6. 埋まりたい人形
後書きに少しだけ用語説明があります。
都市近郊の下町で、古い家が解体されていた。
その敷地の隅に、一体の人形がポツンと横たわっている。それは、植木などを掘り返して処分しているときに出てきたものだった。中途半端に首が外れかけていて、やや不気味な見た目をしている。
現場でさまざまなゴミが出土するのは当たり前なので、作業員はその人形を通常通りゴミとして処分した。
しかし、翌日、人形は現場に戻ってきた。
敷地の端の方にうつ伏せで転がっている人形を、最初は誰かの悪戯だろうと誰も気にしていなかった。
しかし同じように処分した翌日、また人形は戻ってきた。
今度はやや窪んだ地面に半ば埋まるようにして、やはりうつ伏せで倒れていた。
流石に気味が悪い。悪戯にしてもタチが悪い。
現場開始前にお祓いも済ませているのに。
細かく切るとか燃やすとか、そういうことをしても戻ってきたら怖い。誰ともなくそんなことを考えた結果、作業員たちは見なかったことにした。
幸い、人形がいる場所は直接作業に関わらない端の方だったし、敷地境界にも問題がなかったので後の作業にも影響はない。そこにあるものは気にしない。
暗黙の了解で、人形は放置された。
風が吹いても雨が降っても、人形は変わらずにそこで半分埋まっていたのだった。
§
夜間、恒一はよく川沿いのランニングコースを走っている。
元々体を動かすのが好きなのだ。
その日も小一時間ほど走って帰るところだった。
川沿いから工場兼自宅に向かう角を曲がったところで、ふと誰かが呻いているような声が聞こえてきた。
『うう……う……ヒック……』
男の声だ。泣き声のようにも聞こえる。
川沿いから戻る道は路地のように細い道だが、そこからさらに脇に入る狭い道があり、声はそこから聞こえてくる。
誰かが具合でも悪くしているのかと思い、恒一は脇道を覗き込んだ。
『……うう、うぇえん、ひっく、……』
狭く街灯もない道だが、それでも人は見当たらなかった。そこにあるものを認識する前に、ぶわっと汗が吹き出した。運動の後のものではない、嫌な汗だった。
赤い服を着た人形が、蹲るように顔を覆っていた。
泣き声は、たぶん、そこから聞こえてきている。
思わず一歩後ずさる。
その音に気が付いたのか、人形はパッと顔を上げた。
薄暗い中で見えたのは、首が不自然に斜めについている、ふわふわとした髪の毛をもち赤いドレスを着た、小さな女の子を模した人形だった。
俺は何も見ていない。
恒一の頭の中はそれだけだった。危機感を覚えた体が踵を返す。
『あっ! 待ってくれ!』
見た目によらず野太い声が背後から聞こえてきたが、無視して走り出した。
俺は何も聞こえてない。
『聞こえてんだろ! 待ちやがれぇ!』
威勢のいい声が追いかけてきて、恒一は必死に逃げた。
逃げたのだが。
『待ちやがれええぇぇぇ…………!』
そのまま人形が恒一を追い抜いていった。
恒一は運動神経はかなりいい方だ。中学卒業まで、体育祭では毎年のリレーのアンカーだったし、陸上部とまともに勝負できる程度には速かった。
今ではそこまで鍛えてはいないが、こうして走ったり軽くトレーニングしたりは続けている。一般的に見れば、今でも充分速い方だろう。
背後から追いかけてきていたはずの人形は、そんな恒一をあっさり置き去りにしてしまったのだ。
「はぁ?」
思わず足を止めて走り去って行く人形を見送った……と思ったら、戻ってきた!
『行き過ぎちまったじゃねぇかああああ!』
「知らねーよ!」
反射的に答えてしまった恒一は悪くない。
再び回れ右をして走り出す。
追いかけてきては追い抜かす人形。
謎に繰り広げられるデッドヒート(違う)。
自分が何をやっているのかよくわからなくなりながらも、恒一は逃げたり追い抜かされたりしながら、精神的には這々の体でものすごく遠回りして自宅に飛び込んだのだった。
必死で鍵を開けて玄関に飛び込み、ドアをバタンと閉めて鍵をかける。
その場でへたり込んだとき、ペシン!と何かがドアにぶつかる音がした。ゴムボールでも投げつけられたような音だった。
てしてし、てしてし。
ノックというには柔らかめの小さな音がドアから聞こえてくる。
てしてしてしてしてしてし。
「いい加減にしてくれ!」
思わず叫んだ恒一に、リビングから湊が顔を出した。
てしてしてしてしてしてし……
「何やってんの?」
その間にもドアから音は続いている。
てしてしてしてしてしてしてしてしてしてしてしてし
「"うるさい!"」
湊の一声で、音はピタリと止んだ。
「みなとぉ……マジで助かった……」
へたり込んだ恒一が深い息を吐く。さすが湊。まとわりついていた謎人形は一瞬にして消えたようだ。
「またなんか拾ったの?」
「拾ってねえ……勝手についてきた……」
ふらふらと立ち上がって、恒一は異様に喉が渇いていることに気がついた。ランニングの後全力疾走を繰り返したのだから当たり前だ。
ひとまず冷蔵庫から出した麦茶で喉を潤した時、湊がとんでもないことを言った。
「逃げられちゃったからまた来るね」
「……ぐっ……ゲホッ……」
咽せた。なんてタイミングでなんてことを言うんだ、と恒一は湊を睨む。消えたと思っていた安堵は勘違いだったようだ。
「ずいぶんと目をつけられてるみたいだけど、何やったの?」
「本当に何もしてない。目があっただけ」
「存在に気づいたってとこで縁づいたのかな」
「マジか……」
マジか。迂闊に路地も除けない世の中なのか。
はあ、とため息を吐いて、恒一は首を振った。
考えても仕方がない。今はとりあえず汗を流そう。風呂場に向かった恒一は、風呂の窓(磨りガラス)に張り付いている人形を見て悲鳴を上げることになったのだった。
「恒一、今夜は寝かせてもらえないかもね」
「意味深なセリフで怖いこと言うのやめてくれ、頼むから」
湊の予想通り、その夜は窓を叩く音と啜り泣く声に悩まされる。その度に湊が追い払う。逃げる人形。ホッとするのも束の間、また戻ってきて騒ぎ出す。
『話を聞いてくれよぉ〜』
朝になってようやく消えたかと思ったら、夜にはまた戻って来た。
それが三日も続くと、さすがに恒一も限界になっていた。
「一度話を聞くしかない」
「別にいいけど、話を聞くと言って油断したところで浄化もできるよ」
なかなか魅力的な提案をしてくる湊に、目の下にクマを作りながらも、恒一は首を横に振った。
「なんか頼みたいことがあるんだろうし、聞いてから考えるよ」
湊は一つため息を吐いた。この期に及んでお人好しだな、恒一は。
§
湊が誰かを迎えるために玄関のドアを開けたのは、ここに住み始めてから初めてのことだった。感慨は、ない。
『よう! ごめん……うわ、何しやがるんでぃ!』
トコトコと入って来た人形をむんずと捕まえると、湊はそのままカバンにに放り込む。昨日恒一が100均で買って来た、片面が透明な手提げ鞄、通称痛バ(黒)である。
『なんだよ外が見え……いや、こっちは見えるな、何でぇ? これは』
「おとなしくしてないと消すよ」
興味津々に紙袋の中でゴソゴソしている人形に、湊は平然と脅しをかけた。
「あんちゃん怖いこと言うねえ」
脅されているのにカラカラと元気に笑う人形。恒一はリビングのソファの後ろから、ビクビクとその様子を窺っていた。
「とりあえずそっち側だけ開けてるから。完全に抑え込むと話もできないよね」
なんとも器用なことに、湊は痛バの透明な一面以外を一種の結界ので覆っている。その面を恒一に向けないようにリビングのテーブルに置くと、湊はソファに座り、恒一にも座るように促した。
「で、何なの君。毎晩騒がれて迷惑なんだけど」
『おぅおぅ、そこの若ぇの! よくぞ聞いてくれた! 化けて出たからって驚くんじゃねぇや。江戸の昔、ここいらの塩浜で砂を掻いてた浜子の作蔵とはおいらのことよ。てやんでぇ、おいらたちが作った真っ白な『古積塩』はな、公方様だって毎日口にしてたんだぜ? 江戸のやつらが『赤穂の塩は上等だ』なんてぬかしやがるが、にがりを抜いたうちの塩の旨味を知らねぇからそんなことが言えるんだ。どうぞよろしくな!』
紙袋の中でおそらく胸を張ってそうな勢いで捲し立てる人形。その内容に、恒一は首を傾げた。
「……江戸の昔?」
『おうよ! 今は違ぇってのは知ってるぜ! 天下の主、公方様もとっくに変わっておいでだろ!?』
「公方様ってなぁ……」
徳川だろうと足利だろうと将軍自体がいないのだが。
それにしても、赤いドレスを着てふわふわの茶色い髪をもった、俗にソフビと言われるプラスチック製人形、しかも横に倒すと目が閉じるスリープアイ。江戸時代にあったとは思えない。
「なんで人形になってんだ?」
『知らねえ! 仲間が投げつけて来た!』
「意味がわからない……」
「それより、何が目的で付き纏ってるのさ」
恒一のどうでもいい疑問を無視して、湊が言う。確かにそれを聞くための場だった。
『そうでぃ! 頼みがあんだった!』
「さっさと言いなよ」
湊はずっと塩対応である。浜子が相手だからと言うわけではないが。人形はそんな湊を気にする様子もない。
『おぅよ! おいらを埋めて欲しいんでぃ!』
「は?」
「埋める?」
想像もしなかった頼み事に、二人は唖然とした。
人形、作蔵の話によると。
元々江戸の頃からぼんやりとそこにいるだけだったらしい。特に意識することもなく町の変遷を見続けただけで、湊からすると霊と定義できるギリギリのままそこにあるだけのものだったようだ。
しかしある日、唐突にこの人形が投げつけられて覚醒した。気づいたら人形と一体化していたらしい。
『なんかその後、振り回されて投げられてよぉ! すんげー面白えでやんの!』
「お、おう……」
ジェットコースターを喜ぶ気持ちに似ているのだろうか。大喜びで振り回されていたので、振り回していた人物を「仲間」と認識している。
『そんでよぉ。その仲間が来るまでおいら埋まってなくちゃいけねぇのに、うっかり掘り起こされちまったんだよ』
恒一が通りかかった場所は、ちょうど古い家が解体され、更地になっているところだった。恒一に会う日の午前中までは、そこで自分でなんとか掘った浅い穴にはまっていたらしい。しかし突然、その土地が何か「自分と合わない」状態になって、弾き出されてしまった。なんとか戻ろうとしても入れない。人に頼もうにも、誰にも自分の声は聞こえてない。
『家ぶっ壊してる奴らもよぅ、気づいてくんねぇんだ。仕方ねえから寝てたんだけどな! 人形がいきなり動いたってぇ、化物細工か品玉かってなもんだろちくしょうめ!』
言ってることはよくわからないが、気遣いの出来る霊らしい。
「なんで埋まらなければならないんだ?」
『それが約束だからよ!』
なぜかそこにこだわる作蔵霊。首を傾げる恒一に湊が説明をする。
「人形を振り回していたってことは多分子供だよね。子供のうちだけ霊力高いことが割とあるから、何か干渉したんだと思うよ」
それで、なんの偶然か、江戸時代の浜子霊が可愛らしいスリープアイ人形に乗り移ってしまった。首の様子を見るに、壊れたから捨てたのか、怒られると思って隠蔽したんだろう。
「それで、埋める時に何か約束したよね。『あとで取りに来る』とかそういう」
『もちろん! 『後で来るから隠れてて』だとよ!』
「なんで律儀に守ってるんだ?」
『そういうもんだろ!』
「多分一種の呪いだね。封印に近い」
とはいえあっさり掘り起こされるほどの弱い封印だ。それでも、なんとなくそうしなくてはならないという思いが残り、落ち着かないらしい。絶対にやらなければならないことがあるのに別のことにかまけているような落ち着かなさ、程度のようだが。
自ら少しだけ埋まっていたのだが、しかし。あの日、地鎮祭が執り行われ、敷地に入れなくなってしまった。
「そこまで厳密な儀式じゃないから、数週間で入れるとは思うけど」
『数週間ってなんでぃ?』
「半月か、もう少し長い」
『今すぐじゃ、駄目なのかよぉ……』
湊の言葉に人形はガックリと肩を落とした。
もしかして数週間、この人形と同居しなければならないのか?
恒一もガックリと肩を落としたのだった。
§
作蔵の滞在場所は少々揉めた末に物置に放り込んでおくことになった。本人……本霊は恒一か湊と一緒が良さげではあったのだが、恒一は絶対に無理だし、湊は霊は平気だが作蔵がうるさいので嫌だと突っぱねた。ごねる作蔵を「消すよ?」の一言で黙らせて物置に放り込んだのだった。
湊はそれで平然としているが、残念ながら恒一は落ち着かない。訳のわからない存在と同居も嫌だし、埋まりたいという変わった願望を持っているなら叶えてやりたいと思う。
次の休みの日、恒一は痛バごとひとまわり大きな紙袋に入れて、人形を持ち出した。湊が居れば平気だが、一人で訳のわからない霊と居るのは正直言って嫌だ。紙袋の向きを間違えなければそれほど恐怖は感じないという微妙な状況である。それでも早く解決したかった。
『おお、お出かけか!?』
そんな状態でも無邪気に喜ぶ作蔵霊。なんとも愉快な性格なのは話をしていて一応理解はした。
解決策があるわけではないが、ひとまず現場へと足を向ける。大した距離でもない。すぐに到着した。
すでに地鎮祭の後片付けも終わっていて、何もない敷地となっていた。敷地面積がそこまで大きいわけではないので、このあと何か建つとしても住宅だろうなと眺めていると、通りの方から何人かの人がやってくる。人通りの少ない場所ではあるが、散歩やランニングなどで川沿いに抜ける人がそれなりにいるので、恒一は気にせずそこにとどまっていた。
「あの……こちらに何かご用でしょうか」
声を掛けてきたのは四十代半ばとみられるスーツの男だった。彼の後ろには六十歳前後の夫婦と思わしき二人が続いていて、怪訝な顔して恒一を見ている。この土地の関係者なら、無関係でしかも目つきの悪い男が意味もなくここに立ち止まっているのは怪しく思うだろう。
「あ、その……すみません。ここ、よく通るんですが、その、つい最近なのにどんな家があったかも思い出せないなと考えてました」
本人に自覚はないが、恒一は話し出すとその顔つきからの第一印象が大きく変わる。スーツの男も初老の仮定夫婦も、警戒を緩めたようだった。
「ここ、以前の家を建て替えることにしてね。母が一人で住んでいたんだけど、一年ほど前に亡くなって……」
夫と思われる男が話し出した。結婚して都内のマンションに住んでいたが、ここを建て直して終の住処とすることにしたそうだ。
スーツの男はハウスメーカーの者と名乗った。
袋の中がモゾモゾと動いた。
「これからご近所に工事のご挨拶に回るところだったんだよ。もし近所なら騒音や出入りの車両で迷惑をかけるかもしれないが、よろしく頼む」
「あ、いえ、こちらこそ……」
頭を下げる三人に返事をしかけて、恒一は頭の中にふと閃いた。母が住んでいた、人形を振り回したり投げたりした「仲間」……。
「……人形を、埋めた……?」
「え?」
「え、あ、すみません!」
いきなり訳のわからないことを言い出した自覚はある。焦って適当な言葉を言い募った。
「その、ここをよく通るんですが、おばあちゃんに話しかけられたの思い出しまして! なんか、息子さんが庭におもちゃを埋めたとかそんな話でして……」
この辺りではないが、工場や寺の近所では、通りすがるとおじいちゃんやおばあちゃんに話しかけられるのは日常茶飯事である。人によってはなぜか昔の思い出とか、恒一にはわからない昔の仕事の話などをされることもよくある。
なので、恒一にとって、そんなことが実際にあったとしてもおかしくはない。
建主らしい男はしばらく思い出せないような顔をしていたが、数秒で思い出したようだ。
「ああ、幼い頃にあったかな。姉の人形を壊してしまって、こっそり庭に捨てたような気がする。たぶん、怒られるのが怖かったんだろうね。……母が気づいていたってことはそのあと怒られたのかもしれないが、記憶にないんだよねぇ」
幼稚園くらいだからね、子供の浅知恵だな、姉には今思うと悪いことをした、と頭をかく男性はしかし、人形にはなんの思い入れもないようだった。
「母が迷惑をお掛けしたようで申し訳ない」
「あ、いえ、とんでもないです」
ここで話しかけられた記憶はないし、本当にあったとしても恒一にとっては大したことでもない。
その後、当たり障りのない挨拶をして、恒一はその場を離れた。紙袋の中はすっかり大人しかったが、話しかけることは控えた。人通りがないとはいえ、ここは公道。誰かに聞き咎められたら今度こそ怪しい人になってしまう。
たぶん先ほどの男性が作蔵の言うところの「仲間」なのではないか。だが、彼は人形のことなど気に留めていないどころか、ほとんど覚えてすらいないようだった。
傷ついていないかな、と気にしながらも、恒一は紙袋をぶら下げて家に帰ることにした。
§
気にしていたのだが。家に帰り着いた途端、ごそごそと暴れ出した。外で大人しくしてるという常識は持ち合わせているらしい。
『出してくれぃ! 仲間に会えたんでぃ!』
「あれで会えたって言えるのか……」
直接見るのは怖いので、ひとまず湊の部屋を訪れる。
ベッドに寝転がって何かを読んでいた湊はだるそうに身を起こすと、カバンの中で暴れている人形を呆れた目で見やった。
『おう、あんちゃん! 出られねえから出してくれぃ!』
「まだダメだよ。何があった?」
『聞いてくれよ! おいら、仲間に会えた!』
あれで会えたことになるのかと思いつつ、恒一は先ほどのやり取りを説明した。湊は少し考え込んでいる。
『もう埋まる必要はねえ! おいら旅に出るぜ!』
「なんで必要ないんだよ!?」
律儀に約束を守っていたのに態度急変。いまだにカバンの中でジタバタしている作蔵に声をかけるが、返事はよくわからないルールだった。
『仲間に会うまでは埋まってなきゃなんねえ! 会えたから埋まらなくていい! 嬉しいねぇ!』
湊は思案しながら作蔵を眺めていたが、やがてポツリと呟いた。
「仲間が鍵で、会ったから封印が解けたってとこかな」
「あれで会えたって言えるのか」
「対面することより認識することが重要みたいだね」
「設定ガバガバかよ……」
そんな話をしている最中も作蔵は元気だった。
『おいら伊勢講の代参だったんだよ! お伊勢に呼ばれたってぇのに、旅立つ前に中風でポックリ逝っちまってなぁ……。だからよ! せっかく動けるようになったんだから、ちぃっとひとっ走り行ってくるぜ!』
「いやひとっ走りって距離じゃないから」
それ以前に、江戸時代とは道が変わり過ぎている。作蔵が砂をかいていた塩田は、今は海から離れた住宅地だろう。東海道だって国道に名前を変え、昔とは違う道筋だ。
スマホを見ていた湊は、カバンから人形をつかみだすと、窓を開けてポイっと放った。
「青い逆三角の板に1……縦棒が一本みたいな記号が書いてある道を西に向かえば、そのうち日永の追分に着くから。あとは適当に頑張って」
『縦の棒一本、合点承知! あんちゃんら、色々あんがとよ! じゃあな!』
恒一が湊の肩にしがみ付きつつ恐る恐る外を覗くと、元気な人形はそう言って短い手を振っていた。すぐにすごい勢いで近所の植え込みに飛び込む。人目につかないことを意識しているのは相変わらずだ。ドレスがボロボロになりそうで心配だ。
いや、それよりも……。
「首、直してやればよかったな……」
おそらく外れた首を無理やり嵌め込もうとしたのだろう、斜めに強引に捩じ込まれて傾いた首は、そのままだった。じっくり見なくても不気味なまま、作蔵入り人形は旅立ってしまった。
「本人気にしてないから大丈夫でしょ。あれだけ元気に動いていれば、いくら強い霊でも半年はもたないだろうし」
「そうなのか……伊勢につけるといいな」
「神宮周りなんて大昔からの神域だから、確実に入れないと思うけどね」
「……」
地鎮祭でも追い払われた霊である。伊勢神宮みたいな神社の元締めみたいなところに入れるとは思わない。
「まあ、あの作蔵さんなら、道中楽しめればいいんじゃないのか?」
江戸時代から様変わりした道中を、心から楽しみそうではあった。
何はともあれ、これで熟睡できる。
そう安堵した恒一だったが、ネットで「怪異? 怨霊? 謎の爆走人形目撃情報」などと騒がれているのを見て遠い目になったのはまた別の話である。
・浜子:塩田労働者の中では下っ端。瀬戸内の言い方だけど江戸湾でなんて言うか調べきれなかった。
・古積塩:読み方違うかも。生産された塩を雨を避けて一年以上貯蔵した塩。瀬戸の生産量に押された江戸の塩業で行われていたが、苦汁や水分が除去されているため味が良く、輸送中の目減りも少ないため人気はあった。
・公方様:将軍様。説明要らんと思うけど念のため。
・地鎮祭:家を建てる前に土地神様に祈る儀式。説明要らんと思うけど念のため。
・化物細工:江戸から明治にかけて流行した、妖怪や幽霊、変死体などを模して作られた人形などのこと。お化け屋敷のルーツのようなもの。
・品玉:複数の玉や小刀などを空中に投げては受け止める曲芸。転じて手品のこととなる。
ここでは、手品の意味と、箱のふたを閉めて開けると箱の中身が別のものになっている手品を行うからくり人形、「品玉人形」のことを掛けている。
・伊勢講:講とは江戸時代に各地で行われた互助会。伊勢や富士などは信仰のための講で、講のメンバーがお金を出し合って積み立て、代表者がそのお金で実際に伊勢などにお参りに行った。
・代参:講の代表でお参りに行ける人。講にもよるが、多くはくじ引きで決められた。
・中風:江戸時代では原因がわからない突然死。脳卒中など複数の原因が考えられ、特定の病気ではない。作蔵の場合は代参決まってお祝いでしこたま酒を飲み、その後体を冷やすために井戸の水でも被ったのかもしれない。知らんけど。
・日永の追分:東海道と伊勢街道の分岐点。現在は三重県四日市市追分にある。「追分」は街道の分岐点のこと。伊勢神宮から下賜された鳥居があり、江戸時代から遥拝所(遠く離れた場所から神仏などをはるかに拝むために設けられた場所)となっていた。




