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第16話 深紅

「ラブホテル?」

「大丈夫、部屋番号伝えれば入れるから、ね」

「でも...こんな夜中に」

「来て、文之。お願い」


咲瀬が僕のことを、「文之」と名前で呼んだのはその時が初めてだった。何か、僕の中にザワザワとした感情が蠢きはじめた。それは決して性的な感情ではなかった。何かがおかしい、というだけの強烈な違和感だった。咲瀬はそれ以上何も話さなかった。


「分かった」とそれだけ僕が告げると、咲瀬は電話を切った。


僕は走った。電車で1駅の街の中心地。ただただ急いだ。比良川に電話するなんて思いつきもしなかった。咲瀬が何をしようとしているのか、僕には全く分からなかった。


そして僕は彼女の指定した部屋の前に着いた。息を整え、ドアをノックすると咲瀬の声がした。

「はい」

「翠夜だけど」

「そのまま入って」


ゆっくりとドアを開けて、ゆっくり閉めた。部屋の中は薄暗く、明るい廊下から入ってきた僕は暫くそこにあるものが見えなかった。それでも何か、臭いを感じた。目が薄い暗がりに馴染むまで何かは分からなかった。


死体があった。ベッドに手錠と足枷で繋がれた裸の男。彼はその背中から真っ赤で、どす黒い血を流して死んでいた。何度も斬りつけたような跡がその背中にあった。


「大人って何だろうね...」

彼女は自分のした事を分かっているのだろうか。彼女はいつものようにそう問いかけた。赤いドレスを着て、赤いハイヒールを履いていた。


「どうしてこんな大人がいるの?どうして社会は彼らを大人と呼ぶの?どうしてそんな人間が生きているの?」

僕は血の匂いと、異様な景色を前にして、問いかける彼女を眺めて呆然としていた。そんな僕を咲瀬はゆっくりと床に倒し、僕のお腹の上に座りこみ、僕の顔をじっと見つめる。


分からない。分からないがきっと、この男の何かを許せなかったんだろう。


彼女は、耳元でこの部屋で起きたことは全部隠しカメラで記録しているんだと言った。

警察がくるまでカメラを止めちゃダメだよとも。


「咲瀬、」

その後は、何も言えなかった。

きっと彼女は既に覚悟を決めていた。


「文之、私と死んでくれる?」

彼女はナイフを握り、僕の首筋にあてがった。僕は静かに彼女と目を合わせた。僕の首から少しだけ血が流れる。しかし、彼女は透明な涙を頬に伝わせながら、僕にその顔を近づけてきた。


「ねぇ。キス、して」

僕は言われるがまま、彼女の言葉に従った。静かで冷たいキスだった。


「甘い」

「さっきドーナツ食べてたから」


唇を湿らせた彼女は涙の滲む目で、それでも強い意志を込めた目で、真っ直ぐ僕を見て笑った。僕は泣きそうだった。


「大切に生きたいんだって、言ったのは君じゃないか」

「私はね、ミドリ君。こういう人間がいるんだって世界に知らしめたかっただけなんだ。本当に、心の底から、大切に生きたいって思っていても、だからこそ誰かを殺さずには、そして自殺せずにはいられない、そういう人間がいるんだって。ここにいるんだって。それは人間誰しもが持つ葛藤なんだって。生きていればそれでいいなんてあり得ないんだって。そんな幻想、そんな妄言、そんな社会で自分を削ぎ落として生きて、自己保身をし続けた人間たちの、その場凌ぎの言葉がどんな意味を持つのか、知ってほしかった。でもさ、そういう人たちは、自分が何を言っているのか、本当には理解していないんだ。理解しようともしていないんだ。そんな人たちと、生きていくのがもう私には出来ないんだ。毎日、毎日、そんな馬鹿らしい生き方をして、私は耐えられない。もう、耐えられないんだ。苦しいんだ。悲しいし、虚しいんだ」


「それでも、生きて欲しい。それでも、僕は君に生きて欲しいんだ。そしていつか、少しだけ苦笑いしてほしい。僕がこんな台詞を恥ずかしげもなく君に告げたってことを、笑って欲しいんだ」


「だめだよ、文之」

「そんな事ない、ダメなんてそれは妄想だよ。それこそ幻想だ」


「違うよ。大切なこと。よく聞いてね。死んだからって消えるわけじゃない。死んだからこそ輝くことができる。そうやって死んでいった人たちを君も知っているでしょ?人が死んだら皆躍起になって事件だ、事故だ、デモだ、追悼だって騒ぎ立てる。人が死ななければ、話題にならなかったような事も、ただ一人の人間が死ぬだけで人間の意識の中を波及するんだ。必死に生きるより、時には死んだ方がいい時だってあるんだよ」


「それは、咲瀬にとって大切なこと、なの?」

「そう。大切なこと。人に影響を与える事。人の意識を変革すること。それほどの強力な作品としての死の映画を撮影する事。そのために自分の全てをそこに費やすこと。知識も、技能も、才能も、人脈も、お金も、未来も、持ってるもの全部手放して、そして周りの人からの信頼も裏切って、それでも私はそれを作らなくちゃいけないって。そう思った。強烈な死の映画を、そういう映像を、完璧なリアリティで作り上げることが今のこの幻想に浸ってみんなで沈没する船の中、シアターで映画を見てるような社会に必要なことなんだって。それを私はできるんだって、いや私にしか出来ないんだってそんな使命感すら感じた。だから、だからこそね、どうしても、私が死ななくちゃ映画が完成しないんだ」


「だから死ぬ。自殺する、と」

「そう」


「思いついた時は舞い上がった。その映画を途中までは3人で作ろうって。本当の最後はこのシーンなんだ。比良川君は知らないよ。主人公じゃないから。比良川君は、本当はとても輝いている人間なんだから。だから主人公が文之だったんだよ」

僕は頭が真っ白になっていた。


「でもね、文之は死んじゃいけないんだ。私は死んでもいいけど、文之は死んじゃいけない。そういうシナリオなんだ。これは、私が文之と最後に交わす約束なんだよ。ね、最高の、シナリオでしょ?」

「......」


「だから、生きて」


最後にそれだけ言って彼女は僕の身体の上で頸動脈を掻っ切った。よく似合う真っ赤なドレスに真っ赤なハイヒールを身につけた彼女の体が倒れて、僕の身体を覆う。首から流れる彼女の血がぽかんと開けたままの僕の口に入ってきた。生暖かい鉄分の味。この瞬間まで生きていた彼女の血。その瞬間気を失えたなら、どれほど良かっただろう。彼女の体に半分ほど残った首にくっついた顔を横に感じながらラブホテルの部屋を照らす薄暗い照明を、僕は茫然と眺めていた。


そして1人残された僕は、数十分ほどして、ようやく警察に通報した。僕が家に帰り着いたのは、曜日を跨いでからだった。


映画は確かに公開されていた。最後のシーンだけ、少し粗い。それでも声は聞こえた。比良川によると、自動で編集されて、勝手にアップロードされる設定になっていたようだ。そこであの男が誰なのか、初めて知った。


本来予定されていたラストシーンが終わった後、映画では咲瀬とあの男がベッドに座る場面から始まった。

「初めてだな、こんなプレイ」

「でも好きなんでしょ?」

「まぁね」


そう言って手錠、足枷をつけられていく男。身動きが取れない状態で、背中に咲瀬がまたがっていた。

「ね、口枷もつけるからね」

そう言われて男は素直に口枷をつけられていた。


「ユキちゃんのこと、知ってるよね」

唐突に咲瀬の声が低くなり、男の顔は青ざめた。男は必死にもがくけれど、手錠も足枷も口枷も外れない。後から聞いた話によると、ユキちゃんとは咲瀬の近所に住む中学生のことだったようだ。


「大人しくしてよね。ストーカーおじさん。今から殺してあげるから」

つまり男はその子のストーカーだったらしい。


「どうして君たちみたいな人間が、笑って生きてるの?」

そう言いながら、咲瀬は鞄の中から厚めの包丁を取り出した。


「女を食い物にする奴なんて全員死んじゃえばいいんだ」


男は叫び声を上げようとしていた。でも、それは声になることはなかった。背中だけではなくて、脇腹にも何度も咲瀬は包丁を突き立てる。そして最後に男の首を切った。


咲瀬はしばらく椅子に座り、カメラを見ていた。そして僕に電話をかけた。電話口から僕の間抜けな声が聞こえた。

「ラブホテル?」


そして僕との電話を終えて、僕が部屋に到着するまで、咲瀬は黙って窓の外を眺めていた。


---

僕は特に警察に処分されることは無かった。全部動画に残っていたから、僕に責任はないということになった。


その動画は様々な動画投稿サイトにアップロードされていたようで、警察も完全に消すことはできなかったようだ。一部のマニアの間では「真っ赤なドレスを着た可愛い女子高生が、おじさんを殺して、自分も彼氏の体の上で死ぬ動画」として、広まったらしい。比良川が教えてくれた。僕らの退屈を描いた部分はない事にされているけれど、と。


当の比良川も、流石に少し衰弱しているようだった。普段は絶対僕にそんなことを言わないのに、僕の家に来てこう言った。

「咲瀬を、救えなくてごめん」


最後にあの場所にいたのは僕なのに、なぜか比良川は僕に謝った。僕はどう接していいか分からず、それ以来、比良川とあまり話せなくなった。


比良川は2学期が終わるまで学校に来ることは無かったけれど、僕は学校を休むことはしなかった。ただ、それが良かったかと言うと嘘になる。B組の人間が咲瀬が死んだという事だけ知って僕の元にやってきた。

「2学期になって、お前と話しはじめてから、少しづつ変わったよな咲瀬。お前の、せいじゃないのか?」

脳内をリフレインするその言葉が僕に突き刺さる。動画は見ていないようだけど、僕は何も言えなかった。


「そうだよ、あんた達と関わってから美澄は変わった。翠夜と比良川。あんた達が代わりに...。代わりにさ...」


くだらない。自己憐憫に耽るだけに留まらず、僕らにそれを押し付けてくる。男の方も同じだ。自己中なだけだ。悲しいから泣いてるんじゃない。友達の為に泣ける自分、そんな自分に無意識で酔いしれながら泣いてるんだ。君たちは何も知らない。咲瀬の事を、本当に何も。


普段の僕ならそんな事を思わなかったかもしれない。とても酷い事を考えている自覚はあった。だから、僕は何も言わず席に座って空を眺めていた。咲瀬が空を眺めている姿が、僕は好きだった。咲瀬美澄の細い指も大きな目も、耳元の小さなホクロも、もう見ることは出来ない。どうしようもなく、ただ彼女と約束してしまったから、それだけを理由にして、いやたったそれだけの理由で僕は生きなければならなかった。


自分の部屋に帰ると、咲瀬から渡された本が大量に積まれていた。少し前まで心地よく感じていたそれらを、僕は整理した。同じような心地良さを咲瀬は感じられていなかった。それが、空しかった。


---


僕が20歳の誕生日を迎えるまで、比良川はきっとその空しさと闘っていたはずだ。僕は比良川の強さを知っている。咲瀬の最後を映像を通して見てしまった比良川が、何を感じたのか、僕には分からない。それでも、僕はこうしてまた比良川の隣にいる。だからきっと、比良川は何かを僕に伝えてくれる気がして、僕は比良川と座り込んでいたベンチから立ちあがった。


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