第一話 アルセイン・ルセイン
「っ!?………………朝か…」
俺は、ぼんやりと呟いた。
目を開ける。
見慣れた天井。
見慣れたカーテン。
朝日を遮るために閉めっぱなしにしていた遮光カーテンの隙間から、細い光が差し込んでいる。
いつもの自室だ。
少なくとも、目を開けた瞬間の俺はそう思うだろう。違和感に気づくまでは
柔らかい布団を握りしめて起き上がる。
感触が違う気がする。
いつもの部屋なら、朝になったところでこんなに日差しが入ることはない。遮光カーテンは閉めっぱなしだったはずだ。
透はゆっくりと視線を動かした。
木製の壁。簡素な机。小さな棚。椅子。そして窓。
見覚えのない部屋だった。
「…………」
いや。見覚えがない、というのも少し違う。
初めて見るはずなのに、どこか知っている。
机も、棚も、窓の位置も。
見たことがあるような気がする
けれど、自分の部屋ではない。
あと、俺の手が小さくなっている気がする。
「……は?どうなってんだ」
と口に出して、動きを止める。 声が出る。そして思わず口にした声に、透は眉をひそめた。
声まで違う。
少し高い。
幼い。
自分が知っている自分の声ではなかった。いやいやいや、俺の声はもっとこう、低かっただろ。これはむしろ声変わりをする前の少年の声だ。
………………そしてこの声を覚えている。
俺は恐る恐るベッドから抜け出した。うん…足元も妙に軽い。身体そのものが、自分の記憶より小さくなっているような感覚がある。気のせいじゃなかったみたいだ。
部屋の隅に置かれていた鏡へ、ふらふらと近づいた。
そして、そこに映ったものを見た瞬間。
俺は言葉を失ってしまう。
金色の髪。
青い瞳。
まだ少年らしさの残る顔。
知らない少年が、鏡の向こうからこちらを見ている。俺と同じひどぉく困惑した顔を、鏡の中の俺はしていた。
なのに、俺は、その顔を知っていた。今まで散々見てきたからだ。
故郷で暮らし、予言に選ばれて、旅に出て、仲間と共にラスボスを倒したのを、この目で
俺は少年の名前を呼ぶ。
「…………アルセイン……」
見覚えがあるなぁ………。
いや、見覚えがあるどころではないんだけどな?ここがTRPGの世界なら俺は今正気度ダイスを振り、失敗しているところだ。現実逃避はよそう。どう足掻いても現実だこれ
◾︎ 閑話休題
昨夜、眠る前に見ていた夢の中で、何度も見た顔だった。
勇者。
魔王と戦う少年。
六人の仲間たちと共に旅をして、最後には世界を救う。
その物語の中心にいた青年。アルセイン・ルミナス。
それが、今の俺だ。俺と言っていいのか?これは憑依に値するのだろうか、それとも成り代わり? どっちにしろここは俺にとって異世界であることには変わりは無い。
その異世界があの夢の世界だろうということも。
でも、あれは夢だった、はずだ。これは俺がそう思いたいだけなのかもしれないけど……
頬を抓ってみる。鏡の中のアルセインの頬も同じように歪む。
ベタな確認方法。痛くなければ……
「…………」
「…夢じゃない……」
普通に痛かった。
どう足掻いても夢じゃなくて現実であり、そして唯一わかることは、クズニートの天城透が今、予言の勇者になる前のアルセイン・ルミナスに成り代わっている。という事実だけだった。
呆然としていたところ、やはり聞き覚えのある怒ったような声と共に扉を解き放つ音がした。
「アルセイン!!今日も寝坊さんはだめよ!セレネとの約束があるんだから、起きなーー……あら、珍しい。起きてるわね。おはよう。アルセイン」
どうやらまだ寝ていると思っていたのだろう。起こすために毎朝部屋に入ってくる女性がそこにいた。
俺は知らない。
でも、この体は知っているのか。彼女を見た途端、最初からこの世界で生まれて生きてきたかのように、全て知っていた。彼女の情報が頭に浮かぶ。まるでゲームのステータス画面のように。
名前:リディア・ルミナス
* 年齢:38歳
* 誕生日:3月14日
* 性格:穏やかで包容力があり、面倒見のいい女性。普段は柔らかな物腰で、家族や村の人々からも慕われている。一方で、息子のアルセインが無茶をするときにはかなり厳しく叱る芯の強さも持っている。
* 母親としての特徴:アルセインがどれだけ立派になっても、彼女にとってはいつまでも「大切な息子」。勇者として称賛される姿よりも、家で安心して笑っている姿を好む。
* 家族への接し方:アルセインを大切にしているが、過保護にはせず、自分で考えて行動することを尊重している。
* アルセインとの関係:息子が将来「勇者」と呼ばれることになるとは知らず、あくまで一人の少年として接している。アルセインが誰かを助けようとすると「あなたは優しい子ね」と褒める一方、「優しいからって、自分まで傷ついていい理由にはならないでしょう」と諭すこともある。
アルセイン→「母さん」
アルセインの母親だ。淡い金髪と青灰色の瞳をしている。アルセインの金髪は母親譲りのようだ。
いやいやいや何このシステム、いや普通に知っている情報として頭には入ってきて、簡単にまとめた感じか。
……普通に役を演じる上で、必要な情報がちゃんとあって草……
「アルセイン?どうしたの?ぼーっとしちゃって……、貴方がこの時間に起きてるのは珍しいけど……」
はっ、しまった。情報の海に溺れている訳には行かない。情報の多さに固まった俺を見て、不思議そうな顔で覗き込んでいる。このまま接したら、俺がアルセインではないとバレるかもしれない。
バレたらどうなる?知らないのか?アルセインの人生がハードモードになる。それはだめだ。
目の前にいる人物はセレネも含んで、アルセインが変になったって思われるには困る。どうする? そして俺は閃いた。
今の危機………ごほん…母さんを【アルセイン】として接して、のりこえないといけないのではないか?
そう、元演劇部の腕がなる時が来た……のかも
「……え?いや……大丈夫だよ。母さん。ちょっと早く起きすぎて寝ぼけてたかも」
へへっと笑う。
記憶の中のアルセインはこうして笑っていたはずだ。元演劇部の経験を思い出して演技する。久しぶりだからちゃんと出来ているのか……
「そう?あんまり無理しないようにね。朝ごはん食べたらセレネのところに行ってあげなさいね」
「わかってるよ!早く行かないと拗ねちゃうからなぁ…」
アルセインの母さんは、俺……【僕】の言葉を聞いて、持っていたフライパンのような家具を持って、部屋から出て行った。……え?いつも起こし方そういう感じなの?
でも、少し安心はした。演技は通用している。
咄嗟にアルセインの演技をしたけど………このまま元に戻らなければ…………
「……」
いや良そう。考えるのは。今は動くしかない。【アルセイン】として
もう、すっかり慣れてしまった。
自分の部屋を出て、廊下を歩く。
右へ行けばどこに繋がっているのか。
階段を下りれば何があるのか。
どの部屋が誰のものなのか。
この家の間取りは、もうすべて頭に入っている……ことに。
ちょっと歩けば、今から畑を見に行くのだろう父さんがそこで準備していた。
* 名前:グレン・ルミナス
* 年齢:41歳
* 誕生日:11月7日
* 性格:豪快で気さく。細かいことはあまり気にしない大らかな性格だが、家族を守ることには人一倍責任感が強い。冗談好きで、家ではよくアルセインやリディアを笑わせている。
* 職業:村の狩人兼農作業の手伝い。森に入り、獣を狩ったり木材を集めたりしている。
* 家族への接し方:アルセインには「男なら自分の足で立て」と教えながらも、危険なことをすれば真っ先に心配するタイプ。息子を一人の人間として尊重し、必要以上に口を出さない。
* アルセインとの関係:親子仲は非常に良い。アルセインが剣の稽古をしているときは相手をしてやり、失敗しても笑って見守る。アルセインが落ち込んでいるときには、あえて何も聞かず隣に座っていることもある。
* 父親としての特徴:「勇者だから立派なのではなく、アルセインだから立派なんだ」という考えを持っている。息子が勇者として旅立つことになったときも、誇らしく思う一方で、誰よりも無事に帰ってきてほしいと願っている。
* 口癖:「まあ、なんとかなるさ」
* アルセインへの教え:「強さってのは、誰かを倒せることじゃない。守りたいものを、最後まで守ろうとすることだ」
アルセイン→「父さん」
アルセインの目の色はお父さん譲りってな。この設定欄もなれ……ないな。情報量が多い。なんで項目が増えているんだ。
「お?どうした。アルセイン。今日は早いな。珍しく怒られないんじゃないか?」
目の前の男に話しかけられる 父さんだ。俺のじゃないけど
心臓が一瞬だけ跳ねたし、びっくりした。
完全に油断していた。
誰かが近づいてくる気配くらい、普段ならなんとなく分かる。けれど今は考え事をしていたせいで、声をかけられるまで気づかなかった。
――いや、顔が良すぎるだろこいつ、さぞ若い時はモテたんだろうな、オイ
ジト目になりそうなのをこらえる。そうだった今、俺はアルセインだった。アルセインも顔が良かったもんな あらゆる少女の初恋を奪っていった野郎 羨ましいクソ
この世界、美男美女勢揃いだったらどうしよう……
「おはよう。父さん。そうかなぁ?そうだといいんだけどね」
「ガハハ、まぁとりあえずレディをあんまり待たせてやるなよ!」
「わかってるよ、父さん」
俺は笑顔で返した。
父さんは満足そうに頷くと、肩にかけていた道具袋を持ち直した。
「よし! じゃあ、俺は畑を見てくる。今日は天気もいいし、仕事がはかどりそうだ!」
「いってらっしゃい」
「おう! お前も楽しんでこいよ!」
そう言って、父さんは豪快な足取りで家の裏手へ向かっていった。
……。
…………。
………………いや、待ってくれ。
今の、自然に会話できていたよな?
母さんに続いて父さんとも普通に会話してしまったんだけど。いや、会話しないと怪しまれるのはわかっていた。わかっていたけど、なんだろう。この、あまりにも自然に「家族」として接される感覚。
俺は天城透だ。
三年間引きこもっていた、元演劇部のニートだ。
それが今、異世界の少年の身体に入って、そいつの両親と何の違和感もなく会話している。
……なんで?
いや、演技が通用しているのはありがたい。ありがたいんだけどさ。
「…………はぁ」
俺は小さく息を吐いた。
考えるのは後だ。
今はとにかく、アルセインとして振る舞わなければならない。
幸い、頭の中にはアルセインに関する情報が入っている。
セレネとは幼馴染。
家も近い。
子供の頃から一緒に遊んでいて、毎朝のように顔を合わせている。
そして今日は、セレネと遊ぶ約束がある。
……いや、待て。
幼馴染と朝から遊ぶ約束って、なんだ?
この世界の少年少女は、そんなに健全な生活を送っているのか?
いや、普通はそうなのかもしれない。
問題は、俺が三年間ほとんど外に出ていなかったということだ。
朝から友達と遊ぶ?
何をして?
どこで?
どんな会話を?
……いやいやいや。俺が前の姿のままなら俺は頭を抱えたことだろう。周りの目を気にせず。まぁしないが、アルセインだから
考えすぎるな。
俺は元演劇部だ。
舞台の上で、何度も役を演じてきた。
なら、できる。
できるはずだ。
「……よし」
俺は両手で頬を軽く叩いた。
アルセイン・ルミナス。
予言に選ばれる前の勇者。
まだ何も知らず、家族に愛され、幼馴染と遊ぶことを楽しみにしている少年。
その役を、今から演じる。
――完璧に。
そう決めて、俺は家を出た。
◾︎
外に出た瞬間、朝の空気が頬を撫でた。
「……おお」
思わず声が漏れる。
目の前に広がっていたのは、絵本に出てくるような小さな村だった。
石畳というほど整った道ではない。踏み固められた土の道が家々の間を縫うように続き、その両脇には木造の家や石造りの建物が並んでいる。
屋根の上からは煙が細く立ち上り、どこかの家から焼きたてのパンの匂いが漂ってきた。
遠くでは鶏が鳴いている。
畑の向こうには緑の森が広がり、そのさらに奥には青い山々が見えた。
空はどこまでも澄み渡っていて、雲がゆっくりと流れている。
「…………」
すげえ。
いや、すげえな。
本当に異世界だ。
いや、知ってたけど。
夢の中で何度も見た景色だ。アルセインが育った村。物語の序盤で何度も描写されていた、あの平和な村。
でも、実際にその場に立ってみると、まったく違う。
風が吹けば肌で感じるし、土の匂いもする。家の壁に触れれば木のざらつきが指先に伝わる。
画面越しでも、文章越しでもない。
ここが現実なのだと、嫌でも思い知らされる。
「……マジかぁ」
呆然と景色を眺めていると、向こうから籠を持った女性が歩いてきた。
「あら、アルセイン。おはよう!」
「……っ、あ、おはようございます!」
反射的に返事をした。しまった。
少し他人行儀だったか?
アルセインなら、村の人たちとも顔見知りのはずだ。
………あ、設定ステータス欄には、マリア・ベルノートって言うらしい。パン屋のお手伝いさん。甘い菓子パンがアルセインの好物らしい。
「今日は早いのねえ。いつもなら、まだお母さんに起こされている時間でしょう?」
「あ、あはは……。今日はちょっと早く目が覚めちゃって」
よし。
なんとか誤魔化せた。
女性は楽しそうに笑った。
「そうなの? 偉いわねえ。セレネちゃんも、きっと喜ぶわ」
「……うん。そうだといいな」
女性は満足そうに頷き、籠を持ち直した。
「じゃあ、楽しんでいらっしゃい。ああまって、このパン好きでしょう?セレネちゃんと食べていって」
ってマリアさんは俺にパンをふたつ渡してくれた。アルセインの好物の菓子パンだ。焼き立てなのか美味しそうな匂いがする。
「はい!ありがとうございます!」
女性が去っていく。
俺は笑顔のまま、しばらくその場に立ち尽くした。
…………。
今のは危なかった。
いや、何が危なかったのかはわからないけど。
とりあえず、アルセインは村の人々からも親しまれているらしい。
そりゃそうか。
あいつ、作中でも人懐っこいというか、誰にでも優しい少年だったしな。
俺が知っているのは、物語の中で描かれたアルセインだけだ。
でも、この村の人々にとっては違う。
彼らにとってのアルセインは、毎朝顔を合わせる近所の子供で、畑仕事を手伝ったり、道端で遊んだり、時々悪戯をして大人に叱られたりする、普通の少年なのだろう。
……そう考えると、少しだけ胸が痛んだ。
俺は、そのアルセインの人生を借りている。
いや、借りているというより、成り代わってしまっている。
本来なら、ここにいるのは俺ではなく、アルセイン本人のはずなのに。
「…………」
考えるな。
今は、考えるな。
とにかく、セレネのところへ行こう。
俺は頭を切り替え、村の道を歩き始めた。
◾︎
セレネの家は、村の中央から少し離れた場所にあった。
……いや、正確には、頭の中に情報があるからわかるだけだ。
何も考えずに歩いていたら、普通に迷っていたと思う。
俺は道の途中で何度か村人に挨拶を返しながら、目的の家へと向かった。
途中、小さな広場を通りかかった。
広場の端には井戸があり、数人の女性が水を汲みながら話をしている。
子供たちが走り回り、犬がその後を追いかけていた。
……平和だ。
とんでもなく平和だ。
魔王がいる世界だとか、予言の勇者がどうとか、そんな物騒な設定があるとは思えないくらいに。
この村の人たちは、今日も普通に暮らしている。
朝ご飯を食べて、仕事をして、家族と話して、夜になったら眠る。
きっと、明日も同じような一日が来ると思っているのだろう。
そして、アルセインも。
本来なら、そうやって生きていくはずだった。
……いや。
やめよう。
今は余計なことを考えるな。
俺は頬を軽く叩き、再び歩き出した。
セレネの家が見えてくる。
木造の、こぢんまりとした家だった。
窓辺には花が飾られていて、玄関の脇には小さな植木鉢が並んでいる。
庭先には洗濯物が干されていた。
その家の前に、一人の少女が立っていた。
淡い色の髪が朝日に照らされ、柔らかく輝いている。
紫色の瞳。
整った顔立ち。
まだ幼さの残る、けれどどこか気の強そうな表情。
彼女は腕を組み、こちらをじっと見つめていた。
「…………」
俺は足を止めた。
セレネ・アストレア。
アルセインの幼馴染。
そして、物語の中で勇者の旅を支える六英傑の一人。
……本物だ。
いや、当たり前なんだけど。
画面の中で見ていた人物が、目の前にいる。
しかも、俺のことを知っている。
いや、正確にはアルセインのことを知っている。
彼女にとって俺は、幼い頃から一緒に遊んできた幼馴染なのだ。
改めて、セレネについての設定ステータスが頭の中で展開される。
* 名前:セレネ・アストレア
* 年齢:アルセインと同い年
* 誕生日:6月21日
* 性格:明るく快活で、人懐っこい性格。幼い頃からアルセインと一緒に過ごしてきたため、彼のことをよく理解している。普段は冗談を言ったり、アルセインをからかったりすることが多いが、相手の変化には非常に敏感。
* 容姿:長い淡い桃と白が混ざった髪と淡い紫色の瞳。幼い頃から魔力の才能に恵まれており、成長するにつれて優秀な魔術師となる。
* 立場:村に住む魔術師の少女。後に「六英傑」の一人として、勇者アルセインと共に旅立つ。
* アルセインとの関係:幼馴染。幼い頃から一緒に遊び、喧嘩をし、互いのことを誰よりもよく知っている。アルセインが無理をしているとすぐに気づくため、彼が勇者として責任を背負おうとしたときも、真っ先に心配する。
* アルセインへの接し方:勇者として扱うより、昔から知っている幼馴染として接する。「勇者様」などとは絶対に呼ばず、普段通り「アル」と呼ぶ。
* 特徴:アルセインの完璧な部分だけではなく、寝坊したり、失敗したり、落ち込んだりする普通の少年としての姿を知っている。
* 魔術師としての才能:特に水・風属性の魔術を得意とする。攻撃だけでなく、結界や補助魔術にも優れている。
* 口癖:「あなたは勇者の前に、ただのおバカさんなんだから」
* アルセインへの言葉:「勇者だからって、全部一人で背負わなくていいの。アルはアルでしょ?」
「……アル!」
セレネが声を上げた。
「遅い!」
「えっ」
「遅いって言ってるの!」
彼女はずんずんとこちらに歩いてきた。
「今日は一緒に遊ぶって約束したでしょう? なのに、いつまで待たせるつもりだったのよ!」
「あ、いや、ごめんね」
俺は慌てて頭を下げた。いや、たぶん、きっと、おそらくいつもよりも朝早く起きて向かったはずなのに、なんで怒られてんだ。理不尽すぎるだろ!!!
「……ごめん?」
セレネがぴたりと動きを止めた。
……え。
何かおかしかったか?
「……アル」
「は、はい?」
「あなた、今日なんだか変じゃない?」
「…………」
終わった。
早くも終わった。
いや、待ってくれ。
まだ何もしていないだろ。
朝起きて、母さんと話して、父さんと話して、村の人に挨拶して、ここに来ただけだぞ。理不尽だなって思ってごめんなさい。
何が変なんだ。
俺は内心で冷や汗を流しながら、必死に笑顔を作った。頼む。アルセインとしての表情そのまま顔に出てくれ!って俺は祈る。
「え? そうかな?」
「そうよ。いつもなら、もっと眠そうな顔をしているもの」
「……えっ」
「それに、今日はちゃんと時間どおりに来たし」
「…………」
「あと、さっきから妙に大人しいわ」
……なるほど。
普段のアルセインは、寝坊常習犯で、もう少し子供っぽくて、セレネに遠慮なく言い返すタイプらしい。
まずい。
非常にまずい。
俺は、今までの自分の振る舞いを思い返した。
母さんにも、父さんにも、村人にも、無難に対応しようとした。
その結果、妙に礼儀正しい少年になってしまったらしい。
元演劇部。
役作りの基本は、相手との関係性だ。
俺はセレネとの関係を理解しているつもりだった。
でも、実際に目の前にすると、どうしても遠慮してしまう。
だって、俺にとっては初対面なのだから。
「……えっと」
どうする。
どうすればいい。
セレネは俺の顔をじっと見つめている。
このまま黙っていたら、本当に怪しまれる。
なら。
「……もしかして、セレネ、怒ってる?」
俺は少しだけ首を傾げた。
「……は?」
「だって、そんなに怖い顔してるから」
「こ、怖い顔!?」
セレネの頬が、ぴくりと引きつった。
よし。
反応があった。
このまま、いつもの幼馴染らしいやり取りに持ち込めれば……!俺ならやれる。やってみせる! 俺に幼馴染概念なんてわからないけど!!!!俺の幼馴染、こんな美少女じゃねぇもん!
「だって、セレネって怒ると怖いんだもん」
「アル!!」
「わっ、ご、ごめんって!」
思った以上に大きな声が返ってきた。
俺は思わず肩をすくめた。
セレネは頬を膨らませ、俺を睨んでいる。
……うん。なるほど。
アルセイン、お前、普段からこんなことを言っているのか。
いや、でも。
怒らせてしまったのはまずかったかもしれない。
そう思ったとき、セレネがふっと息を吐いた。
「……もう。今日は特別に許してあげる」
「……え?」
まじ? 「らっきぃ………」っぶね!!!!喜びを口に出すな。
「らっき………?」
「なんでもないよ!、でもなんで??」
食い気味に首を振って、誤魔化す。 内心の汗酷いよ。もう風呂入りたい んなもんない
「せっかく早く起きてきたんだもの。これ以上怒っても仕方ないでしょう?」
そう言って、彼女はくるりと背を向けた。
「ほら、行くわよ!」
「……どこに?」
「どこにって……」
セレネが振り返った。
そして、心底呆れたような顔をした。
「……今日、川に行くって約束したでしょう!?」
「…………あ」
そうだった。
そういえば、そんな情報もあった。
セレネと川へ遊びに行く約束。
どうやら今日は、その日らしい。
「……そ、そうだったね!」
「もう! 忘れていたの!?」
「ご、ごめんね!」
「……本当に、今日は変なんだから」
セレネはそう言いながらも、どこか嬉しそうに笑った。
その笑顔を見た瞬間、俺はようやく少しだけ息を吐いた。いや、可愛いな美少女の微笑み 友が知ったら俺は呪われるんじゃないか? もう会えねぇのかな…
……なんとかなった。
たぶん。
いや、まだわからないけど。
とりあえず、今のところは大丈夫そうだ。
「……じゃあ、行こうか」
俺は、できるだけ自然に笑った。
「うん!」
セレネが頷く。
そして、俺たちは並んで歩き始めた。
◾︎
川へ向かう道は、村の外れを通っていた。
道の両側には草花が咲き、風が吹くたびに小さく揺れている。遠くから水の流れる音が聞こえてきた。
セレネは、歩きながら楽しそうに話していた。
「そういえばね、昨日、お母さんが新しいお菓子を作ってくれたの!」
「へえ、どんなお菓子?」
「木の実を使った焼き菓子よ。甘くて、おいしかったんだから!」
「……へえ」
「なによ、その反応。興味ないの?」
「いや、あるよ! すごくある!」
しまった。
思わず本音が出た。
甘いもの。
しかも焼き菓子。
元ニートの俺にとって、異世界で食べる甘いものは未知の領域だ。
いや、元ニートじゃなくても興味はあるだろう。
「……ふふっ」
セレネが笑った。
「やっぱり、アルセインは甘いものが好きね」
「……え?」
「だって、今、すごく嬉しそうな顔をしたもの」
「…………」
やばい。
演技が崩れかけた。
俺は慌てて咳払いをした。
「……そ、そうかな?」
「そうよ。昔から甘いものを見ると目を輝かせていっぱい貰ってくるのよ。変わらないわね」
昔から。
その言葉が、胸に引っかかった。セレネにとって、俺は昔から一緒にいる幼馴染だ。彼女の中には、俺の知らないアルセインとの思い出がたくさんある。
一緒に遊んだこと。
喧嘩したこと。
笑い合ったこと。
泣いたこと。
そういう時間が、彼女の中には確かに存在している。でも、俺にはない。
俺は、その記憶を持っていない。
頭の中に情報はある。
けれど、それは自分の思い出ではない。
だから、彼女が何気なく口にする「昔から」という言葉に、どうしても反応が遅れてしまう。
「……アル?」
「……あ、ごめん。ちょっと考え事してた」
「……本当に、今日は変ね」
セレネが不思議そうにこちらを見た。
「何かあったの?」
「……ううん。何でもないよ」
俺は笑った。
「大丈夫」
その言葉は、すんなりと口から出た。
まるで、何度も使ってきた台詞のように。
セレネは少しだけ眉を寄せた。
けれど、それ以上は追及せず、再び前を向いた。
「……なら、いいけど」
そして、少しだけ声を明るくした。
「ほら、もうすぐよ!」
木々の間を抜けると、川が見えた。
澄んだ水が、陽光を受けてきらきらと輝いている。
川辺には平たい石が転がり、浅瀬には小魚の影が見えた。
「わあ……」
思わず声が漏れた。
綺麗だ。
本当に、綺麗だった。
ゲームの背景でも、イラストでもない。
目の前に広がる、本物の景色。
俺はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
「……アル?」
セレネが不思議そうにこちらを見上げる。
「どうしたの?」
「……いや」
俺は、ゆっくりと笑った。
「綺麗だなって思って」
「……そうね!」
セレネも嬉しそうに笑った。
「私、この川が好きなの。昔から、よくここで遊んでいたでしょう?」
「……うん」
俺は頷いた。
本当は、覚えていない。
けれど、今ここにいる俺は、アルセインだ。
少なくとも、彼女の前では。
だから、俺は笑う。
彼女が知っているアルセインのように。
「……ねえ、セレネ」
「なに?」
「今日は、いっぱい遊ぼうね」
セレネは一瞬だけ目を丸くした。それから、満面の笑みを浮かべた。
「……もちろん!」
彼女は俺の手を引いた。
「ほら、早く! いい石を探すんだから!」
「わっ、ちょっと待ってよ!」
引っ張られながら、俺は笑った。
自然に。今度は、演技を意識することなく。
……不思議だ。
まだ、わからないことだらけだ。
この世界のことも。
アルセインのことも。
これから自分がどうなるのかも。
何一つ、わからない。
でも。今は、この少女と遊ぶことくらいなら、できる。この少女——セレネには、ずっと笑っていて欲しい。
俺は彼女の手を握り返した。
「……よし。今日は負けないからね!」
「ふふん! 勝つのは私よ!」
セレネが得意げに笑う。
その笑顔を見ながら、俺は思った。
——とりあえず、今日一日くらいは。
この世界のアルセインとして、完璧に演じてみせよう。
たとえ中身が、天城透というクズニートだったとしても。
この世界で生きている間くらいは。
彼の人生を、台無しにしないために——……
川の水面に移った硬い表情をした自分の顔を見て、その決意が揺らぎそうだが——




