第1話
華やかな宴の喧騒が一瞬で凍りついた。
「この豚女め! 貴様とは婚約破棄だ!」
突然響いた罵声。
貴族たちが揃って視線を注ぐ。
その声の主は、第一王子ルドルフ・レーヴェンハイト。
金色の髪、青い瞳。
誰もが「完璧」と讃え、憧れるその美貌が、憎悪に歪んでいた。
視線の先に立っていたのは、かつて『王国一の白百合』と謳われた公爵令嬢。
アリスティア・グランベルク。
だが今、真紅のドレスは悲鳴を上げそうなほど張りつめていた。
二の腕は袖口から溢れ、頬は熟れすぎた桃のように膨らんでいる。
「ル、ルドルフ様……?」
アリスティアが掠れた声で呟いた。
王子はゆっくりと歩み寄ってきた。
まるで獲物を追い詰める獣のように、目を細めていた。
コツ……コツ……
靴音が大理石の床に冷たく響く。
「アリスティア、見ろ、この醜態を」
王子は立ち止まり、指先で令嬢のぽっこりした腹を軽く叩くように示した。
プニッ
音が小さく響き、柔らかい肉が揺れた。
ドレスの布が波打つ。
「きゃっ!」
アリスティアの体がびくんと揺れ、頰が赤く染まった。
「3年前まで俺の誇りだった婚約者が、今じゃ歩く豚小屋じゃないか」
周囲からくすくすと笑いが漏れる。
「まあ、なんて惨めな姿なの……」
「あの白百合が今では……」
「公爵家も顔に泥を塗られたわねぇ」
誰かが隣の人に耳打ちした。
「もう我慢の限界だ」
王子は吐き捨てるように言い、白い手袋を指先で引き抜いた。
「今日限り、婚約を破棄する」
ざわめきが一気に広がった。
「まあ……」
「本当かしら」
「公爵家はどうするの?」
貴族たちが顔を見合わせ、囁き合った。
王子は懐から誓約書を取り出し、広げた。
「ここにサインしろ、アリスティア」
差し出された紙には、すでに王家の印璽が押されている。
破棄の意志は確定事項だ。
アリスティアは震える手で受け取った。
「……嫌です」
小さな声だったが、確かに響いた。
会場がピタッと凍りついた。
「嫌ですわ!」
令嬢は強張る足で一歩前に出た。
「婚約破棄なんて……。私まだルドルフ様のことが好きですわ!」
涙がぽろぽろと頰を伝った。
ぽたっ、ぽたっ……
床に落ちて、小さな染みを作った。
「こんな形で終わらせたくありません!」
王子の眉が吊り上がった。
「お前が俺に惚れていると?」
会場に再び笑いが湧き上がった。
「黙りなさい!」
アリスティアが叫んだ。
声が上ずったが、確かに響いた。
彼女は両手をぎゅっと握りしめ、胸の前で震わせながら立ち尽くした。
「私は確かに太りました。でも――」
「でも?」
王子が嘲るように首を傾げた。
「宮廷メイドたちが『ルドルフ様はふくよかな女性が好き』と……」
涙が頬を伝う。
「『丸みがあった方が魅力的』だと。毎日、ケーキやクリームを勧めてきて……」
ルドルフの眉がわずかに動いた。
「……私はそんなことを言ってはいない」
王子の眉が一瞬怪訝に動いた。
「だからって、こんなに太るか?」
彼はぐいっと一歩詰め寄った。
「ただ食い意地が張っていただけだろう」
アリスティアの顎を強く掴んだ。
指が肉に食い込み、痛みが走る。
「みっともないのは体だけにしろ」
「違います……!」
令嬢は顔を歪め、必死に首を振って手を振り払おうとした。
でも、王子の握りは固く離れない。
「私はルドルフ様に嫌われたくなくて、本当に信じて毎日頑張ったんです……!」
「頑張った? お前はただ食って寝てただけだろう」
「そんな……ルドルフ様、信じてください……!」
「信じてやるよ、お前の弱さを」
王子は勝ち誇ったように唇を歪め、右手を高く振り上げた。
ビュンッ!
風を切る音が響き、手がアリスティアの頰に向かう。
貴族たちが「きゃあっ!」と悲鳴を上げ、慌てて目を背けた。
――ズン。
頭の奥で何かが弾けた。
視界が真っ白になり、記憶が洪水のように押し寄せる。
――日本の自衛隊演習場。
――東欧の紛争地帯。
――33歳。
――高遠レイナ。
ミリオタを拗らせすぎた女だ。
5年間前線で戦ってきた、全ての記憶。
体が勝手に動いた。
右拳が雷のように振り抜かれる。
バキィィィィィィィッ!!
衝撃が腕を震わせ、王子の体が玩具のように横に吹っ飛んだ。
ドンッ!! ガシャァァァン!!
壁に激突し、飾られていた甲冑が崩れ落ちた。
金属の悲鳴が大広間に響き渡る。
死のような静寂。
アリスティアは右手を下ろした。
「……あれ?」
周囲の貴族たちが令嬢を見つめている。
アリスティアは倒れた王子を見下ろし、首を傾げた。
「あー、わりぃな。立てるか、坊主」
大広間は一瞬にして騒然となった。
「きゃあああああっ!!」
「王子殿下!?」
「誰か、早く医務官を!」
貴族たちが悲鳴を上げ、互いに押し合いながら後ずさる。
アリスティア――いや、レイナは羊皮紙を胸元に押し込み、右手を差し出した。
「ほら、大丈夫か?」
王子の顔が恐怖に歪む。
「ひっ……!」
彼は這うように後ずさり、差し出された手を慌てて振り払った。
瞳に初めての畏れが宿っていた。
アリスティアは肩をすくめた。
「そうかい」
周囲を見渡す。
貴族たちが、一様に青ざめて彼女を見つめている。
令嬢が一撃で完璧王子を吹っ飛ばした。
誰もが言葉を失っていた。
その瞬間、アリスティナの頭の奥で最後のピースがはまった。
――アリスティアの18年間の記憶。
――レイナの33年間。
二つの人生が完全に溶け合う。
視界が一瞬ぐらりと揺れた。
膝がわずかに折れかける。
だが、レイナは踏ん張った。
――ここで倒れるわけにはいかない。
「……王子殿下に危害を加えたな!」
ようやく動き出したのは、広間の隅に控えていた近衛騎士たちだった。
銀の鎧を鳴らして四人が一斉に駆け寄り、アリスティアを取り囲む。
「大人しくしろ、アリスティア!」
「両手を上げて抵抗するな!」
彼女はため息をついた。
「そういう分かりやすいのは、いいね」
最初の一人が鎧を鳴らして迫ってきた。
腕を掴みに距離が一気にゼロになる。
アリスティアの体が反射的に動いた。
サッと右手で手首をガッチリ掴み、親指を関節に押し込む。
同時に左足を踏み込み、体重を乗せて捻る!
ゴキッ!
「ぐあっ!?」
騎士の巨体がひっくり返り、床に叩きつけられた。
ズザァァァ……と滑った。
彼女は冷たい瞳で次を見据えた。
二番目が慌てて剣を抜こうとする。
でも遅い。
アリスティアは素早く間合いを詰め、肘を顎にガツゥン!! とぶち込んだ。
「がはっ……!」
騎士は白目を剥いて膝をついた。
残る二人は怯んだが義務感で突進してくる。
彼女は低く構え、片手で一人の首元をガシッと掴んで引き寄せた。
同時に膝をもう一人の股間にグシャッ!!
「うっ……!」
「ひぎぃっ……!」
そして二人をぶつけ合って意識を奪った。
ガシャッ! バタン!
二人が床に崩れ落ちる。
痛みは与えたが致命傷はなし。
アリスティアが手をパンパンッと払う。
「ずいぶんレベルが低いな」
大広間は再び静寂に包まれた。
誰もが信じられないという顔で彼女を見つめている。
アリスティアは扉に向かい歩き始めた。
背後で王子が這い上がりながら叫ぶ。
「待て……待てよ、アリスティア……!」
彼女は足を止めない。
「覚えておけよ……! 今日のことは絶対に許さない……!」
扉に手をかけた瞬間。
アリスティアは振り返った。
優雅に公爵令嬢の作法で。
右手を胸に当て、膝を曲げ、深いスカートをふわりと広げた。
――完璧な貴族の礼。
でも無言で。
ただ冷たく微笑んだだけ。
その瞳には王子への愛情なんて、もう微塵も残っていない。
そして扉を開けて、悠然と大広間を出て行った。
背後で王子の悔しげな叫び声が響く。
だが、それはもうアリスティアの耳には届かなかった。




