黒い外套の側近が膝をついて入室する。
「王妃様、アリスティアの行方ですが……。未だ掴めておりません。グランベルク領に潜伏した模様でございますが、領内の情報網が途絶えております」
ぱちんっ!
扇を鋭く閉じ、彼女は吐き捨てるように叫んだ。
「あの豚女め……っ! 婚約破棄で穏便に済ませておけばよかったのに。ルドルフの骨を折った挙句、逃げおおせたなどと……許せないわ!」
側近は額に汗を浮かべる。
「近衛の追っ手も村々で情報を得られず、すべて空振りに終わっております」
王妃は立ち上がり、窓辺に歩み寄って夜の王都を見下ろした。
指先でカーテンを握り、布が軋む音が響く。
「ギュスターヴ……娘を隠し通すつもりね。ふん、所詮は武門の家系。教養も策謀も知らない獣どもが」
その時、部屋の隅の隠し扉がかすかな軋み音を立てて開いた。
深い赤のマントを翻し、威厳ある足音がコツコツと響く。
ロンバルドが姿を現す。
王妃の前で優雅に片膝をついた。
燭台の火がその瞳に怪しく反射する。
「王妃様。お待たせして申し訳ありません」
王妃は振り返り、苛立ちを隠さずに侯爵を見据えた。
「ロンバルド。遅いわね。状況は?」
侯爵は立ち上がり、一歩近づいた。
「お耳に入れましょう。あの小娘は確かにグランベルク領に引きこもっている模様。しかし領内の動きは鈍く、ただの逃亡者に過ぎません。公爵夫妻も娘を甘やかすばかりで、こちらへの対抗策など立てられぬでしょう」
王妃は眉をひそめ、扇を再び開いてゆっくりと仰いだ。
「本当に? あの娘、王宮で近衛騎士を四人も倒したらしいじゃない? ……油断は禁物よ」
侯爵は自信たっぷりに首を振った。
「話に尾ひれはつくもの。実際、追っ手が領地近くまで迫っても音沙汰一つない。グランベルク家など、軍を動かせば一撃で潰せます。今なら証拠も残らず、事故に見せかけることなど容易い」
王妃の瞳がわずかに輝き、唇の端が上がった。
「ええ……そうね。ルドルフの怪我の仇も取れるわ。公爵家を潰せば辺境の不穏分子も黙るでしょう」
侯爵は頭を下げ、甘い声で囁く。
「お任せを。あの小娘など、どうとでもなります」
王妃は扇を閉じ、侯爵の前に戻った。
彼の胸に手を置いた。
指先が布を掴み、上目遣いに見上げる。
「本当に……あなたがいれば怖いものなんてないわ」
ロンバルドは王妃の腰に手を回し、耳元で囁いた。
「もちろん、王妃様。すべてはあなたのために」
二人の視線が絡み、部屋の空気が熱を帯びる。
王妃は頰を赤らめ、息を吐いて離れた。
「頼んだわよ、ロンバルド。失敗は許さないわ」
侯爵は優雅に礼をし、隠し扉へと戻りながら最後に振り返った。
「ご安心を。計画は既に始まっております」
扉が閉まり、部屋に静寂が戻る。
王妃は一人残り、窓の外の闇を見つめながら笑った。
「ふふ……狩りの時間よ」




