第四話 勇者の卵
第四話 勇者の卵
風邪をひいて三日が経ちました。
おかげさまで何とか熱は引き、ご飯も喉を通るようになり、こうして外の空気を吸うことができています。今は、気分転換も兼ねて散歩に出ているところです。
いやあ、健康って大事だな。
たった三日寝込んだだけなのに、身体を起こして歩けることがこんなにありがたいとは思わなかった。
窓から眺める景色と、実際に外へ出て見る景色は違う。頬を撫でる風も、木々の葉が擦れ合う音も、妙に新鮮に感じられた。
……まあ、そんな感慨に浸れるくらいには回復した、ということだろう。
ただ、ひとつだけ気がかりなことがある。
あの小さな生き物だ。
三日前、初めて見かけた、白く淡く光る丸っこい何か。
あれから一度も見ていない。
熱に浮かされて見た幻覚だったのか。それとも、本当にこの世界にいる不思議な生き物なのか。
考えてみても、答えは出なかった。
「……精霊、とか?」
口に出してみたものの、我ながら根拠がない。
そもそも、精霊なんて本当にいるのだろうか。
いや、魔法があって、勇者がいて、魔物までいる世界だ。今さら不思議な生き物の一匹や二匹いたところで、驚くことでもないのかもしれない。
……いや、やっぱり気になるものは気になる。
なんなら、布団の周りを木の実だらけにしたところを母さんに見つかって、困惑した母さんにこっぴどく叱られたくらいだ。
どうやら、俺の頭の上にちょこんと乗っているちびっ子の存在は、母さんには見えていなかったらしい。
……俺だけに見える存在、ってことなのだろうか。
まだ、熱が見せる幻っていう線も捨て難い。
「……」
みなまで言うな、それだと木の実の説明ができないことを……
そんなことを考えながら歩いていると。
視界の端で、白いものがふわりと揺れた。
「……え?」
足を止める。
ゆっくりと顔を向けた先に、それはいた。
小さな身体を浮かせて、こちらをじっと見つめている。
まるで、ずっと待っていたとでもいうように。
――ああ、やっぱり幻覚じゃなかったんだ。
ちびっこは、嬉しそうに俺の周りをぽよぽよと飛んでいる。
俺が歩けば、ちょこちょこと後をついてくる。立ち止まれば、目の前までやってきて、くるりと宙返り。頭の上に戻ってきたかと思えば、今度は肩のあたりをふわふわと漂い始める。
……懐かれてるみたいなんだよな。
いや、懐かれてるというか。こいつ、俺から離れる気がまったくない。
初めて見たときから妙に距離が近かったけど、三日間も顔を合わせなかった反動なのだろうか。再会してからというもの、ずっとこんな調子だ。
まあ、嫌われているよりはいいんだけどさ。
俺は肩のそばを漂うちびっこに、そっと指を差し出した。
すると、ちびっこは待ってましたとばかりに、ぽよん、と指先に飛びついてきた。
「……きみ、ほんとに人懐っこいね」
指先にくっついたまま、ちびっこは嬉しそうに身体を揺らしている。
……いや、これ生き物なのか?
触れた感触はある。けれど、普通の生き物にしてはずいぶんふわふわしているし、羽も足も見当たらない。それなのに、こうして宙に浮いて、自由自在に動き回っている。
どう考えても普通じゃない。
やっぱり、精霊とかそういう類の存在なんだろうか。
この世界には魔法もあるし、魔物もいる。なら、精霊がいたっておかしくはない……はずだ。
もっとも、俺はこの世界について知らないことのほうが多い。勝手に決めつけるのもよくないだろう。
「……なあ、お前……」
危うく、いつもの調子で聞き返すところだった。
――いや、待て。今、外だ。
慌てて口をつぐみ、咳払いをひとつ。
「……君は何処から来たのかな?」
言い直してから、内心でほっと息を吐いた。
危ない危ない。誰も見ていないからって、気を抜きすぎだろ、俺。
アルセインとして振る舞う。そう決めたのは自分だ。こんな何気ないところで素が出ていたら、いつか絶対にボロが出る。
幸い、ちびっこはそんなことなど気にも留めていないらしい。
ちびっこは、こてん、と身体を傾けた。
それから、ん! とでも言うように、小さな手で森を指さした。
「……森?」
つられてそちらを見る。
村の外れに広がる森は、木々の葉を風に揺らしながら、いつもと変わらない様子でそこにあった。特に何かが起きているようには見えない。
俺はちびっこへ視線を戻した。
「えっと……森に住んでるの?」
そう尋ねると、ちびっこは大正解とでも言うように、俺の指をぎゅっと握った。
そして、その場でぽよん、ぽよんと小躍りを始める。
……あ、これ絶対そうだ。
言葉が通じているのかは怪しいけれど、少なくとも俺の質問に反応している。しかも、こんなにわかりやすく喜ばれると、こっちまでなんだか嬉しくなってしまう。
正直、可愛い。
いや、可愛いんだよな、こいつ。
手のひらに乗りそうなほど小さくて、丸っこくて、ふわふわ浮いていて。嬉しいときには全身で喜びを表現するし、俺が指を差し出せば、当たり前のように握り返してくる。
こんなの、懐かれたら可愛がるしかないだろ。
とまで考えて、咳をして誤魔化した。 うるせぇ、可愛いのは正義だろ。
……でも、なんでこんなに懐かれているんだろう。
頭の上にちょこんと乗ったちびっこを眺めながら、ふと疑問に思う。
初めて見かけたときから、こいつは妙に俺に懐いていた。寝込んでいる間には木の実を運んできたし、こうして外に出れば、当たり前のようについてくる。
まるで、ずっと前から知っている相手みたいに。
……いやいや。そんなわけないだろ。
俺はつい、まじまじとちびっこの顔を覗き込んだ。
すると、ちびっこと、つぶらな瞳がぴたりと合った。ちびっこは俺を見つめ返し、こてん、と首を傾げる。
「…………」
「…………」
なんだ、この時間。
いや、別に見つめ合いたかったわけじゃないんだけど。
ちびっこは不思議そうに瞬きをしたあと、俺の顔へとふわりと近づいてきた。
……近い、近いって。
思わず身を引きかけたものの、相手は手のひらに乗るほどの大きさだ。しかも、こんなにも無防備にこちらを見上げている。
俺が首を傾げると、ちびっこはゆっくりと浮かび上がった。
そして、小さな手を伸ばす。
ちょん。
指先が、俺の瞳を指さした。
『……ゆうしゃ、さま』
「…………え?」
思わず固まった。
今、なんて?
勇者様?
聞き間違いかと思ったけれど、ちびっこはもう一度、俺の瞳を指さした。
『ゆうしゃさま』
たどたどしい声だった。
けれど、確かにそう聞こえた。
俺は思わず、自分の目元に触れる。
青い瞳。そこに刻まれた、勇者の証。
……ああ、そっちか。
もしかすると、こいつはこの紋章に反応しているのかもしれない。
そう考えれば、少しは納得できる。
俺自身が勇者だと見抜いたというより、勇者の証を見て、そう呼んでいるだけなんじゃなかろうか。
「……これが、何かわかるの?」
問いかけながら、自分の瞳を指さしてみせる。
ちびっこは、こくりと頷いた。
やっぱり、そういうことか。
……いや、待て。
じゃあ、こいつは勇者の証を知っているのか?
この世界において、勇者という存在はどれほど特別なんだろう。アルセインとして暮らしている以上、いずれ知ることになるのかもしれないが、今の俺にはまだわからないことばかりだ。
そんな俺の考えをよそに、ちびっこは再びふわりと浮かび上がった。
今度は、俺の瞳ではなく。
俺自身を指さす。
『よあけのこ』
「…………は?」
どんな返事だろうと嬉しいのか、ちびっこは、ぱあっと嬉しそうに身体を揺らした。
そして、俺の頬に、ぽふん、と身体を寄せてくる。
「…………」
……ああ、うん。
可愛いな、こいつ。じゃない、何、謎がまた投下されたんだけど、やっぱり夜明けの子って何?俺の事?アルセインのこと?どっち?
聞いても答えてくれ無さそうだし、懐かれてるからもう考えるのをやめよう。それに、もうひとつ……
頬に触れる小さな光を見つめていると、胸の奥に、ほんのわずかな引っかかりが残った。
どうして、初めて会ったはずの俺に、こんなにも懐いているんだろう。
まるで――ずっと、俺を探していたみたいに。
「……どういう……」
そこまで口にしたときだった。
「おう、アル。独り言か?」
「ぅわぁっ!?」
背後から突然声をかけられ、思わず肩が跳ねた。
慌てて振り返ると、そこには父さんが立っていた。肩には木剣を担いでいる。これから訓練に向かうところらしい。
「な、なんだ、父さんか……」
危ない。もう少しで素の口調が出るところだった。
俺は咳払いをひとつして、慌てて表情を取り繕う。
「……どうしたの、父さん?」
「どうしたの、じゃねえよ。こんなところで突っ立って、何をぶつぶつ言ってたんだ?」
「えっと……ちょっと考え事を」
「考え事ねえ」
父さんは不思議そうに眉を上げた。
そうだった……。
みんなには見えないんだから、傍から見れば、俺は何もいないところで立ち止まったり、頭の上を見上げたり、挙げ句の果てには何かと会話したりしていることになる。
しかも、さっきは指まで握られていた。
……うーん。
こわ……。
いや、俺が怖い人みたいじゃん。
頭の上には、相変わらずちびっこがちょこんと乗っている。俺がちらりと見上げると、ちびっこは嬉しそうにぽよんと跳ねた。
可愛い。
可愛いんだけどさ。
これ、他の人から見たらどうなるんだろう。
道端で急に立ち止まって、誰もいない空間に向かって「森に住んでるの?」なんて話しかけるいつか勇者になる少年・アルセイン・ルミナス。
……駄目だ。
想像したら、だいぶ危ない人だ。
話変えるか。変えるマジで。
「……そうだ、父さんは今から訓練?」
ちびっこに意識を持っていかれないよう気をつけながら、父さんの背中に声をかける。
「そうだぞ。村のことも、お前たちのことも守らなきゃな!」
父さんは肩に担いだ木剣を掲げ、ガハハと豪快に笑った。
「もちろん、大きくなったらお前もだぞ。……セレネとか」
「…………」
なんで、セレネが出てくんだよ。
いや、言いたいことはわかる。村を守るとか、誰かを守るとか、そういう話だろう。そこまではいい。
なんでそこでセレネの名前が出てくるんだ。
「……セレネも、って?」
危うく素の調子で聞き返しそうになり、慌ててアルセインらしい穏やかな口調に整える。
父さんは俺の反応を見て、にやりと笑った。
「おやおや? なんだ、気になるのか?」
「いや、そういうわけじゃ……」
ない、と言いかけて、口をつぐむ。
ここで否定するのも、なんだか変な気がした。
そもそも、どうして俺がこんなことで動揺しなきゃいけないんだ。セレネは幼なじみで、アルセインにとって大切な友人で。それ以上でも以下でもない……はずだ。
……いや、俺はアルセインじゃないんだけど。
今さらながら、考えるとややこしい。
「ガハハ! まあ、今はまだ難しいことを考えなくていいさ!」
「父さん……」
「大切なものができりゃ、守りたいものも増える。そういうもんだ!」
父さんはそう言って、俺の頭をがしがしと撫でた。
いや、だから。
なんでセレネの話になったんだよ。
俺は苦笑いを浮かべるしかなかった。
でも、将来的に俺は勇者になって戦うはめになるのは確定だから、今の時点で鍛えてもらった方がいいんじゃないかな…?
「あの、父さん頼みがあるんだけど……」
◆
父さんとの剣の稽古の結果は、散々でした。
いや、本当に。
最初は基本の構えから始まったんだけど、これがなかなか難しい。少年の体だとしても、何度か稽古してきているはずのアルセインの身体は普段から剣を握っているはずなのに、俺が動かすとなると勝手が違う。
剣を振れば軌道がぶれるし、受け止めようとすれば腕に衝撃が響く。足運びだって、頭ではわかっていても身体が思うようについてこない。
何度も木剣を弾き飛ばされ、そのたびに拾いに行く羽目になった。
……うん。散々だ。
「悪くないぞ、アル!」
しかも父さんは、やたらと褒めてくる。
「筋がいい! さすが俺の息子だ!」
「……ありがとう、父さん」
いや、ありがたいんだけどさ。
父さん、ちょっと親バカ気味なんだよな。
だって、俺がまともに剣を振れずにふらついても「今の踏み込みはよかったぞ!」とか言うし、木剣を落としたら落としたで「最初は誰だってそんなもんだ!」と励ましてくる。
挙げ句の果てには、休憩中に頭をわしゃわしゃ撫でてきた。
……すぐ撫でる。
いや、息子を可愛がっているのは伝わる。めちゃくちゃ伝わる。
でも、評価の参考にはならねぇ!
俺が本当に筋がいいのか、それとも父さんの目に息子補正がかかっているだけなのか、さっぱりわからない。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。
このままじゃ駄目だ。
アルセインとして生きていく以上、剣を使う機会はこれからもあるだろう。勇者として期待されているのなら、なおさらだ。
いつまでも身体に頼りきりではいられない。
さて、もう1回………
「家にいないと思ったら、何をしてるの! このおバカさん!」
……と思ったら、頬を膨らませて怒っているセレネの顔が目の前にあった。
え、何?
どうして?
さっきまで父さんと剣の稽古をしていたはずなんだけど。
状況を理解するより先に、セレネの両手が俺の頬を捕まえた。
むにむにむにむに……!
「い、いひゃい、いひゃいって!」
頬を左右から揉まれる。
ちょ、待て。地味に痛い。いや、痛いというか、変な顔になってるんだけど!
反射的に抗議しかけて、慌てて口調を取り繕う。
「い、痛いよ、セレネ……!」
「痛くしてるの!」
ひどい。
容赦がない。
「風邪が治ったばかりなのに、家にもいないし! 探しても見つからないし! 何かあったんじゃないかって、心配したんだからね!」
むにむに。
「ご、ごめん……!」
「それに、まだ本調子じゃないでしょう? どうして剣の稽古なんかしてるの!」
むにむにむに。
……なるほど。そういうことか。
俺が家にいないのを心配して探しに来たら、父さんと稽古しているところを見つけた、と。
いや、心配してくれたのはありがたい。ありがたいんだけど。
頬を揉む必要、ある?
「セレネ、もう大丈夫だから……!」
「本当に?」
「ほ、本当だよ……!」
ようやく解放された頬を、両手でそっと押さえる。
……絶対赤くなってる。痛い。
セレネはまだ不満そうに俺を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……もう。無理しないでよ、アル」
さっきまでの勢いが嘘みたいに、声が少しだけ柔らかくなる。
「熱が下がったからって、すぐに元気になるわけじゃないんだからね。具合が悪くなったら、ちゃんと言って」
「うん。ありがとう、セレネ」
そう答えると、セレネはようやく安心したように表情を緩めた。
……本当に心配してくれていたらしい。
それはわかる。わかるんだけどさ。
最近のセレネ、ちょっと過保護すぎないか?
以前から優しい子だったけど、ここまでだっただろうか。
俺が少しでも無理をすると、すぐに心配する。家にいなければ探しに来る。見つけたら頬を揉む。
最後のは、たぶん関係ない。……ないよな?
そんなことを考えていると、頭の上でちびっこがぽよん、と跳ねた。
……あ。
そういえば、こいつもいたんだった。
俺がそっと視線を上げると、ちびっこはセレネの顔を覗き込むように、ふわふわと浮かんでいた。
当然、セレネは気づいていない。
ちびっこは俺とセレネを交互に見て、こてん、と首を傾げた。
……頼むから、今は大人しくしていてくれよ。
これ以上、説明できないことが増えたら困るんだから。
「悪いな、セレネ。これでも加減して、ちょっとばかり見るだけのつもりだったんだぜ」
「おじさん!」
セレネの声が一段と鋭くなった。
父さんは悪びれる様子もなく、後頭部を掻いて笑っている。
「いやぁ、前より強くなっててな。つい、ついな……」
「つい、じゃないよ! アルは三日も寝込んでたんだよ? まだ病み上がりなのに、どうしてそんなに張り切らせるの!」
「いや、だから俺も加減はしてたんだって!」
「その加減が信用できないの!」
……うわぁ。
父さん、完全に怒られてる。
さっきまで俺の頭をわしゃわしゃ撫でながら「筋がいいぞ、さすが俺の息子だ!」なんて笑っていた人と同一人物とは思えないほど、今は小さく見えた。
いや、実際に小さくなったわけじゃないけど。
「アルもアルだよ! 具合が悪くなったらどうするつもりだったの?」
「え、えっと……」
まさか、父さんが思ったより熱心に教えてくれたせいで、断るタイミングを逃した、なんて言えるわけがない。
そもそも、自分から頼んだのは俺だ。
「……ごめんね、セレネ。もう無理はしないよ」
「本当?」
「うん。約束する」
そう答えると、セレネはようやく少しだけ表情を和らげた。
それから、じとっと父さんを睨む。
「おじさんも。次からはちゃんと止めてね」
「お、おう……」
父さんが気まずそうに頷いた。
……なんだろう。
この光景、どこかで見たことがあるような気がする。
いや、アルセインとしての記憶にそんなものがあるのかはわからないけど。
少なくとも、父さんがセレネに頭が上がらないことだけは、よくわかった。
俺はこっそり息を吐く。
助かった。
……いや、別に助かったわけでもないか。俺も怒られてるんだし。
頭の上では、ちびっこがぽよん、ぽよんと跳ねていた。なんならセレネの頭の上で一緒に怒るふりをしていた
……お前、絶対この状況を楽しんでるだろ。
視線を向けると、ちびっこはつぶらな瞳をぱちぱちさせて、こてんと首を傾げた。
いや、誤魔化されないからな。
……まあ、可愛いから許すけど。
しばらくして、またちびっこと二人きりという名の一人きりとなった。
……いや、うん。わかってる。
実際には一人じゃない。頭の上には、白くて丸っこい謎の生き物がちょこんと乗っている。
ただし、俺にしか見えない。
つまり、傍から見れば一人きり。
……やっぱり、ちょっと怖いな、この状況。
セレネに念入りに休むよう言い含められ、父さんにも「今日はもう終わりだ!」と宣言されてしまった俺は、結局、家の近くで休憩することになった。
「あーあ……暇になっちゃったな………うん?」
ちびっこに話しかけようと、肩のあたりへ視線を向けた。
そこで、ふと違和感を覚えた。
……ん?
なんか、薄くない?
いつもなら、白くて丸っこい身体がそこに浮かんでいるはずなのに。今は向こう側の景色が、ぼんやりと透けて見えている。
え?
俺は目をこすった。
もう一度見る。
……透けてる。
「すけてんぞお前」
思わず素の口調で問い掛けると、透けかけた身体の向こうで、ちびっこのつぶらな瞳が、まっすぐに俺を見つめてきた。
やがて、ちびっこは俺の指を離した。
ふわり、と少しだけ距離を取る。
「……ん?」
どうしたんだ、と声をかけようとしたところで、ちびっこがしょんぼりと身体を縮こまらせた。
いつもなら、ぽよぽよと跳ねているはずなのに。
今は、まるで萎んでしまった風船みたいに元気がない。
『……もり』
「森?」
ちびっこは、こくん、と頷いた。
『……かえらなきゃ、まりょくきれちゃう』
たどたどしい声だった。
それから、俺の顔を見上げる。
『……もり、かえらなきゃ……』
もう一度。
今度は、自分に言い聞かせるように。
その声があんまりにも寂しそうで、俺は思わず口をつぐんだ。
……ああ。
そういうことか。
森に帰らなきゃいけないから、身体が透けてきているのか?
いや、そもそも、こいつがどういう仕組みでここにいるのかもわからない。俺のそばにいることに何か条件があるのかもしれないし、単純に、長いこと森を離れていたせいなのかもしれない。魔力が切れちゃったから、とか言ってたから、長く離れたらダメなのかもしれない。
どれも憶測でしかなかった。
ただひとつわかるのは。
ちびっこが、ひどく残念そうにしていることだった。
俺はそっと手を差し出した。
「……そっか。森に帰らなきゃいけないんだね」
アルセインらしい、穏やかな声を意識する。
ちびっこは俺の手のひらにふわりと降り立った。
小さな身体は、さっきよりもずっと薄い。
その姿を見ていると、胸の奥がなんだかもやもやした。
……いや、別に。
会ってまだ数日だ。
木の実を運んできて、頭に乗っかって、やたらと懐いてくるだけの、不思議な生き物。
それだけのはずなのに。
「……森って、そんなに遠いの?」
尋ねると、ちびっこは首を横に振った。
それから、森のほうを指さす。
すぐそこだ。
たぶん、こいつにとっては。
なのに、ちびっこは俺の手のひらから動こうとしなかった。
つぶらな瞳が、じっと俺を見上げている。
……帰りたくないのかな。
そう思った。思ったけれど、口には出せなかった。
だって、帰らなきゃいけないと言っているのは、ほかでもない、ちびっこ自身なのだから。
俺は小さく息を吐いた。
「……じゃあ、森まで送っていこうか」
そう言うと、ちびっこはぱちぱちと瞬きをした。
少しだけ、身体が揺れる。
けれど、いつものように嬉しそうに跳ねることはなかった。
ただ、俺の指に小さな手を添えて。
『……ゆうしゃさま』
ぽつり、と呟いた。
『よあけのこ、きたから』
つぶらな瞳で見つめて、まるで安心させるかのように目を細めて
『こんどこそ、もうだいじょうぶ だよね』
「……え?」
聞き返しても、ちびっこは答えない。
ただ、今にも消えてしまいそうな身体で、俺の手のひらに頬を寄せていた。




