5. 空色の蝶のかえる場所(後編)
翌日、蓮と湊が何をしているかはともかく、恒一はいつものように修理工場で一日を終えた。片付けも終わり、打金も帰途に着いたところで、彩葉の母が慌てた様子でやってきた。
閉めかけのシャッターの前で挨拶もそこそこに話し始める。
「鏃さん、彩葉を見かけませんでしたか? 学校からまだ帰ってこないんです。先ほど学校に行ったけれど、友達と校門から出たことは挨拶していた先生が確認していらして」
その日は六限までの日課で帰りは遅い方とは言え、学校までは十分程度の道のりだ。一時間ほど前には帰っててもいい時間だった。
今日は挨拶していないが、作業中だと挨拶がないこともしょっちゅうだし、大きな音が出る時はシャッターを閉めているので絶対にここを通っていないとも言えない。
それよりも、恒一には大きな心当たりがある。
しまった。髪飾りが見つかったことを彩葉ちゃんに伝えていない。
蓮に預けたこともあるし、呪物と言われたということは良くない状態なのは確かなので、そのまま渡すわけにはいかないだろう。
しかし、見つけたことは伝えておくべきだった。
「今日は見ていません……すみません」
顔色の悪い彩葉の母に、罪悪感が湧いてくる。
「俺も探します。実は昨日……」
彩葉が恒一に頼んだことを伝えると、彩葉の母は頭を下げた。
「送っていただいたのに、重ね重ねご迷惑をおかけして申し訳ありません」
「いえ、俺がもっと上手く対応していれば良かったんです」
「とんでもないです、当たり前のご対応をされたと思います」
たぶん、一般的に恒一の対応は悪いものではなかったはずだ。だがこうなってくると後悔が押し寄せてくる。もっと親身になれば良かったのではないか。もっと言い方があったのではないか。
「とにかく、もしかしたら緑地公園に行っているかもしれません。お母さんは、彩葉ちゃんが帰ってくるかもしれないので、家で待っていてください」
そう言ってシャッターを閉め切ると、彩葉の母に別れを告げて軽トラに乗り込んだ。
蓮と湊に来るなと言われたことなんてすっかり忘れていた。
§
その頃湊は、人生最大の危機に見舞われていた。
あのクソ社長〜〜〜! 何が取引先優先だ! さっさと戻ってきやがれ!
心の中は雄弁に、蓮に対する罵詈雑言で埋まっている。
しかし実際には冷や汗がダラダラと流れるばかりで、口からは一言も発することができていなかった。
緑地公園の中を歩き、現地に着く直前でかかってきた電話で、至急確認を要するからとかなんとか言って、蓮は一人でノートパソコンを積んでいる車に戻ってしまったのだ。一緒に戻ると言った湊に邪魔になるからここで待てと言い残して。酷すぎる。パワハラにも程がある。なんで僕がこんな目に。
湊の前方僅か五メートル。
ランドセルを背負った女の子が、目を丸くして湊を見つめていた。
恒一に散々と言われるまでもなく、湊は自分の不審者っぷりを自覚している。黒のパーカーのフードを深く被り、サングラスにマスク。そんな風体の男が、遊歩道からそれた森の中で一人でいたらどう思われるか。
人間、意外と咄嗟のときに大声を出すことができないものだ。湊にとって、そのことだけが幸いだった。
もし、女の子——彩葉が不審者を見て大声を上げることができたなら、休憩所辺りから人が来て湊が捕まる未来しか見えない。
もっとも、湊は見た目が怪しいだけで何もしていない。それを信じてくれる人がいるとも思えない。
誰か助けて。
そう思ったところで恒一はいない。蓮も戻ってこない。クソが。次の案件ぶっちぎってやろうか。
それより目の前の危機だ。
幸にして(?)彩葉はどうしていいのかわからずに固まっている。だが、いつまで保つかわからない。人を呼びにいかれたらどうしよう。
こんな時、人はどうするんだ? いきなり対人実地現場とか引きこもりには無理なんだよ!
彩葉が一歩、下がった。
どうしよう、通報される? 家に帰れない!?
ほぼ思考がパニックになっていた湊は、なんとか喉から声を絞り出す。
「あのっ、……っ、これ、虫が……っ」
「虫?」
見かけも不審者だが発言も意味不明。
だが、意外すぎる発言に、彩葉は反応した。会話をしようとした時、人はわずかに警戒を緩める。
「……あっ、そう、虫! 苦手で、顔……」
とっさに思い付いた言い訳がこれだ。虫が顔の周りに来るのが苦手。だから顔の周りを覆っている。それだけの文章を口に出すのが、どれだけ難しいことか。
言い訳の前に、名乗るとかサングラスなどを外して警戒を緩めるとか、そんな発想は湊にはない。その女の子が彩葉だと想像はついているくせに、恒一や寶積寺の名前を出して身元を確かにするようなこともできない。社会経験ゼロにそんなことはハードルが高すぎる。
「だから、……あやしく、ない」
「いや、この上なく怪しいな」
木の合間から、背の高い救世主が現れた!
「あ、おじ……じゃなかった、お兄ちゃん!」
「うん、気を遣って言い直してくれてありがとうね、彩葉ちゃん」
「こういちぃ」
ほぼ涙声の湊は一旦おいて、恒一は彩葉と向き合う。
「学校から帰らずにここまで来たのか? お母さん心配してたよ」
「……ごめんなさい」
しょんぼりと謝る彩葉に、恒一はかがんで視線を合わせた。
「いや、俺も悪かった。昨日、ここを通りかかってね。髪飾り、見つけたんだ」
彩葉の顔がパァッと明るくなった。
「ほんとう? 見つかったの?」
「うん、青い蝶の髪飾りだよな」
「うん!」
会話をしている間に湊はそっと木の影に隠れた。さわりと風が木の葉を揺らす。
「すぐに届けなくてごめんね。近いうちにちゃんと届けるから、心配しないで待っててな」
「うん! ありがとう、お兄ちゃん!」
とりあえず見つかって良かったと立ち上がった恒一の視線の先に、憮然とした表情の蓮が現れた。
「なんで恒一がここに……いや、言わなくていい、理由はわかる」
視線を彩葉に向けると、蓮はスマホを取り出した。
「もしもし、寶積です。はい、彩葉さんが見つかりました。ええ、送っていきます、ご安心ください、はい、失礼します」
一瞬で状況を理解して必要な連絡を入れるのはさすがだなと舌を巻いている恒一をよそに、短い電話を切った蓮は彩葉に向き直る。
「彩葉さんだね。今から……」
「おっせえんだよクソ社長——!」
蓮が言い終わる前に、木の陰から湊の恨み言が炸裂した。
今日の湊は今までにないほど感情の揺れ幅が大きかった。
突然の少女との対峙による極度の緊張からの恒一の登場、安堵ののちにこの場所に恒一が来たことへの不安。からの蓮の帰還。
斜に構えているように見えて、湊の精神は幼い。感情は激しい起伏に翻弄され、爆発した。
「湊! ここがどういう場所かわかって……!」
咄嗟に蓮が叱責するが、遅かった。
ブワリと強い風が吹く。
恒一が髪飾りを見つけたウロはすぐ目の前だった。
そこから、青い光が爆発した、かと思った。
狭いウロの入り口から、無数の青い蝶が飛び出してきたのだ。
美しく青い翅を閃かせて、このウロの中にこれだけの数がいたとは信じられない。
「え? 蝶? なんで?」
「きゃあ!」
悲鳴をあげて恒一にしがみつく彩葉を抱き止めて、恒一は蝶に見惚れた。青い光が舞い踊る。まるでスローモーションのように、煌めく青に魅せられる。
止めどなく湧き出る青い翅が視界を埋め尽くした。片手をあげて突き出した恒一の人差し指に、一羽の蝶がひらひらと舞い降りた。
「見るな! 恒一! 目をつぶれ!」
その声は蓮か湊か。よくわからない。目をつぶる? つぶったら見えなくなるじゃないか。この、——そうな蝶が。
チッっと舌打ちが聞こえ、続いてシャラン……と澄んだ音が聞こえた。パチンと何かが弾けて、恒一はハッと我に返る。
「恒一、目をつぶれ」
目の前にいたのは蓮だった。手にはやたらと長い数珠、反対の手には小さな独鈷を持って、恒一を睨んでいる。
「あ、ああ」
戸惑いながら目を閉じた恒一の前で、ホッとついた息の音がした。
「さっさとしろ、湊。自分の始末だ、自分でつけろ」
「……ごめん」
後ろめたさを充分に感じ取れる湊の声は、やや離れた場所から聞こえてきた。
恒一には何が起こっているのかわからない。
ぎゅっとしがみついている彩葉の背中に手を当てて、ただ時間が過ぎるのを待つばかりだ。
「あった」
「よこせ」
蓮と恒一の短いやり取りが聞こえたのちに、ようやく恒一は目を開けることが許された。
視界には、もう蝶はいなかった。
相変わらず不審者の湊と、手に、なぜか図鑑を持っている蓮が立っているだけだ。
その図鑑どっから出た?
恒一は訳がわからないまま、まだしがみついている彩葉に視線を落とした。
「彩葉ちゃん、びっくりしたな。もう大丈夫だよ」
そっと頭を撫でると、彩葉は恐る恐る目を開けた。
「えっと、何? 蝶がいっぱい」
なんて説明したらいいのかわからずに困っている恒一の代わりに、蓮が声をかける。
「そこのバカが、蝶が休んでいるところに手を突っ込んだんだ。びっくりした蝶が一斉に逃げて行った。驚いたよね」
恒一は、この咄嗟にそれっぽい説明ができるのはどんな異能かと半分呆れつつ、半分感謝する。
「目、つぶってたよ」
「うん、偉かったね。木の中の菌とか持って出てくるから、目から入ると危ないんだ」
蓮兄、すげえ。
スルスルと出てくる言い訳にもはや感心するばかりだ。
彩葉は無邪気に湊にも声をかけた。
「虫怖いのに、大丈夫だった?」
「……ぶっ」
思わず吹き出した恒一は悪くないだろう。
湊はそんな恒一と声を出さずに笑っている蓮をサングラス越しに睨みつけてから、そっぽを向いた。
「だ……だい、じょ、ぶ」
「そっかぁ、良かったね」
答えられただけマシかもなぁ。
優しい彩葉にほっこりしながら、恒一は心の中でこっそり呟いた。
その後、彩葉は蓮に任せ、湊が恒一の軽トラに乗り込んでくる。
「あっちの方がはるかに乗り心地いいと思うんだが」
「別に。こっちでいい」
五人が乗れるはずの方ではなくわざわざこっちに乗ったのは、やはり彩葉がいると気まずいのだろう。
「それと、ごめん」
「え? 何が?」
謝罪の理由が恒一にはわからない。
「さっき。僕のせい。感情的になって、霊力が暴走した」
「それが何か悪いのか?」
悪いからこその現象なのだろうが、恒一にとって湊の霊力は霊を消す魔法のようなものだ。
「悪霊はその程度じゃ消えないから。むしろ刺激して起こした。だから……」
「ああ、それであの蝶だったのか」
なんで霊が大量の蝶だったのかはわからないが、多分あれは記事に載っていた浅葱さんとやらの霊なのだろう。研究対象を大事にしたくて子供を脅かしていたのか、それともただの執着か。今となってはわからない。
「あの図鑑は何だったんだ?」
「依代。悪霊になる媒体みたいなもの」
「へえ」
ざっくりした説明にも相槌をうつに止める。詳しく聞きたい訳じゃない。
「なんにせよ、お疲れさん」
湊がやらかしたにしても、蓮が何か言ってたように始末を付けたのも湊なのだろう。だったら恒一にできるのは労うことだけだ。
「……うん」
少し安心したように、湊は返事をした。
§
数日後。
「お兄ちゃん、こんにちは!」
午後、タイヤの空気圧を測っていた恒一に、ランドセルを背負った彩葉が友達と一緒に通りかかり、元気よく挨拶をする。
「こんにちは、彩葉ちゃん」
だれー? と友達に聞かれて近所のお兄ちゃん、と無邪気に答える彩葉の髪には、青い蝶が舞っていた。
無事に彼女の元に戻ったのだった。
湊は蓮の事務所にいた。蓮も衣縫も不在だった。
また報告書とやらを書かされたあと、一人で気楽なこともあり、ぐったりとソファでだらけでいた。
手にはホチキスでまとめられた数枚の書類を手にしている。
『浅葱創太に関する報告書』。どういう伝手を使ったのかは知らないが、衣縫がまとめたものだった。
アマチュアの昆虫研究家。享年四十二。会社員の傍ら、地元の蝶の研究に力を注ぐ。
未婚。両親は本人が亡くなる十年ほど前に相次いで他界。既婚の姉が一人。
育った家庭は裕福ではなかったようだ。子供時代の知り合いの証言によると、クラスで浮いている子だったらしい。
そこまで読むと、湊は書類をテーブルに放った。
ぱさりと落ちたその横には、二十年近く木のウロにあったとは信じられないほどきれいな、しかし何度も読み返されて古びた昆虫図鑑があった。
表紙をめくるとそこには子供の字で『おねえちゃん ありがとう あさぎ そう太』と書いてある。
どういう理由で『ありがとう』と書いたのかはわからないが、それでも。
「ありがとうって言える相手が、いたんだろ……」
それだけではダメだったんだろうか。
悪霊になる条件の一つは強い霊力だが、それ以外についてはよくわかっていない。だが、何らかの執着や未練は確実に原因の一つと言われている。
大人になるまでに何があったにしろ、彼が依代にしたこの図鑑には無邪気に踊る拙い字が記されているのみ。
湊からすれば、眩しく思える文字だった。
緑地公園のあの場所で、湊がやらかした時。
恒一に必死でしがみついている女の子を見た。
あれは、自分だと思った。
体ばかり大きくはなったけど、恒一にしがみついて、嵐が去るのを待っているだけ。自分一人では何もできない子供と同じだ。
何かやらかしても、恒一は笑って許してくれる。それに甘えている。
客観的に、無様な自分を見せられたようだった。
ジメジメしてきた気持ちを振り切って、湊はもう一度図鑑に視線を落とす。
この図鑑は、すでに依代としても、悪霊の気配もきれいに浄化されて、ただの古い図鑑になっている。
なぜか蓮は、処分を湊に任せてきた。
どうしろというんだ。
雑誌と一緒にまとめてゴミに出すしか思いつかず、恒一は仕方なく居候先にそれを持ち帰った。
自分の部屋には戻らず居間に入ると、恒一がどら焼きを頬張っている。彩葉の母が以前くれたものだ。
「これうまいよな。あの店高いからあまり買いに行かねえけど」
湊にはもう少し甘い方が好みだったが、上品に控えられた甘味は恒一の好みにあったようだ。
どら焼きを食べながら、恒一は湊が持っている図鑑に目をやった。
「それって、あの時のか?」
「うん、もう浄化は終わってるから。蓮さんが処分しとけって」
「なぜうちに……まあ、雑誌はよく出るからか」
工場に車を持ち込んだ人によっては、作業終了まで待つ人もいる。そういう人の暇つぶしのために、週刊誌や漫画雑誌をいくつか置いているのだ。
恒一が表紙を開いた。そこにはあの『おねえちゃん ありがとう』の文字が並んでいる。
「これ、あそこに返してこようか」
「え?」
「あの木のウロ。あれ、きっと浅葱さんの宝箱だ」
宝箱か、秘密の隠し場所。恒一はあっさりとそう決めつけた。恒一が言うならその通りかもしれない。でも浅葱さんはもういない。
「まあ、もういないんだろうけどさ。供養って、こっちの気持ちのためでもあるって親父さん(住職)も言ってるし」
なんかこのまま捨てるのも落ち着かないしさ、と言う恒一に、湊は黙って首を縦に振った。
§
翌日、工場の定休日。恒一はまたあの緑地公園を訪れた。片手にはあの昆虫図鑑と、コンビニで買った仏花(※本当に売っているところがある)をまとめて持っている。
遊歩道で、騒ぎながら歩いてくる子供達とすれ違った。
「やっぱり聞こえないじゃん」
「えー、前は本当に聞こえたんだって!」
耳に入る子供達の声に恒一は苦笑する。
噂が消えるには、まだ時間がかかるだろう。
それとも、昭和の時代からある口裂け女のように、名前がつけられて生き残っていくのだろうか。
いずれにせよ、ここにはもう、蝶を取ると怒るナニカはいない。
休憩所には、初老の女性が一人座っているだけだった。
先ほどすれ違った子供達以外には「肝試し」に来ている子はいないらしく、あたりは静かだ。
恒一は以前と同じように、遊歩道からそれて森の奥へと向かう。それほどの時間をかけずに、例のウロのところまで辿り着いた。
恒一は仏花を木の根元に置くと、なんとなくウロに向かって話しかける。
「浅葱さん。あなたの発見した蝶には、『ソータ』の名前がつけられたそうですよ」
献名、と言うそうだ。発見者を讃えて、その名を冠する。それを知っていれば、浅葱は悪霊などにならなかったかもしれない。
「あの……」
突然後ろから声をかけられ、恒一は慌てて振り向いた。
木に向かって話しかけているおかしな男になっていた。見られていたのは恥ずかしい。
声をかけてきたのは先ほど休憩所にいた初老の女性だった。
「あ、すみません」
咄嗟になぜか謝罪が出て、なんで謝ってるんだと自問する。
「いえ……あの、創太のことをご存知なのでしょうか」
「え?」
「突然すみません、創太は私の弟です」
『おねえちゃん ありがとう』の、おねえちゃん。この人か。
あまりの偶然に、恒一は目を見張る。よりによって今日、この図鑑と、「おねえちゃん」がここに揃うなんてことがあるのか?
しかし、恒一がここにいる理由も、浅葱さんを知っている理由も説明できない。蓮のようにスラスラそれらしいことも言えない恒一は、とにかく会話を続けようと図鑑を差し出した。
「えーと、これ、たまたま。たまたま手に入れまして。そこに、名前が書いてあったので」
表紙をめくると、変わらずそこにあるお礼と署名。
「あ……」
女性の瞳が揺れた。しばらくそのまま、ずっとその文字を見つめていた。
恒一はどうしていいかわからず、もう目的はそのまま話すことにした。
「えーと、この図鑑、諸事情により役目を終えまして……その、元の持ち主に返そうかな、と……」
ここまで話して、恒一は持ち主に返すのがどうしてこの木なのか説明できないことに気がついて、言葉に詰まる。蓮ならもっとスマートに言い訳をするに違いない。
「あの、もしよろしければ、お持ちください。弟さんの、ですよね?」
女性の瞳からポロリと雫が落ちる。彼女は慌ててバッグからハンカチを取り出してそれを拭うと、恒一に頭を下げた。
「ありがとうございます。でも、これはあそこにお願いします」
女性は例のウロを指差した。
「子供の頃、大事なものをあそこに隠していたんです。あの子の秘密の隠し場所」
懐かしそうに微笑んで、その木を見つめた。
「あの頃から大きな木でした。もしかしたらあの穴は、もっと小さかったかもしれません。私たちは余裕のない家庭だったなので、拾ったビー玉やベーゴマなどを隠していたようです」
この本は、私が感想文コンクールで手に入れた図書券で買ったものです。女性は愛おしそうに本を撫でてそう言った。
恒一は頷いて、木に近づくと手を伸ばし、そっとウロの中に図鑑を置いた。
もう蝶は舞い出て来ない。
あれはきっと、長い時間かけて収集した彼のコレクションだったのだろう。
「それじゃ、俺は、これで」
ぎこちなく挨拶をして、恒一はその場を後にする。
「本当に、ありがとうございます」
女性は恒一の背中にそうお礼を伝えると、深々と頭を下げた。
離れていく二人の間を、青い蝶がひらりと横切り、どこかへと消えて行った。
§
「遅い」
駐車場に戻ると、軽トラの助手席で不機嫌な湊が待っていた。恒一は車に乗り込みエンジンをかけながらもとりあえず謝る。
「あー、悪い。なんか、浅葱さんのお姉さんがいてさ」
「そっか。縁だけ残ったんだね」
特に驚くこともなくそういう湊に、アクセルを踏み込もうとしていた恒一の足が止まる。
「縁が残る?」
「そう。悪いものは残らなかったけど、たぶん蓮さんが残した」
「そんなこともできるのか」
「普通はしない。蓮さんがおかしい」
たぶん、この結末を予測していた。あの人もだいぶおかしい。
そんな湊の思考を知る由もなく、恒一はハンドルを切りながら元気に言った。
「腹減ったよな。なんか食って帰るか?」
「僕に他人の中で食事をしろと?」
「まあ、そこは、気にしなければなんとか?」
「無理」
いつか。
今日は無理でも、いつか、この誘いに乗れる自分になりたい。
遠ざかっていく緑地公園には、ちょっとした怪談と、ソータの名を持つ青い蝶が残されていた。
悪霊その他不穏な点についてはおいおい出す予定。
湊や蓮の能力もどこかでちゃんと開示したい。小説にできなかったら設定開示になるかも_(:3 」∠)_
次話、アホなコメディに戻ります。温度差……




