1.Gが這い廻る音
そこは都内某所。半地下になったショットバー。
いつもなら天井近くの横長の窓から、ネオンでけばけばしい東京の夜が切り取られて見えるはずなのだ。
あいにく今夜はしばらく前から雨脚が強まり、窓の向こうは滝のような飛沫で煙るばかり。そのせいで客の入りも疎らだった。
5人座れるカウンターの真ん中で、一人グラスを弄んでいる女がいる。会社帰りか、スーツ姿だった。
それが肝付 ひな子、26歳。
大手化粧品会社の、泣く子も黙る品質管理部のエースである。クラッシュアイスが溶けてシャバシャバになったシングルモルトを飲み終え、二杯目をお代わりしたところだった。
カウンターの左端のスツールには、先客の男が席を温めていた。
中年男は正面のバックバーの棚を見つめたまま、時折ショットグラスに口をつけている。バーボンのオンザロックだろう。
その横顔は、お世辞にもイケメンとは言い難い。グラスの縁を、れろれろれろと舐めるいやらしい飲み方をしている。
おしゃべり好きのひな子にとって、なんとなくお近づきにはなりたくないタイプ。生理的に無理すぎる。席に着いてからは目もくれなかった。
彼女はもっぱら馴染みのバーテンダーを相手に言葉を交わしていた。
もっともこの30代すぎの雇われ従業員も口数も少なく、ほぼ聞き役に徹していた。
ひな子の話題は、世間を騒がす時事ネタからはじまり、職場の上司への不満を肴にした。酔うにつれ、糸が切れた凧のようにコントロール不能となる。
「スーさん、話はコロッと変わるんだけどさ。ちょっと訊いてったら」と、ひな子はクラッシュアイスごとスコッチを流し込んだあと、ミストを纏ったグラスを置く。「夕べ、寝てたらGが出たの。キッチンでカサカサする音で気づいたわけ。私ったら仕事柄、鼻だけじゃなく負けず劣らず耳も人一倍強いんだから。ちょっとした異変なんか絶対見逃さないの」
と言って、顔をしかめた。
ひな子は目鼻立ちのはっきりした可愛い顔立ちでメイク映えした。さぞかし職場では、男性社員の憧れの的になっていることだろう。なにより明朗快活な性格で表裏がないのがよかった。白黒はっきりしすぎる物言いだけは玉に瑕だったが。
「Gったら、ゴキのことですよね?」
須賀はグラスを磨きながら訊いた。
「決まってんじゃない。――なんでGって略されたか知ってる? ズバリ、そのものの名前を言うことすら、おぞましいからだもん」
「言うのも汚らわしいか。これほど人類に嫌われた奴もめずらしいですね」
「でね。私、叩けないから彼氏に大至急、すぐ来てってLINE送ったの。そしたら彼、片道30分かけてカイエンで駆けつけてくれて。見つけ出すまで小一時間かかったけど、やっとこさGを殺してもらったってわけ。深夜廻ってたんだから、明くる日堪えたわー」
「最近増えてるそうですね。ご自分で退治できないから、わざわざ親御さん呼ぶとか、なかには専門業者に撃退してもらったはいいけど、あとで高額請求されてトラブルになったとか」
「さすがにそれはねー。私ね、Gだけじゃない。もう虫という虫が大っ嫌いで。部屋に一緒にいるってだけで耐えらんない。Gはれっきとした害虫だから死んで当然だけど、不快害虫ってのもあるじゃない? 代表格のムカデやクモは、Gを食べてくれるから――アイツをバリバリ食べるってのを想像しただけでウエッ!――益虫らしいけど、見た目がグロテスクすぎるから、やっぱりアウト」
と、ひな子は言って我が身を抱き、怖気をふるった。
「たしかにムカデとかクモはね。アシダカグモのビジュアルなんか強烈です。ちなみに僕、夜寝てたら天井からポトッとムカデが落ちてきて、頬っぺた、咬まれたことありますよ」
「あそー。そりゃ災難」と、ひな子は自身の母親のように、スナップを利かせて手をふった。「恥ずかしながら私の実家、なかなかの田舎でね。群馬よグンマ。そりゃいろんな不快害虫を見てきたの。ムカデだけじゃない。ゲジゲジやヤスデ、カメムシにザトウムシ。子どもが大好きなダンゴムシですらダメ――丸まるのがダンゴムシで、丸まらないのがワラジムシよ。平べったい奴」
「ザトウムシったら、クモに似た、肢の長い虫でしょ。あれは無害でしょうけど、もしあんなのが巨大化したら、かなり嫌かな」
「やめてよ、そんな想像。もうね、例え人間に悪さしなかったとしても、存在自体がダメ。バルス唱えて、この世からいなくなれって思うわ。もちろん虫限定で!」
今夜のひな子はエスカレートしていた。
直属の上司は妻子ある身だった。にもかかわらず、暇さえあればひな子に色目を使い、宴席では酔った勢いで口説こうとする40すぎの男で、あまりの押しの強さにうんざりしていた。
過激な舌鋒は、左隅の先客の耳にも入った。
男はひな子を、どこか乾いた眼つきでにらむ。
身体つきは中肉中背だが、ポロシャツから露出した二の腕には体毛がびっしり。顔は、なんと太い眉毛が眉間でつながっているという異相ぶり。
まるでリアル両津勘吉だ。両津は別の意味での魅力はあったかもしれないが、この男にかけては見るからに異物感が拭えず、およそ男性としてのそれは絶無に等しかった。
「私、そのへん徹底しててね。もう虫偏のつく漢字でさえムリ。絵が見えそうだから」
「虫偏の漢字も嫌ってか。そりゃ重症ですね」
「――あ、けどね。唯一、『虹』って漢字だけは許せるかも。レインボーの虹」
ひな子はカウンターに両肘をつき、チューリップのように手のひらを頬に添えた。
その眼はライトアップされたバックバーの棚ではなく、ずっと遠い過去に向けられているようであった。
ここでひな子は、先ほどとは打って変わって声のトーンを落とし、少女時代の思い出をバーテンダーに語って聞かせた。




