第3話
――騒動から5日後。
朝の柔らかな光が寝室に差し込んでいた。
アリスティアは鏡台の前に立ち、上着を脱ぎ捨てる。
鏡に映る自分の裸体をじっと確かめた。
筋肉痛はもうすっかり引いていた。
――鈍い痛みはない。
肘を回せば関節がスムーズに滑る。
ただ右肩から背中にかけて、淡い紫色の打撲痕が残っていた。
肋骨のあたりにも騎士の鎧がぶつかった跡がうっすらと浮かぶ。
指先で触れるとわずかに熱が残る感触だった。
「……まあ、これくらいなら」
彼女は鏡の中の自分を鋭く見据えた。
唇がわずかに引き結ばれる。
「問題ない」
この5日間、彼女は食事の内容を完全に変えてもらっていた。
当初屋敷の食卓は典型的な貴族料理だった。
甘いパン、クリームたっぷりのスープ、砂糖漬けの果物。
動物性たんぱく質はほとんどなく炭水化物と脂質の嵐。
「こんなんじゃ戦えねえ」
翌朝の食卓で令嬢はフォークを置き、両親をまっすぐ見つめた。
「これからは肉を増やしてください。卵も。魚も。野菜は蒸すか茹でるか生で。甘いものは控えめにお願いします」
エレオノーラがぱちくりと目を丸くした。
手にしたティーカップがわずかに揺れた。
「……お、お肉を?」
父ギュスターヴが眉を寄せる。
「娘よ。貴族がそんな粗野な食事は……」
アリスティアは力強く告げた。
「私、変わらなきゃいけないから」
テーブルに置いた拳がぎゅっと握られる。
「もう二度と誰にも馬鹿にされたくない」
その言葉に両親の表情が変わった。
母の目が潤み父の肩がわずかに落ちる。
――すべてを理解した。
それから5日間厨房は大混乱になった。
朝は、ゆで卵3個、鶏肉のグリル、野菜の煮込みスープ。
昼は、牛肉のロースト、蒸し野菜、パン。
夜は、魚の焼き物、豆の煮込み、パン。
目標は筋肉をしっかりつけて、強くしなやかになること。
甘いものは嗜む程度に。
「……これでいい」
アリスティアは鏡に向かって頷いた。
そしてそのときだった。
廊下を駆ける慌ただしい足音。
扉が勢いよくノックされる。
「お嬢様! 王宮からの使者が正門に!」
令嬢は振り返った。
「……やっぱり来たか」
彼女はドレスの裾を払う。
「さあ、次は貴族の戦場だな」
公爵邸の正門前にアリスティアとギュスターブが並ぶ。
使者は紋章付きの外套を翻し一礼した。
「アリスティア・グランベルク嬢殿。陛下の御前にただちに単独で参られよ」
アリスティアはギュスターヴへ振り返り封筒を渡す。
「お父様。私が出かけた後にこれを開けてください」
父は娘の肩に手を置く。
「分かった」
彼女は熱い感触を確かに感じ取った。
「気をつけろ、アリスティア。王宮はもうお前の味方ではないかもしれない」
アリスティアは父の手に自分の手を重ねる。
「だからこそ行ってきます」
アリスティアは馬車へ向かった。
王宮・謁見の間。
重い扉が開く。
コツッ……コツッ
床に響く靴音がやけに大きく感じられた。
壁に飾られた歴代国王の肖像がこちらを見下ろしているようだった。
玉座に座る国王は疲れた顔で右手を額に当て、肘掛けを軽く叩いていた。
王妃は立ち上がり、扇を握りしめたまま指先が白くなるほど力を込めている。
ルドルフは右腕を布で吊っていた。
医務官が膝をついて報告する。
「肋骨二本、右上腕骨にひびが入っております。全治一ヶ月を要します」
列席したロンバルド・アンシュタット侯爵が声を張り上げた。
「王族への暴行! 死罪に値します!」
王妃が即座に続く。
「その通りですわ! 私のルドルフをあんな目に遭わせて!」
国王が短く吐き捨てる。
「静まれ」
国王は手を上げ全員を制した。
「アリスティア、申してみよ」
アリスティアは一歩前に出る。
「まずこれをご覧ください」
羊皮紙を両手で掲げ広げる。
「婚約破棄の書状です。王家の印璽は確かに押されております。しかし陛下の署名がございません。これは偽造文書です」
ざわめきが広がる。
貴族たちが顔を見合わせ、囁きが波のように伝わっていく。
彼女は続けた。
「偽造文書を盾に婚約を破棄しようとした時点で、王子殿下は私に明確な殺意を示したと解釈できます。さらに公開の場で平手打ちを振り下ろされました。私は命の危険を感じ反射的に身を守ったまでです」
ルドルフが歯を食いしばって叫ぶ。
「ふ、ふざけるな! お前は俺を──」
国王が鋭く遮る。
「ルドルフ、黙れ」
国王は息子を一瞥し深いため息を吐いた。
「印璽の使用は王子の一存では許されぬ。ルドルフ、お前の落ち度が大きい」
王妃が顔を真っ赤に染めて悲鳴のような声を上げる。
「ちょっと待ってくださいませ! この女がルドルフを殴ったのは事実です!」
国王が疲れた目で返す。
「王妃、落ち着かれよ」
「こんな不敬な女を野放しにしておくなんて!」
「息子は死んだわけではない。戯れの延長として――」
王妃が絶叫した。
「戯れ!? ルドルフの骨が折れたのを戯れとおっしゃるのですか!」
ガンッ!
扇を床に叩きつけ金属音が鋭く響く。
貴族たちのざわめきがさらに大きくなる。
空気が重く張り詰める。
ロンバルドが一歩前に出る。
「陛下、戯れに骨が折れるなど聞いたことがございません。この女は明らかに殺意を持って――」
別の貴族が口を挟む。
「しかし偽造は重罪。こちらも見過ごせません」
ざわめきがさらに大きくなる。
国王が再び手を上げて制した。
「沙汰は追って下す。アリスティア、一旦別室で待機せよ」
衛兵二人がアリスティアの両脇に立ち促す。
彼女は一礼し踵を返した。
背中に刺さる視線を感じながら歩き出す。
側廊下の小部屋に通されると扉が閉まる。
アリスティアは部屋を歩き見回す。
指先がカーテンに触れた。
「……いい厚さだ」
布を引き剥がし左腕に巻きつける。
そして扉の壁際に体を滑り込ませた。
ランプの火がゆらゆらと揺れる。
……コンコン。
2回ノック。
数秒の沈黙。
誰も返事をしない。
ガチャッ
扉がほんの数センチだけ開く。
隙間から男の目が覗いた。
音を殺して扉が押し開かれる。
黒い影が這うように室内に忍び込む。
男は一人。
顔を布で隠し右手には短いナイフ。
ランプの灯りを背に男は慎重に一歩また一歩と進み――。
「あ? どこいった?」
その瞬間――。
サッ!
アリスティアの腕が影から伸びる。
男の首の後ろに回る。
「――っ!?」
男の目が見開く。
息を吸う間もなく頸動脈をギュッと押さえ気道を塞ぐ。
「ぐっ……がっ」
男の体が激しく跳ねナイフが床に落ちる。
カラン……
彼女は耳元で囁く。
「お粗末だな」
男が必死に腕を引っかこうとする。
だがカーテンの厚い布がそれを阻む。
「ひゅっ……」
男の目が白く裏返る。
力が抜けぐったりと床に崩れ落ちた。
ドサッ。
アリスティアは無造作に男を壁際に引きずり懐を探る。
小さな紙片が一枚あった。
『遊んでも、殺してもよい。好きにせよ』
「……はいはい。お世話様」
紙を指先で弾いてポケットにしまう。
そして窓際へ向かい、カーテンを4つ全て引き剥がした。
さらに装飾紐を加えて補強しながら、端と端を固く結ぶ。
ここは3階、地上まで約10メートル。
繋いだカーテンを見て呟く。
「……ギリギリだな」
鉄格子にカーテンを巻きつける。
「女は度胸!」
指で結び目をギュッと確かめ体を反転。
背中を外側に――。
両手でロープを固く握る。
足を壁に当てズルズルと滑り降りる。
シュッ!
風を切る音が耳を打つ。
地面が迫る。
ロープを放し、膝を曲げて転がるように着地。
ドサッ!
痛みをこらえつつ立ち上がる。
そして走り出した。
薔薇の棘がドレスをビリッと裂く音がするも無視して影へ駆ける。
侍女用の裏口を抜けると、馬車が既に待機していた。
「予定通りだ! 走れ!」
車輪が石畳を蹴り、車体が大きく揺れる。
アリスティアは窓から遠ざかる王宮を見やった。
「……またな」
御者が前を向いたまま尋ねる。
「公爵邸へ直行で?」
「まずはお父様の領地へ。そこから馬を替えながら国境まで一気に抜ける」
「街道は既に手配済みでございます」
「気が利くな!」
彼女は遠ざかる王宮を一瞥した。
「目標は3日だ。追っ手が来る前に全部終わらせる」
馬車は王都を疾走し、石畳が土の街道へと変わっていった。




