9. 止まれ(中編)
恒一や湊の住む町は河口の州から発展した埋立地で、驚くほど坂道がない。体力のある恒一でも、慣れない山道は歩きづらさがある。ここを、二十キロくらいはある発電機を担いで登った篠橋はすごい、と恒一はあらためて感心した。
篠橋は昔から何かに必死になるタイプではなく、どちらかというと要領の良い面倒くさがり。それなのに目の前の課題には真面目に取り組む。そういうところは変わっていないのだろう。
とは言え、地蔵はそこまで距離があるわけでもない。
湊に合わせてゆっくりと歩いても、二十分も掛からずに到着した。
「湊、大丈夫か?」
「……うん」
恒一が山に不慣れなら、湊は歩くこと自体不慣れに近い。
体力不足を心配して、恒一が中古のランニングマシンを購入したのだが、使っているかどうかは不明である。
たまに人に遭遇した時の逃げ足を考えると多分使っている。
ともかく、二十分の山歩きでは極端に消耗している様子はなかった。ここまで人に合わなかったことの方が理由としては大きいのかもしれないが。
「それで……」
山道が少し開けて小さな広場のようになっているそこに、確かに標識が立っている。脇には小さな地蔵が穏やかに笑っている。集落の人が手入れしているのだろうか、そんなに汚れてもいない赤い前掛けをつけている。
標識をチラリと見ただけで気持ち悪さに襲われ、恒一は慌てて目を逸らした。湊は特に気にすることもなく標識の側まで近づくと、軽く拳で叩いた。コンコン、と金属的な音がする。
「こういうのは初めて見るなぁ」
興味深そうにも思える言葉とは裏腹に、湊の声は平坦でどうでも良さそうだ。
「すずきおさむ、一年三組七番……? なにこれ」
「え、鈴木修?」
その言葉に目をやると、湊は標識の裏側を見ていた。自分も確認したいと、気持ち悪さと恐怖心を我慢して恐る恐る近づく。視界に入るポールには、篠橋が言っていた通り、確かに切断痕など見当たらなかった。どう見ても新品に近い、一本の棒だ。誰かが切断して溶接したとは考えられない。
そこで不快感が増して一度目を瞑った。
標識が目に入らないように地面を向き、足を進める。
「……大丈夫?」
先ほど湊にかけた言葉と同じものが、今度は恒一に向けられた。
「……ああ」
口から漏れた返事はあまり大丈夫には聞こえそうにない。
それでもなんとか近づいて、意を決して湊が見ていた標識の裏を見た。
道路標識の裏には、本来なら警察署などの管轄やメーカーなどが書かれたシールが貼られている。
確かにそこにシールは貼られていた。
しかし、管轄のシールではなく、なぜか学校の文具にでも使われていそうなネームシールだ。
『すずき おさむ
一年三組七番』
「すずき、おさむ……」
いいな、これ。
恒一は標識のポールを握りしめた。金属の冷たさも気に留めず、力一杯握る。なかなか折れない、しぶとい。
「恒一!」
湊の声が耳に届き、次に視界が塞がれた。
「恒一、しっかりしろ!」
あれ? 俺、何しようとしたんだっけ?
湊の声で我に返った恒一は、塞がれた視界に戸惑った。
「そのまま目、瞑ってて」
言われるままに目を閉じると、ぐいっと腕が引っ張られる。それに身を任せて体を反転させると、湊のはぁっと大きく吐いた息の音が聞こえた。
「もう目を開けていいけど、振り返るなよ」
「あ、ああ。……なあ、俺」
「いいから、さっさと消すから」
「いや、ちょっと待ってくれ」
開けた目の前にいた湊は、少し怒っているような、悲しげにも見える顔をしている。
「これ、消さなくてもよくないか?」
「ダメ。干渉するなら消さないと」
「でも、もしかしたら、これが止めてるのは動物かもしれない」
集落の人たちの会話を思い出す。
止まれの地蔵、止まれの標識、獣害がない集落。
恒一でなくても何か関係があると思うだろう。
「一旦持ち帰るでもいい。少し考える時間が欲しい」
「……」
湊の表情は険しいままだ。
それでも、渋々と、湊は頷いた。
「でも、恒一はもうコレを見るのはダメ」
「ああ、わかった」
恒一も、自分でも何か変だとは思っている。
それが何かはわからないが、湊がそう言うのなら従った方がいいに決まっている。
そのまま山を降り、湊だけ車に戻り、恒一はまだ農作業中の人たちに畦道から挨拶をすると、ひとまず集落から引き上げることにした。
恒一にもどうすればいいのかわからないまま、謎の標識はネットで話題を広げて行った。
篠橋から、標識がもう一本生えたと聞かされたのは、現地を訪れてから三日後のことだった。
§
寶積コンサルティングのオフィスで、恒一はことのあらましを蓮に話していた。
その上で、自分の推測も話す。
「なるほど。恒一は、もともとその地蔵が獣害を防ぐ役割を担っていたと考えたんだね」
あらためて蓮の口から聞くと、荒唐無稽にしか聞こえない。
しかし、標識の正体を知った上で、現地で話をまとめてみれば誰でも辿り着ける推論である。
「もともと、その鈴木修さんは霊力が強かったんじゃねえかな。それで、子供の頃地蔵が何かしてるのに気づいてて、もしかしたら近年弱くなってたとか。それで手伝いというか代わりというか、そういうのになってるんじゃねえかと思ったんだけど……」
言っているうちに自信は無くなってくる。
一本目はこれで理屈が通っていた。しかし二本目は話が違う。
それは、集落の入り口に立てられた。篠橋に確認したところ、それが立ってからなぜか集落に入れなくなったらしい。
なお、道は一本ではないので別の道からは入れる。
だが、一度他県に出て戻る必要があるために不便だ。
篠橋のような行政関係者、ゴミ回収、JAの関係者、郵便や宅配便。全て遠回りでしか入ることができなくなった。
集落の人の出入りは不問らしい。
そして、出ることはできるらしい。
入り鉄砲に出女のような扱いである(ちょっと違う)。
こうなってくると、もう放置では済まされない。
篠橋もすでに遠回りして集落に入り、一度切断したそうだ。
しかし予想通り翌日には生えていた。そして保管していた切断上部はやはり消えた。篠橋はもう慣れていた。今ならどんな標識でも時間かけずに切断できると豪語していた。
メンタルが強いというより考えることを放棄しているようだ。開き直りともいう。
「確かに調査は必要だろうね」
「俺からの依頼ってことにしてくれ」
「それはできないな。恒一は権利者でも受益者でもない」
「そうだけど……」
確かに恒一が依頼するのは変な話ではある。けど無関係なものが依頼して悪いというわけでもないはずだ。
「請求は然るべきところにするから心配するな。どうにでもなる」
何をどうしたらどうにでもなるのかさっぱりわからないが、恒一はそこで依頼は取り下げることにした。
口で蓮に敵うわけはないことなどわかっている。
「地蔵には確かにうっすら何か縁が残ってた」
それまで黙っていた湊が突然口を挟む。
「え、それは……」
「恒一の考えはあってる。で、そろそろ限界」
「なるほど。では、二本目を湊はどう考える?」
「知らない」
少し不貞腐れたように言う湊。場当たり的に生きている湊に見てもいないものの推測は難易度が高い。
「けど、あとは蓮さんで何とかして」
「湊、そんな言い方しなくてもいいだろ」
「恒一は行くな」
湊には集落のことはどうでもいい。蓮が何とかすると言うのなら本当に何とかなる。
大事なのは、恒一をアレに近づけないことだ。
「……何かあったな?」
「あった」
「存在目的はともかく、これは悪霊だな」
少し唐突に思える蓮の確認に、湊は頷いた。
「なら、恒一は近づくな」
「いや、俺も行く」
「ダメだ、自分でもおかしいと思わなかったのか?」
「思った。だからそっちは任せる」
蓮は一つため息をついた。
恒一は昔から聞き分けが良いほうだ。だが、譲らないとなるととことん譲らない。数少ない頑固さがここで出るとは思わなかった。
「なぜ、そこまでこだわる?」
そう言われて、恒一は言葉に詰まった。
篠橋に頼まれたから、現地の人たちによくしてもらったから。
聞かれれば、理由はそこだ。
そして、それは単に恒一の感情の問題であって、この件に恒一がかならず同行しなければならない理由ではない。
「……俺が、行きたいだけだ……」
力なく項垂れた恒一に、蓮は言った。
「この件は必ず解決する。恒一にとっては危険な場所だ。自分の感情だけで動いてはいけない」
蓮の言葉に湊も頷く。
「……わかった。あとは頼む」
恒一の言葉に安堵の息をついた蓮はしかし、結局恒一を連れて行くことになった。
現地の人たちが強く希望したのだ。
状況の悪化に現地もピリピリしている、と担当になった篠橋に言われ、蓮は仕方なく、恒一を連れて行くことにした。
湊にクソ社長と言われるのはいつものことだった。
「勝手な行動はするな」
「わかってる」
「湊から離れるな」
「保護者か」
保護者である。引きこもりで人と話せない保護者だが。
§
どうして恒一を連れて行くのか。
湊はそれが心底不満だった。
クソ社長。役に立たない。
実際なところ、蓮は話を聞いた翌日には、例の集落を地盤とする市議を探し出して話をつけ、その二日後には市役所との正式契約を結んでいる。
恒一の金銭的負担は最初から強いるつもりはなかったが、正式に契約を結ぶことで心的負担もなくしている。
役立たずと言われる筋合いはないはずだが、湊の判断基準はあくまでも恒一だ。
蓮の判断基準は、湊からすると一貫していないように見える。当たり前だ。通常の社会人なら状況によって対応を変える。蓮も今回は、入り口の標識をさっさと湊に処理をさせ、山に入れなければ安全と判断した。
そして、現地での活動に支障をきたす可能性があるのならば、恒一がいた方が速く済み、結果として恒一が危険に晒される期間も短くなると判断したまでだ。
長引けば、恒一が篠橋と友人である以上、今度は蓮も湊も連れずに訪れる可能性すらある。
そんな思惑など、湊は知ったこっちゃない。
「恒一、目を閉じろ」
集落の少し手前で蓮は命じた。まだ標識は見えないが、カーブの先にあるのはわかる。蓮もわかっているのだろう。
これがあるから、今日の運転は蓮だった。
恒一は直接見ることをしなければおそらく大丈夫なはずだが、湊は落ち着かない。
カーブの先に標識が見えたあたりで、恒一が不安げな声を上げた。
「なあ、帰ろう」
「恒一、大丈夫だから」
こちらの反応自体は予測していたので、湊も落ち着いて対応する。
「でも、ここは入っちゃダメだろ、帰らないと」
「大丈夫だから、少し我慢してて」
湊にももちろん干渉して来てきているが、大したことはない。蓮も問題はないようだ。この程度なのは本体じゃないからか。山の中の方は、こちらに干渉してきてないが、存在自体が大きかったように思う。
車が偽物の道路標識の横に止まり、湊は窓を開けた。
車内よりも冷えた空気が入り込む。
「"ここにいたって、集落の人に迷惑なだけだ。帰りなよ"」
音楽も使わず、雑に霊力を乗せた言葉を投げただけで、篠橋始め多くの人を悩ませていた道路標識は音もなく消えた。
「……あれ?」
恒一が困惑した声を上げる。
「もう目を開けていい」
「……なんだ? 今の。急に引き返さないとって……」
戸惑いながら呟く恒一に、蓮が説明した。
「おそらく、山の方と同じ作用が、こちらでは人に向いている」
恒一は、まだ自分に身に起こったことがよくわからないと首を傾げている。
「追い返す対象が動物か人かの違いだ」
「なんでまたそんなことに」
「それは恒一が聞いておいてほしい」
以前恒一が訪れた後、確実に何かがあったはずだ。
適任だ、と蓮は笑った。湊もそう思う。
でも、恒一を連れてくるのは今でも納得できない。




