9.雲南省限定の異説
「では、私はよほどの果報者というわけか」
「――ま、それよりどうじゃな。腹が空いておろう? そろそろ夕飯の時間じゃ。ひとつ馳走を振舞ってやる。積もる話はそのあとで、ということにしようではないか」
「ここで料理を作られるとおっしゃるのか? 器具もないのに?」
「下界の者たちのような、こじゃれたものは作れん。ここにある天梯草を刻んだものを生か、湯通し、炒める程度のものにすぎん。そなたには天梯草尽くしで、うんざりするかもしれんが」
と言うや否や、娘の眼の前に小さなフライパン、まな板、包丁、片手鍋がひょっこり現れた。私が二度まばたきするうちに、ペットボトルに入った水やカセットコンロまで出現していた。俗っぽさ丸出しだった。
娘はそばに群生する天梯草を慣れた手つきで毟り取った。ザルに入れ、水をかけて揉み洗いしはじめた。
そのころには私も驚かなくなっていた。ここはなんでもありの世界なのだ。
不意に私はウデムシの橋の袂に眼をやった。架け橋は時間との戦いではないか。
私は眼を瞠った。
――なんてことだ! いつの間にか橋がなくなっている!
「虹が消えてしまったんだ! 架け橋が!」
私はうろたえて、そちらへ駆け寄った。
完全にウデムシのアーチはかき消されている。マグマの真っただ中に、棒のような島がそそり立っているだけ。
こんな隔絶された世界、他にあろうか。
数匹のウデムシが台地を這っていた。橋桁が崩落したときの生き残りかもしれない。
虫の生涯は単純だ。獲物を捕まえ、食らって生き永らえる――ここではミツバチが犠牲になっていた。あるいは共食いも辞さないだろう――オスはメスをめぐって争い、勝者が交尾する。そうやって自身の遺伝子をつないでいく。
負けた虫はすぐに岩陰に隠れてしまったが、次のチャンスを狙うしかない。
背後から娘が声をかけてきた。
「慌てなくてもよい。下へ帰る方法はいくらでもある」と、娘は下を向いたまま言った。まな板の上に天梯草を並べ、包丁でざく切りにしている。「それより、夕飯の支度はじきにすむ。こちらに参られよ。天梯草のフルコース、召し上がるがよい」
「もう?」
諦めるしかなかった。
退路を断たれた今、娘の言ったことを信じるより他ない。
もちろん天梯草を食べてみたよ。
生サラダに花を和えたものを添えてあった。新芽だと産毛が生えていないので、歯触りは悪くなかった。根っこもコリコリして、食べ応えがあった。いささか土臭かったが。
塩で湯通ししたの、炒めもの、みそ漬け、天ぷらも調理次第で触感や風味が変わった。独特の青臭さが売りの薬膳料理といったところか。栄養価は偏るかもしれないがね。さすがに毎日これを食べさせられたら辟易するだろう。
結局、娘の、積もる話とはなんてことはなかった。
要約するとこうだ――娘は長きにわたる慕西島での暮らしに嫌気がさし、下界へ降りたいと不満を洩らしただけのこと。
いつしか私は横になっていた。すっかり疲れ果てたのか、眠ってしまったんだろうね。
ふと、眼を醒ましたら、あたりは真っ暗。
娘に声をかけたが、どこにもあのぽっちゃりした姿はなかった。
そのときになって、私は一服盛られたことを知ったんだ。
私は娘と交代させられたにちがいない。すなわち慕西島の番人の仕事を。――騙されたのだ。
◆◆◆◆◆
「もう、家守さんってば……。これ以上脅かさないでったら」
ひな子は我が身を抱いたまま、寒気を憶えていた。
ウデムシそのものの知識はなかったので話の腰を折り、スマホで画像検索していた。思わず本体を放り投げそうになったものだ。
お願いだから、こんな奇虫――映画『エイリアン』のクリーチャーじみた虫が、国内に広まりませんように……と、念じたほどだった。
バーのカウンターでひとしきり自分語りを終えた家守。全部出し切ったといった顔つきをしていた。
彼は微笑むと、バーボンの残りを飲み干す。ショットグラスの中でカランと氷が音を立てた。
それにしてもこの男の奇想天外な物語は、映画まるまる一本分のボリュームだった。
ひな子にしてみれば驚きと気色悪さの連続で、そのたびに忙しなく感情表現を変えたので、ひと泳ぎしたあとのように疲れきっていた。
手首を返し、腕時計に眼をやる。
早いもので、終電が迫る時刻になっていた。
バーテンダーは一緒に家守の話に付き合うわけにもいかず、カウンター右端のキッチンで洗い物をしている。
いつの間にか、背後のテーブル席にいた客たちも店を去っていたらしい。雨が小降りになったタイミングで家路に着いたのだろう。今や客はひな子と家守だけだ。
家守はグラスを置いた。
両手を組み、祈るようなポーズを作る。
「つまり、漢字の『虹』という成り立ち――なぜ虫偏なのかも、まんざら本物の虫と無関係でもなかったわけさ。しかも君が大嫌いと言った不快害虫によってできた架け橋。ある種、雲南省限定の異説と言えるだろうね。しかしながら私にはこれこそが、『虹』という漢字の真実の姿だと思えてならない」
「えー。ないわー。まさかきれいなレインボーが台なし……」
ひな子は両親との思い出が踏みにじられた気がして、頬を膨らませずにはいられなかった。
父に肩車してもらい、沼田市上空に現れた虹を思い描く。あの虹にさえ、ウデムシの大群がアーチを模倣していたのかもしれないと思うと、全身総毛立つ思いにかられるのだった。
たとえ家守のそれが雲南省限定だったにせよ、今後、ひな子は虹を見かけるたび、虫の架け橋を渡った奇妙なトレジャーハンターを思い出すだろう。




