2.雨のち虹、および虹という漢字の成り立ち
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それはひな子が6歳のころ。群馬県沼田市で暮らしていたときである。
ある日の夕方だった。両親と一緒に、自宅裏にある石段を上った。
当時父親は自営業がうまくいっていなく、夫婦仲もそれに比例した。たびたびひな子は、経済的なことで頭を抱えている両親の姿を見ていた。
こうして家族そろって行動することはめったになかったので、かえって印象に残っているのだという。
高台に公園があった。誰もおらず、ひな子たちの貸し切り状態になった。
家族はひとしきり遊具で遊んだ。そのあとベンチに腰かけ、持参したサンドイッチと飲み物を口にしながら他愛もない会話を交わした。
時ならぬにわか雨。
三人は東屋の下で雨宿りした。そんなハプニングさえも楽しめた。
もっとも、30分もすれば雨は止み、雲間から陽が射すようになった。
帰り際、公園の端から町を見下ろした。
眼下に見慣れた城下町が広がっていた。みごとな虹の架け橋がカーブを描いていたのが忘れられない。
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「きれいな虹だった。私は背伸びすれば、あの七色のアーチに手が届くんじゃないかって言ったの。そしたら父さん、肩車をしてくれて。もちろん虹には届くわけなかった。でもね、家族が一体になれたような気がしたの。あの思い出は、私にとってかけがえのない宝物。普通の人にとっては、ありふれた思い出かもしんないけど」
ひな子は頬杖を突いたまま、しんみりした口調で言った。
須賀は頷いたあと、首をひねった。
「ところで、虹って漢字、なんで虫偏なんでしょうね。今さらですが引っかかりました」
「考えてみればそうだよね、スーさん」と、ひな子は思いつき、膝に乗せたカバンからスマホを取り出した。タップしてAIで検索してみる。AIは2秒で返事してくれた。「なになに、私のGemini君によると、こうらしい。読み上げてみる――」
1. なぜ『虹』は虫偏なのか?
現代の私たちは『虫』というと昆虫を思い浮かべますが、漢字が作られた古代中国(甲骨文字の時代)において、本来『虫』の元の意味はヘビを象ったものでした。
当時の人々にとって、トカゲやカエルなどの爬虫類や両生類さえも含み、さらには想像上の『龍』や『大蛇』といった、這いつくばる不気味な生き物までが、すべて『虫』の仲間だったのです。
2. なぜ右側が『工』なのか?
『工』という漢字は、大工さんが使う『ものさし』や、工具の形からできた文字です。ここから『二つの物体の間をまっすぐつなぐ』という意味を持っています。
天と地をまっすぐつなぐように、空に大きなアーチを架ける姿を表しているのですね。
つまり『虹』が表しているもの――これらが合体した『虹』という漢字は、『天と地をつなぐ、巨大な蛇(もしくは龍)』を意味します。
古代の中国人は、雨上がりに空に架かるあの美しい光の帯を見て、こう考えました。
「きっとあれは、空に住む巨大な龍が、地上の川の水を飲むために下りてきた姿にちがいない!」
実際、中国の古い伝説では、虹にはオスとメスがいると信じられていました。
虹:明るくはっきり見える『主虹』。これがオスの龍。
霓:その外側に、うっすら見えるのが『副虹』。これはメスの龍だとされています。
だからこそ2つ合体させて、『虹霓』なる言葉まであるのです。
『美しい光学現象』ではなく、『水を飲みに現れた巨大な生き物』として捉えていたことから、名前に虫偏が使われたのです。
それを踏まえ、改めて『虹』という文字を見ると、なんだか空を見上げる目が変わりそうですね。
ちなみに、中国を起源に持つ漢字には、虫偏なのに昆虫以外の呼び名は、他にもこんなものがあります――蛙、蜥蜴、蝙蝠、蛤、蜆、蟹、蠍など。
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スマホを見ながら説明し終えたひな子。
バーテンダーは眼を丸くして、しきりに驚きの声を洩らした。
そのときだった。
荒天に拍車がかかったのだろう。天井を叩く雨音が激烈になり、テーブル席にいた数人の客たちが壁の横長の窓を見上げ、いっせいにうめいている。店から出るときに収まってくれればいいが……。
「ないわー。カエル、トカゲ、コウモリ、サソリは」と、天気など我関せずといった調子でひな子は言った。白い歯を見せ、「だけど、ハマグリやシジミ、カニさんは食べたら美味しいからよしとしよう。やっぱ虹は別格だわ」
と、無邪気に笑った。顔は赤みが増し、ほどよく酔いが回っていた。
そのとき、カウンターの左端を陣取っていた男性客は、たまりかねたようにひな子たちの方を向く。
たとえ外部を遮断していたとしても、二人のやりとりは嫌でも耳に入ってしまったのだろう。
「すまん兄さん、お代わりお願いしたいんだが」と男は言い、ショットグラスを掲げた。声は甲高かった。「今度はダブルで頼む」
「あ、はい。かしこまりました」
バーテンダーがひな子の真向かいから離れた瞬間、客の視線がひな子に突き刺さった。
とにかく濃い顔立ちの50前後の男である。ひな子は眼が合ってしまったので、思わず斜め上に視線を泳がせたほど強烈すぎた。
キリッとした二重瞼は悪くないのだが、やはりどう見ても太い眉毛が眉間のところでつながっている。おまけにゴワゴワした髪も剛毛すぎる。ややもすると、ヘルメットをかぶっているように見えてしまう。もしやカツラではないか?
――なんなの、この人? 若いころの我修院達也そっくり。怪しさ全開なんだけど?
まさに男性ホルモンの権化。猫も杓子もエステで脱毛する男性が多いなか、こんな天然記念物のような昭和の遺物が実在するんだ……と、ひな子は思った。
「君の話を訊かせてもらったよ。虫について、みごとな演説だった」
酒のお代わりを手にすると、男はグラスを差し出した。
ハードボイルドを気取ったつもりなのかもしれないが、うまくいったとは言えまい。声が裏返っていた。
「どうも。演説だなんて。うるさく聞こえてたら謝ります」
「……ま、これもなにかの縁かもしれないな」
「そんなつもりは」
はしゃぎすぎたかもしれない。ひな子は内心舌を出した。
訊きもしないのに、男は家守 鉄也と名乗った。年齢は48歳だという。こうも体毛が濃い顔立ちだと、年齢不詳に見える。




