第2話
アリスティアは大広間の扉を閉めた。
「あーもう! 何だこの状況!?」
同時に片手でスカートの裾を掴み上げた。
反対の手で靴を脱ぎ捨てる。
続けて裾をたくし上げ、素足で全力疾走した。
ドタドタドタッ!
廊下の絨毯を蹴る音が響いた。
胸がぶるんぶるんと激しく揺れる。
「アリスティア様!?」
角で見張りの若い近衛兵が目を丸くした。
慌てて追いかけようとする。
「待ってください、どこへ――」
無視。
息を吐くたび、胸の揺れが邪魔だった。
それでも足は止まらない。
アリスティアは唇を噛み、必死の表情で曲がり角を滑るようにターンした。
曲がり角を二つ、三つ。
壁に手をついて体を滑らせるようにターンし、絨毯の端を蹴って加速する。
「どうされましたか!?」
別の騎士が駆け寄ってくる。
「どけ」
肩をぶつけるようにすり抜け、騎士の胸当てを肘で弾き飛ばした。
「なっ……!」
ガシャンッ!
背後で金属が鳴る音を聞きながら、正面の大階段を見据えた。
三段飛ばしで駆け下り、着地のたびに膝が軋む。
それでも歯を食いしばって、最後の一段を蹴った。
勢いのままに正面玄関へ飛び出す。
外は若干薄暗い。
馬車がずらりと並ぶ中、グランベルク家の紋章が描かれた漆黒の車体が目に入った。
「アリスティア様!」
運転手の老人が驚いた顔で扉を開けようとする。
「走れ!」
アリスティアはステップを蹴って車内に飛び乗った。
「すぐに発車しろ!」
「は、はいっ!」
馬が嘶き、車輪が石畳を蹴る。
車体が大きく揺れて出発した瞬間、彼女はようやく背もたれに体を預けた。
「……はあ、はあ……」
胸が激しく上下し、汗で張りついたドレスが肌にまとわりつく。
窓の外を流れる王宮の灯りが遠ざかっていくのを、ぼんやりと眺めた。
しばしの沈黙。
「……おい、爺さん。鏡はあるか?」
運転席から老人が首だけ振り返る。
「申し訳ございません、お嬢様。そのような高級なものを私の身分では……」
「そうか。……ありがとう」
彼女は額に浮いた汗を拭った。
車輪が石畳の継ぎ目を越えるたび、体が大きく揺れる。
「……くそ、いったい何なんだよ」
ぼそり。
呟いた瞬間、胃の奥から酸っぱいものがせり上がってきた。
「……っ!」
慌てて窓に顔を寄せる。
冷たいガラスが頰に触れて、ひんやり。
「お嬢様? 大丈夫でございますか?」
「平気……ちょっと、酔っただけ」
息を吐いて、吸って。
どうにか込み上げてきたものを飲み込む。
窓の外、王宮の灯りがどんどん遠ざかっていく。
アリスティアは目を閉じた。
額をガラスに押し当てる。
「……揺れすぎだろ」
馬車は夜の王都をガタゴトと走り続けていた。
――アリスティアは夢を見ていた。
遠いような昨日の記憶。
銃を撃ち、ナイフを振るう。
共に誓い合った約束。
そして落とされたきのこ雲。
それが最後の記憶だった。
ベッドの上でぱちりと目が覚めた。
一筋の涙が頰をつーっと伝う。
枕にぽたり。
染みていく。
周りを見回す。
「……ここは」
天蓋付きの大きなベッド。
重厚なカーテン、壁の肖像画。
中世みたいな豪華な寝室。
彼女は指先で涙を拭った。
体を起こそうとする。
「……っ!」
腕に全然力が入らない。
肩から背中、太もも、ふくらはぎまで。
全身が鉛みたいに重い。
「これは……ひどい筋肉痛だ」
公爵令嬢が全力疾走するはずがない。
昨日の記憶がこの体にドカンと乗っかかってくる。
「くっ……!」
眉をしかめて歯を食いしばる。
どうにか上半身を起こした。
枕に背中を預けてふうっ。
深く息を吐く。
コンコン。
控えめなノック。
「お嬢様、お目覚めでしょうか?」
扉が開いて入ってきたのはソフィア。
20歳くらいの幼い顔立ちの侍女。
アリスティアの専属で、もう5年近くになる。
銀のトレイに朝食と薬草茶を乗せて、近づいてくる。
ベッドサイドで令嬢の顔を見て――はっと息を呑む。
「お、お嬢様!? お顔色が……!」
目を見開いて顔が青ざめる。
「すぐに公爵様と奥様をお呼びします!」
「待って、ソフィア!」
アリスティアがベッドから右手を伸ばす。
掴もうとするが――ソフィアはトレイをテーブルに置くと小走りで扉へ向かう。
スカートを翻して駆けていく。
「ソフィア、いいから……!」
声が届かない。
ガチャッ。
扉が開いて閉まる音だけが残った。
伸ばしたままの手を宙で止め、彼女は乱れた髪を掻き上げた。
指先に絡まる髪から甘い花の香りが漂う。
戦場では絶対に嗅ぐことのなかった柔らかな匂いだった。
「やはり……異世界なんだな」
彼女は再び枕に体を預けた。
ほどなくして廊下に慌ただしい足音が響き、扉が勢いよく開かれた。
「アリスティア!」
最初に飛び込んできたのは母、エレオノーラだった。
エレオノーラがドレスの裾をぱっと翻してベッドに駆け寄る。
そして――ぎゅうっ!
強く強く抱きしめてきた。
温かい腕が背中を包む。
優しい香りがふわっと鼻をくすぐる。
「無事でよかった……本当に無事でよかったわ……!」
母の背中が小刻みに上下する。
ぽたっ、ぽたっ。
涙がアリスティアの肩に落ちてくる。
令嬢の体がびくっと強張る。
でもすぐにふっと力を抜いて、母の背中に腕を回した。
そっと抱き返す。
続いて入ってきた父、ギュスターヴ公爵。
厳つい顔を心配そうに歪めて、ベッドの反対側に立つ。
「アリスティア、大丈夫か?」
大きな手を伸ばしてアリスティアの右手を握る。
温かくて力強い。
「お父様……お母様……」
彼女は二人を見上げて。
言葉が詰まる。
母が腕に力を込める。
「……辛い思いをさせてごめんね」
アリスティアは首を振る。
「いいんです……私、平気ですから」
父が低い声で。
「婚約破棄の件はもう耳に入っている。王宮からの書状も届いた」
母が顔を上げる。
眉を寄せて怒りを込めて。
「一方的に……! 信じられないわ!」
父がはっきり断言した。
「グランベルク家を娘を侮辱した報いは必ず受けさせる」
アリスティアは二人の顔を見つめて。
胸の奥がじんわり熱くなった。
「お父様、お母様……ごめんなさい。私こんなことになってしまって……」
母が両手で令嬢の頬を包む。
「謝らないで。アリスティアは何も悪くないわ。あの子が一方的に悪いんです」
「でも……私太ってしまったのも事実で……それでルドルフ様に嫌われたんです」
「そんなことで婚約を破棄するような男、最初からあなたの相手じゃないわ!」
「お母様……ありがとうございます」
「あなたは我が家の宝よ」
ぽろっ。
アリスティアの目から涙がこぼれた。
「でも……私、王宮で王子殿下や近衛騎士たちを……」
母が少し目を丸くして、それから口角を上げる。
「聞いたわよ。淑女としてはダメよ、でも……誇らしいわ」
父の口元にわずかな笑みが浮かぶ。
「さすが我が娘だ。グランベルクの血は争えん」
アリスティアは慌てて首を振った。
「そんな……ただつい体が動いただけです。怖いものなんて……」
母が首を傾げる。
「怖くなかったの?」
彼女は少し間を置いて答えた。
「怖くは……。でも、寂しかった」
母の目にも涙が浮かんだ。
「これからはもう寂しくさせないわ。私たちがいる」
「そうだ。アリスティア、お前は我が家の誇りだ」
アリスティアは二人の温もりに包まれながら、初めて安心して涙を流した。
一つを失って一つを得た。
その穴はまだ大きくて、簡単には埋まらない。
それでも――
今はこの温かさに少しだけ身を委ねたい。
彼女は目を閉じて。
手をぎゅっと握り返した。




