8.慕西島の守り神の悩み
島は、さっきまで湖の中央に屹立していたのに、眼下一面には真っ赤に煮えたぎるマグマが広がっていたのだ。森も険しい山並みも見当たらない。360度が赤一色の地獄絵図もかくやという眺め。
グツグツと泡が沸き立っている。それとも地球の始まりの起源の一部を見ているかのよう。幸い、熱気は感じられなかったが。
これはどういうわけか?
上海の連中が空から降下しようにも、島が忽然と姿を消した意味がわかる気がした。慕西島は湖の中に佇みながら、真の本体は異世界に属しているということか? 長老の言葉が頭をかすめる。――現実と異界の狭間にある聖地。
もうなにが起きても不思議ではあるまい。ここでは我々の常識は通用しないのだ。
さっきまで社などなかったはずなのに――ちょっと眼を離した隙に、台地の片隅に廟がひょっこり現れていたのだ。
廟がなにかって?
屋根付きの、日本で言うところの祠さ。中国において廟ってのは、主に祖先の霊を祀る場であるわけさ。
そのちっちゃなスペースから、突如、にゅっと娘が出てきたから、さすがに肝を潰した。
10歳にも満たないぽっちゃり体型の少女だった。リンゴのような頬が福々しい。
赤と緑の民族衣装を着ていることから察するに、恐らくイ族出身者だろう。たくさんの花柄があしらわれた服は眼にもまぶしく、派手な冠を頭にいただいていたのが印象的だった。
「ようこそ。旅人かえ? よくぞ遠いところへ参られたのう」
と、娘は流暢な日本語でしゃべった。
私は呆気にとられ、立ち尽くしていると相手はケラケラと笑った。少なくとも敵意は感じられない。
「その……。こんにちは。イ族のお嬢さんかい?」と、私は相手を警戒させないよう、明るい声を出したつもりだった。「どうしてこんなところに? もしかして島の番人かな?」
恐らく驚愕の顔を浮かべ、へっぴり腰になっているであろう私を見透かし、娘は土産をせがむかのようにすり寄ってきた。純粋そうな顔を突き出し、見上げてくる。姿は10歳未満なのに、所作や口ぶりは明らかに老壮のそれであった。
「なるほど日本人か。はるばる彼の地からやってきたとは、物好きじゃな。さすがは蓬莱の国からの使者だけある」
「どうも……。見ただけでわかるなら話は早い。私はある人の依頼を受けて、天梯草を採りに来た者。里の畢摩の長老に許可もいただいている。つきましては、いくつか分けて欲しいんですが」
「ほほ……。虹を渡って慕西島の山頂に来るほどの命知らずじゃ。ここに天梯草以外、なにがあろう」と、娘は目尻を下げ、相好を崩した。後ろ手に手を組み、ピョンとジャンプ。羽毛みたいにえらくゆったりとした動きで廟の屋根に飛び移った。そこでしゃがんだまま、こう言った。「天梯草が欲しいかえ? くれてやるとも。うまく虹の橋を渡ったということは、選ばれたということじゃ。天梯草を手にする資格があるわな」
「ありがたい!」
「ただし――条件がある。そうは問屋が卸すまいて」
「ほんのわずかでいいんです。採り尽くしたりはしませんので」
直感でその計画はやめにした方がいいと思った。苗を持ち帰っての移植栽培や、発毛剤の量産化は諦めてもらうしかあるまい。娘を怒らせない方が得策だ。
「むろん、それは困る。あくまで少量しか与えられん。そなたの国のアイヌでも言うじゃろう。童はこう見えて、世界のあらゆることについて勉強しておる。日本の言語さえも――川で三匹のサケを見かけても三匹とも獲ってはならぬ。一匹は人間のものだとして、もう一匹は熊のために残す。そして別の一匹は神のものじゃ。分をわきまえるのじゃ」
「ですよね。さもなくば天罰が下りかねない」
「独りよがりは慎めよ。欲張った末、取り返しのつかぬことになるからの」
民族衣装姿の娘は、廟から飛び降りた。そしてちょこんと地面に座る。日本でいうところの体育座り。周囲には天梯草が生い茂り、ミツバチが戯れていた。乾いたそよ風が吹いている。のどかな光景だった。殺風景な島の上にしては、絵になった。
それにしても娘そのものの質感はリアルで、とてもイ族の先祖の霊だか島を守る神だかには到底見えない。どこにでもいるぽっちゃりした大柄な女の子。田舎の子どもらしく、鼻水を垂らし、鼻の下をテカテカさせている。集落で降雨を待っていたあいだ、イ族の子どもたちと遊んだが、あの子たちとなんら変わりなかった。
「じゃあ、恵んでください、天梯草を」
私は娘の近くでしゃがみ、頭を下げた。
娘は座ったまま、手のひらを差し出し、催促するかのように振った。
「その前にだ。童の悩みを訊いてくれぬか。それも草を譲る条件のひとつじゃ」
「悩み?」てっきり無茶な要求をされるんじゃないかと警戒していたので、拍子抜けした。かぐや姫に求婚した貴族たちに突きつけた無理難題のように。「なんでもおっしゃってください。私でよければ相談に乗ります」
「そなたは利口な男じゃから、多くを語らずともわかろう。察しのとおり、童は一族の先祖にして、慕西島の守り神のようなものじゃ。そなたが思っとるような幽霊とはちと違う。年もとらぬのものの、童とて皆と同じように時間は流れておるんじゃ」
「で?」
「こうして島で、たった独り番をしておる。任期は数千年じゃろう。場合によっては、よからぬ企みを抱いた悪党が草を奪いに来ないとも限らぬからのう。例え悪党なら、たやすく懲らしめてやれるのでいい刺激になろう。しかし総じて、滅多に下界の者は寄り付かぬ。ここはひどく退屈なのじゃ」
「でしょうね」
「この山頂からどこへも行けず、毎日暇を持て余しておる。ここにはなんの娯楽もないからの。思索に耽るにはちょうどよいかもしれぬが、さすがに飽きが来る」
「なるほど、事情は飲み込めました。ここで過ごすのは苦痛かもしれませんね。時には畢摩の長老たちも、ここへ天梯草を採りにやってくるんでしょう? 彼らとも交流があるので?」
「そなたは童と当たり前のように会話しておるが、彼らの前に姿を現したことは一度たりともない。よもや我が一族の末裔たちは、山頂で番人がいるとは夢にも思っとるまいよ」




