第4話
馬車が王城を離れ、半日近くが経った。
午後遅く、陽が傾き始めた頃だった。
三つ目の集落。
リンデンの里と呼ばれる村の入り口に差し掛かった。
街道沿いに、木造の家々が続く。
藁葺きの屋根から、夕餉の支度を告げる薄い煙がゆらゆらと立ち上る。
かすかな薪の香りが漂ってきた。
畑の向こうでは、痩せた牛が二頭、のろのろと草を噛みながら歩いている。
ブオ~オ~と低い鳴き声が、村に響く。
アリスティアが窓越しに見て呟く。
「この世界でも、こういう場所はあるんだな」
車体がガタンと止まった瞬間――
ドドドッ!
小さな足音が一斉に響いた。
子供たちが駆け寄ってきた。
「おおっ! お姫様だー!」
「きれいなお姉ちゃんだ!」
「馬車すげえ! 黒くてピカピカ!」
無垢な声が弾け飛ぶ。
10人以上の小さな体が、目をキラキラさせながら馬車の周りを囲んだ。
大人たちが慌てて追いかけてくる。
「こら! 失礼だぞ!」
「貴人様だ、どけどけ!」
御者が馬車の扉を開ける。
アリスティアは扉から顔を出し、微笑んだ。
優雅にスカートの裾を摘んで、ステップを降りた。
トン。
長い金髪が夕陽に透けてキラキラと輝く。
埃まみれの真紅のドレスさえも、どこか神聖な光をまとっていた。
彼女は周囲を見回した。
「いいのよ。構わないで」
そのまま微笑み続け、小さな手を伸ばして一人一人子供の頭を撫でていく。
ふわっ。
汚れた髪の柔らかい感触。
土のついた頬が、照れたように赤く染まる。
子供たちはアリスティアの手を取った。
大人たちも、次第に輪の内側へと引き寄せられるように近づいてくる。
一人の日に焼けた農夫が、恐縮しながら口を開いた。
「申し訳ございません……こんな汚い姿で……」
アリスティアは首を振り、農夫のごわごわした手を自分の両手で包み込む。
ざらっ。
硬くなった手の感触と、爪の間の土が伝わってくる。
指には古い傷がいくつも残っていた。
「いいえ。あなた方のこの手こそが、この国を支えているのですもの」
農夫の目がじわんと潤んだ。
「あなた方が毎日畑を耕すように、地道に努力を重ねれば、必ず実を結ぶはずです。どうかこれからも、この手で家族を、村を、守ってくださいね」
その一言で――ざわっ。
広場にいた数人の大人たちが、感極まったように膝をついた。
ドサッ、ドサッ。
やがてそれに倣うように、他の村人たちも次々と頭を深く下げた。
「お嬢様……ありがとうございます!!」
子供たちはまだ立ち尽くしていたが、両親の姿を見て膝を折った。
広場に、服が擦れる音だけが響いた。
アリスティアは歩み寄り、最前列にいた村長の前に立つ。
「村長様」
老人は慌てて額を地面につけた。
「は、はっ! お、お嬢様……!」
令嬢は優雅に膝を折り、老人の目線に合わせるようにして微笑んだ。
アリスティアは村長の手に、小袋に入った銀貨と金貨を一枚ずつ滑り込ませる。
「今日皆さまと出会えたことに感謝し、僅かですがどうぞ。皆さまで何か美味しいものでもお求めになって」
老人の目が驚きに見開かれた。
「お、お嬢様……! これは……ありがとうございます……!」
「子供たちに元気をいただいたので、少しだけお裾分けしただけですわ」
アリスティアは立ち上がり、優雅にスカートの裾を払う。
村人たちは泣きながら、でも満面の笑みで何度も頭を下げた。
彼女は再び馬車に戻る前に、村人たちに告げた。
「それでは、またどこかで」
馬車が再び走り出す。
背後で村人たちが手を振り、子供たちが「またね!」と叫ぶ。
やがてその姿も小さくなり、夕陽の中に溶けていった。
車内でアリスティアは窓の外を眺めながら、ぽつりと呟いた。
「……優しすぎたかしら」
運転手の老人が前を向いたまま、答える。
「私はただの運転手ですので、お嬢様のお心の丈は測りかねます」
「そう……よね」
そして遠ざかる村を見送る。
――優しさは武器にもなる。
そして時には毒にもなる。
けれど今はまだ。
この優しさを誰かのために使ってもいい。
「こういうの、なんていったっけな。『情けは人のためならず』だっけか?」
馬車は街道を疾走していった。
――数時間後。
リンデンの里。
夕暮れの薄闇が村を包み始めた頃。
ドドドドッ!
荒々しい馬蹄の音が響いた。
黒い外套に銀の胸当て、王家の紋章が縫い付けられた十人ほどの騎馬集団が土煙を上げて突入してきた。
先頭の男は額に汗を浮かべ、眉を吊り上げて威圧的に馬を広場に乗り入れる。
「おい、農民ども!」
村人たちは夕餉の支度の手を止め、不安げに顔を見合わせた。
「黒い馬車が通らなかったか? 金髪の貴族令嬢を乗せたやつだ!」
先頭の追手、王宮近衛の副隊長らしき男が馬上から吐き捨てるように言った。
村長が恐る恐る前に出る。
「……はあ。確かに立派な馬車は通りました」
追手の男が目を細めた。
「どんな女だった? 金髪の、太った豚のような――」
言葉を続ける前に、村長が口を開いた。
「美しいお嬢様でした。金髪が夕陽に輝いて、まるで聖女のようでした」
別の農夫が続ける。
「子供の頭を撫でてくださって……」
子供の一人が母親の陰から顔を出し、付け加えた。
「お姫様、すっごく優しかった!」
追手の男の顔がみるみる歪む。
「……方向は? どっちへ行った!」
村長が首を傾げ、曖昧に答える。
「街道をまっすぐ、だったような……」
追手の男が馬を一歩進め、鞭をピシッと振り上げる。
「はっきり答えろ!」
村人たちは一瞬息を呑んだ。
ゴクリ。
数人の大人が怯えたように半歩下がった。
誰も前に出ないが、誰も裏切る言葉を口にしなかった。
皆不安げに、その場に立ち尽くす。
一人の老婆が呟いた。
「本当にお優しい方でございました」
追手の男は村人たちを睨みつけた。
「……くそっ。時間の無駄だ」
追手の一団は土煙を上げて村を去っていった。
残された村人たちは、顔を見合わせる。
村長がぽつりと呟いた。
「……さぁ、みんな戻ろう」
農夫が額の汗を拭う。
「ああ。そうだな……」
子供たちがほっとしたように母親に寄り添う。
「お姫様、また来るかな……」
「また来てくれると嬉しいわね」
村は再び静けさを取り戻した。
彼らはただ真実だけを語った。
自分たちが感じた真実だけを。
馬車は父の領地へと続く私道に入った。
夕陽が山の稜線に沈みかける頃だった。
遠くに見慣れた城壁が、赤く染まって浮かび上がる。
「もうすぐだな」
アリスティアは窓から身を乗り出した。
運転手の老人が振り返る。
「追っ手はまだ影も形もございません」
「私たちのやり方が効いてる証拠だな」
「いい作戦でしたな」
「一枚岩じゃない。それだけで十分だ」
老人は無言で首を垂れた。
それが答えだった。
やがて開け放たれた正門が見えてきた。
門の両脇に、黒と金のグランベルク家旗がはためいている。
その手前――
整列した重装騎士団が、壁のように道を塞いでいた。
少なくとも50騎。
全員が馬を降り、槍を地面に突き立て、待機している。
馬車が近づくと――
ガチャン!
騎士たちが一斉に片膝をついた。
金属の膝当てが石畳を打つ。
重い音が響き渡った。
50の兜が揃って下がり、敬意が広がる。
アリスティアは窓から顔を出した。
「へえ……様になってるな」
最前列に立つ一人の若騎士と目が合った。
短く刈った黒髪に、日に灼けた頬。
真剣な眼差しでこちらを見上げているが、耳朶だけが赤い。
彼女は小さく手を振った。
「お疲れさま。立っていいわよ」
若騎士は慌てて立ち上がり、敬礼の姿勢のまま声を張る。
「お帰りなさいませ、アリスティア様! 無事で……本当に、ご無事で……!」
馬車は速度を落とさず、門をくぐる。
騎士団は左右に分かれ、車体を挟むように隊列を組み直す。
前後も固め、守りの籠のように進んだ。
城館へ続く長い石畳の坂道。
両脇にさらに騎士たちが立ち並んでいく。
総勢200を超えていた。
――これ以上、悲しませてはならない。
それが全員の共通の誓いだった。
城館の正面玄関前。
馬車が止まる。
運転手の老人は動かない。
代わりに扉の外から大きな手が伸び、丁寧に取っ手を回した。
ガチャリ。
扉が開く。
そこに立っていたのは――
体躯の良い、長い茶色の髪を後ろで束ねた男。
肩幅はアリスティアの倍近くあり、黒の外套に銀の胸当て。
顔立ちは誰よりも凛々しく、しかし瞳だけが熱を帯びていた。
アリスティアの記憶がはっきりと名を告げる。
「ヴィルヘルム・クロウエル……」
グランベルク家筆頭騎士団長。
アリスティアが幼い頃から「叔父様」と呼んで慕っていた男。
ヴィルヘルムは片膝をつき、令嬢の右手をそっと取った。
白い手袋越しに体温がじんわり伝わってくる。
彼の瞳が抑えきれない感情で揺れる。
「おかえり、アリスティア」
「ごめんね。心配かけて」
その瞬間、ヴィルヘルムの肩がほっと緩んだ。
彼は立ち上がり、アリスティアの手を自分の肘に添えさせた。
完璧なエスコート。
「「「お帰りなさいませ! お嬢様!」」」
背後から騎士たちが声を揃える。
そして次々に告げた。
「お嬢様をお守りできなかった無礼、死をもって詫びます!」
「これより先、我らの命は全てお嬢様のものです!」
「二度と、あのような目に遭わせませぬ!」
アリスティアは振り返り、そっと手を上げた。
「みんな……ありがとう」
声は小さかったが、全員に届いた。
「でもね、私まだ泣いてないわ。泣かせる相手は、私が自分で片付ける。だから――みんなは、私の盾じゃなくて、私の剣になって」
一瞬の静寂。
次の瞬間――
ガシャン! ガシャン! ガシャン!
騎士たちが一斉に槍を石畳に打ち鳴らした。
熱い視線がアリスティアに注がれ、広場全体が気迫に満ちた。
ヴィルヘルムが彼女の手を優しく握る。
「望むままに」
アリスティアはヴィルヘルムの肘に体重を預けた。
城館の扉が開かれる。
――ここが、私の帰る場所。
――ここから、私の戦いが始まる。
夕陽が最後の光を石畳に落とした。




