10.家守の話は真実か、それとも与太なのか?
――それともこの人、もしかして私を担ごうってつもりじゃないの?
今夜のひな子は毒を吐きすぎた。
酔ってはいたが、不快害虫すらこの世からいなくなれ、と口走ったことはしっかり憶えている。
ウデムシのおかげでミッションをやり遂げた家守にしてみたら、癪に障ったのかもしれない。
今どきのご時世、ルッキズムの観点からいかがなものか、と言いたいわけだろう。だけど相手はしょせん虫。ルッキズムもへったくれもあるまいし……。
いかにもこの、不快害虫を擬人化したような男なら言いそうだ。それで自身とバーテンダーの会話に割って入り、苦言を呈したかったにちがいない。
家守の話はリアリティとファンタジーが混在していた。
そもそも商社マンとしての肩書を持ちながら、別件で中国の僻地で1カ月以上も滞在し、仕事に穴を開けるなんてあまりにも現実離れしていやしないか? 長期休暇の合間にこの依頼をこなしたというのか。
根っから話芸に秀でた、とんでもないペテン師が世の中にはいる。もしやそれに引っかけられたとしたら見すごせない。
彼の武勇伝を逆手にとって、反撃できないだろうか?――と、考えが頭をもたげた。
13年前、慕西島の番人と交代させられたはずのこの男は、どうやってその務めを終えたのか。えらく尻切れトンボな締めくくりになってしまった感があり、質問して聞き出す必要があった。
じっと相手の横顔を見つめていると、家守は察したのか、こちらを向き、片手で制した。
それにしても太い眉。眉間のところでつながっているという、稀にしかお目にかかれないタイプの濃い容貌である。
「むろん私は慕西島に置き去りにされ、しばらく孤独の時間をすごしたのは、辛うじて憶えている」
「なにそれ」
「食べるものなら、いくらでも天梯草が生えているんだ。食べ放題だった。娘が手品みたいに出した調理器具もあったことだし、なんとかなった。ただし水はなく、朝露を集めてしのぐしかなかったけれども。……しかしながら、不思議と島にいる間、食欲や渇きに悩まされなかったんだ。私はそれこそ仙人になったつもりで、日がな一日、台地の上で座禅を組み、瞑想に明け暮れるようになった」
「まさか瞑想だとか」
「その間、娘が言ったように、私にしてみれば孤独でもなかった。まわりにはウデムシの生き残りがいて、徐々に増えていった。奴らの旺盛な繁殖力には驚くばかりだったよ。ああしてウデムシの営みを間近で見ていると、不思議な親近感を憶えた。愛着と言ってもいい」
「ありえないし」
「瞑想する間、ウデムシたちが私の身体に集り、はじめこそ私の思考を邪魔されたが、しだいに動じなくなった。こいつらとはどうせ寂しい島で、運命共同体ではないか。ちっとも煩わしいとも思わなくなった。……ホラ、人馬一体という言葉があるだろ。乗馬において、騎手と馬が心身ともにひとつになったかのような感覚をさす」
「ひょっとしてウデムシと一体感ってこと?」
「そのとおり。いつしか私はウデムシと同化したような感じがした。島で瞑想していると、しだいにありとあらゆる感覚が麻痺していった。五感をはじめ、時間や、痛み、快楽さえも、人としての理性まで……」と、家守は額に手をやってうつむいた。「次にハッと気づくと、私はなぜか羽田空港にいた。その間の記憶がすっぽり抜け落ちいている。なんとか中国を出国し、無事に日本へ帰ってこれたらしい。恐るべきことにあの任務から9カ月の歳月が流れていたんだ」
「9カ月? まるでちょっとした浦島太郎状態じゃない」
「クライアントの元に行き、嘘の報告をした。結局、天梯草は見つけられなかったと。当然商社の仕事も放置していたわけだから解雇を言い渡された。別の会社からスキルを買われ誘われもしたが、一切この仕事から身を引いた。というより、もう海外へ行く気力体力も失われていたしね」
「そう」
「以来、今はごく平凡な会社の末端として、ひっそりと生きている。結局、島の娘と交代したあとの私の任期はなんだったのか。それは娘がまた番人として復帰したという意味なのか? その後のやりとりがあったわけじゃないので、私は割り切れないものを抱えたまま生きている。私は物質化した虹を渡り、得難い体験をした。だがそれが、いったいなんになるっていうんだ。失ったものの方が多すぎる……」
と、家守は声を詰まらせたあと、顔を覆った。
自己崩壊を起こした哀れな男の姿がそこにあった。さめざめと泣いている。
「……家守さん、元気出して」と、ひな子は自身でもびっくりするような励ましの言葉をかけた。そうせずにはいられないほど、さっきまでの自信たっぷりの男はひどく傷心し、頼りなさげに見えた。「とりあえず生きてるだけで、よしとしなきゃ。つまり、そーいうことだよ」
ひな子はスツールから降り、家守に近づいた。
肩に手をかける。
家守はふり向いて、ひな子を見た。
やはり、男性ホルモンの権化みたいな太い眉だった。眉間のところでつながり、カモメみたいな記号になっている。
ひな子は次の慰めをかけようとして、思わず口を噤んだ。
男の眉毛がモコモコと動いているのだ。
店の照明は、いささか暗すぎたのもいけない。
真ん中でつながっているのではない。
眉間に虫が張り付いていた。ウデムシだった。長い腕を折り畳み、眉毛に擬態していたにすぎない。
そう、まさしく擬態。
ひな子の全身が粟立った。反射的に後ずさる。
ウデムシはポロリと落ちた。
カサカサと音を立てながらカウンターの向こうに走っていった。
家守の様子が変だ。虚ろな眼つき。
だしぬけに鼻の横の皮膚が裂け、まるで蝶番がついたみたいに鼻梁が片方に開いた。開いた拍子に鼻の裏側の軟骨と鮮やかな粘膜があらわになった。
顔の穴から、なにやら硬そうな黒褐色の姿が見えた。
見る見るうちに、顔面の肉が外側に弾けた。花火みたいに炸裂したといっていい。ピンポン玉そこのけの眼球が飛び出し、頬に垂れ下がる。
あたかも蛹から羽化した成虫が出てくるようだった。
ひな子は絶叫を放った。
顔の中心に、ラジオペンチみたいな、いかにも凶暴そうな口が露出していた。ウデムシの鋏角であろう。
巨大なウデムシが棘のついた腕を伸ばし、這い出てこようとしている。
ひな子はカウンターに並んでいたウイスキーボトルを掴むと叩き割った。
バーテンダーがなにごとかとやってくるのもかまわず、ギザギザにささくれた面で虫めがけて突き刺した。
了




