第18話
二人は街の外れを抜け、緩やかな坂道を上り始めた。
陽光がまだ暖かく、木々の葉を照らす。
アリスティアは少し先を歩き、スカートの裾を持ち上げながら進む。
時折振り返り、レオハルトを確かめる。
「もう少しよ。急がなくていいからね」
「はい……。ところで、どこに行くんですか?」
アリスティアは悪戯っぽく目を細めた。
「着いてからのお楽しみよ」
令嬢は前を向いて歩き続けた。
「でも、きっと気に入ると思うわ」
坂道を上りきると、丘の頂上に着いた。
ぱっと視界が開け、眼下に領地の街並みが広がる。
家並みや賑わう市場、遠くの城館が一望できた。
まだ夕暮れには早いが、柔らかい陽光が街全体をオレンジ色に染め始めている。
アリスティアは石の縁に腰を下ろし、大きく深呼吸した。
「ここ、好きなの。みんなの日常がちゃんと続いてるって実感できるでしょう?」
彼女は満足げに目を細め、街を見下ろした。
レオハルトも隣に座り、街を見下ろした。
「ええ。……確かに、穏やかですね」
少しの沈黙が流れた。
令嬢は腕をさりげなく組んだ。
「日が傾いてきたわね」
レオハルトは彼女の横顔を見つめた。
彼は立ち上がり、アリスティアの後ろに回った。
風が少し冷たくなり、令嬢の肩が小さく震えるのが見えた。
そっと両腕を伸ばす。
後ろから優しく彼女を抱きしめた。
アリスティアの体がびくりと強張る。
ドキッ、という心臓の音が彼にも聞こえそうだった。
でもすぐに彼女は力を抜き、レオハルトの腕にふわりと身を預けてきた。
彼の胸に伝わる温もり。
令嬢の甘い香りが鼻をくすぐる。
二人の息が重なる。
「……レオハルト?」
アリスティアは頰を真っ赤に染めながら、首を少し捻って振り返ろうとした。
レオハルトは少し照れたように声を低くした。
「すみません。……でも、こうしないと寒そうだったから」
彼女は彼の腕の中で体を少し動かした。
「ふふ、ありがとう。でも……急にどうしたの?」
レオハルトはアリスティアの肩に顎を軽く乗せた。
「実は今日……二人きりで過ごせると思って、デートだと思ってました」
「えっ……デート?」
「はい……。バカみたいですよね。でも、セレスティンに手を引かれてるアリスティア様を見て……。俺ずっとあんな子供に嫉妬してて。あーもう、って心の中で叫んでました」
アリスティアは目を丸くした。
「……そう。……そう、なの」
レオハルトは少し拗ねたように腕に力を込めた。
彼女の体がさらに密着して、温かさが胸いっぱいに広がった。
「……俺だって、男なんです」
アリスティアは彼の腕を撫でた。
「……そんなふうに思ってくれてたのね」
「アリスティア様。……戦いが終わったら──」
彼女は素早く体を少し捻り、細い指先をレオハルトの唇に当てた。
「だめ」
柔らかい感触。
彼の言葉がぴたりと止まる。
瞳が大きく揺れた。
アリスティアは指を唇から頰へ滑らせる。
温かくてくすぐったい。
その仕草に胸が高鳴った。
「今は……この時間を楽しみましょう?」
レオハルトは彼女の指先を見つめた。
「……はい」
二人は再び街を見下ろした。
日が傾き、街の明かりがぽつぽつと灯り始めた。
夜の帳が下り、星が一つまた一つと顔を覗かせた。
アリスティアはレオハルトの腕の中で体を少し寄せた。
「……綺麗ね」
彼は彼女を抱きしめる腕に優しく力を込め、囁くように答えた。
「ええ。……一番綺麗です」
二人は言葉を交わさず、ただ夜の街並みを眺め続けた。
遠くで聞こえる街の喧騒が、まるで別の世界のように感じられた。
この瞬間だけは、戦いも敵もすべてを忘れられた。
──一方そのころ、王都の王宮。
秘密の謁見室。
ギイッ
重い扉が開く音が響いた。
イザベラ、ロンバルド、そして教国の使者が入ってくる。
室内の空気が一瞬で張り詰めた。
燭台の火がゆらゆらと揺れ、長い影を壁に落とす。
イザベラは椅子に優雅に腰を下ろした。
扇を広げては閉じる。
指先で柄をコツコツと叩きながら、苛立ちを隠さない。
羊皮紙がテーブルに置かれる音が部屋に響いた。
王妃はそれを引き寄せ、目を鋭く細めて文字を追う。
「……人間と馬の死体を焼き払った?」
ぱちんっ!
扇を勢いよく閉じ、テーブルの端を爪で叩いた。
「証言は確か? 本当にその場にいた兵が?」
ロンバルドが一歩前に出た。
「はい、王妃様。捕虜となった負傷兵三人から、ほぼ同じ証言を得ております。炎が立ち上り、煙が空を覆ったと……しかもグランベルクの娘が直接命じた、と」
イザベラは扇を再び開いてゆっくりと仰いだ。
「まさに悪魔の所業ね。肉食で民を穢し、今度は死者を火で冒涜する……」
教国の使者は口元をわずかに動かした。
「その通りでございます、王妃殿下。我が教皇庁は報告を受けてすでに審議を重ねました。死者は神聖なる土に還るべき──火は穢れの象徴。加えて、獣の肉を貪る習慣を領民に広めているという報告も……。これは単なる異端ではなく、悪魔憑きの証左です」
彼はローブの袖から小さな印璽入りの封筒を取り出し、テーブルに置いた。
「教皇庁は判断を下しました。アリスティア・グランベルクは悪魔憑き。彼女を討伐することは、神の意志──聖戦に他なりません」
イザベラの瞳が一瞬鋭く光った。
「聖戦……ね」
王妃は封筒に指を這わせ、開封した。
中から現れた羊皮紙を広げ、目を走らせる。
「これで……王国軍を動かせるわね」
ロンバルドが膝をついた。
「まさにその通りでございます、王妃様。私兵では正当性が問われますが、聖戦となれば話は別。王家として派遣し、異端を焼き払う──誰も文句は言えません」
彼は顔を上げ、イザベラをまっすぐ見据えた。
「すでに近衛騎士団からも400の精鋭を確保しております。王家の名の下に、速やかに出兵可能です」
ロンバルドが手を広げ続けた。
「それと、王妃様。ルドルフ殿下にも聖戦をお任せになってはいかがでしょう?勝ち戦の経験を持たせてあげるのも、母上の役目かと存じます。殿下はあの女に受けた屈辱を、きっとご自身の手で晴らしたいと願っておられます。完璧な王子にふさわしい、輝かしい勝利を──」
イザベラは一瞬扇を止めた。
「……ふふ、そうね。あなたは本当に、私の心をわかっているわ、ロンバルド。……完璧な王になるためにも、勝ち戦の味を知っておくべきよね」
彼女は扇を開き、優雅に仰いだ。
「ルドルフに出兵を命じましょう。あの小娘を……悪魔を、灰に変えてあげるわ」
ロンバルドが頭を下げ、口元を緩めた。
「かしこまりました。王妃様のご意志通りに」
イザベラは窓辺に歩み寄り、夜の王都を見下ろした。
闇に灯る街の明かりが、まるで獲物のように見えた。
「ルドルフの受けた屈辱も、すべて神の試練だったということね。異端を討つ聖なる戦い……これで誰も邪魔はできないわ」
教国の使者は立ち上がり、頭を下げた。
「我が教国も祈りを捧げましょう。必要ならば、聖騎士団の派遣も検討いたします。聖戦の名の下に、徹底的に潰さねば」
イザベラは振り返り、二人に冷たい笑みを向けた。
「では、早急に布告を出しましょう。王国の隅々まで、異端の悪魔が巣食っていると知らしめてください」
部屋に静寂が落ち、燭台の火が不気味に揺れた。
聖戦が、確実に広がり始めた。




