9. 止まれ(後編)
集落に着くと、何人かの人が立ち話をしていた。
それがどういう属性の人なのかは湊にはわからない。
多分、農家だと思われる麦わら帽子を被った人たち。作業着の人もいるが、農作業のためか、別の仕事なのかはわからなかった。
以前恒一が車を停めていた倉庫の隣に車をつけて、蓮と恒一は車を降りた。
「ちょっと行ってくる」
湊が車を降りないことを当然として、恒一が声をかけてくる。いつもならそれでも平気なのに今日は落ち着かない。
車から離れて行く二人を窓越しに見て、湊は知らず息を吐いた。
作業着姿の男が恒一に気づいて声をかける。
恒一は後ろ姿なので表情は見えないが、蓮を紹介しているようだった。
それまで声が聞こえなかったが、突然その場にいた人全員の表情が明るくなり、わずかにどよめくような声が届く。
拍手している人までいた。
作業着の男は恒一の肩を叩いて笑っている。
こういう時、湊は何が起こっているのかまったく察することができない。自分があっさり消した入り口の「止まれ」の標識のことを喜ばれているなんて想像もできないのだ。
しばらくすると蓮と作業着の男だけが輪から離れた。蓮が顔だけこちらを向ける。
見えるかどうかはわからないが、湊は頷いた。
他のことはわからなくても、恒一を気にかけておけ、ということだけは伝わった。
§
篠橋は、恒一の親戚だと紹介された蓮と二人で山道を登っていく。恒一も行くものだと思っていたので驚いたが、少し集落の人に聞き込みをして欲しいとのことだった。
仕事柄、見知らぬ人との行動は慣れているので特に問題はない。久しぶりに直接会う友人ともう少し話せればという気持ちはあるが、仕事なので無理は言うまい。
今回は発電機がないだけ楽な登山だ。あれはもうやりたくない。登山家はもっと重いものを背負って登るらしいが、自分には無理だと篠橋は誰も見ていない白旗を上げた。
蓮という男の服装は、チャコールグレーのウインドブレーカーに黒いデニムのストレッチパンツ。黒がちなのはあまり良くないので、そこまで山慣れはしていないのかもしれない。
この辺でスズメバチの報告は受けてないから大丈夫だとは思うが、油断はできない。
「あの、一応記録用に撮影してもいいですか」
篠橋が事前に許可を得ようと話しかけると、蓮は気にする様子もなく頷いた。
「構いませんが、おそらく何も映らないと思います」
「そうなんですか?」
「少なくとも、一時停止の道路標識は全ての媒体から消えるでしょうね」
「えっ」
どういうことか聞こうとも思ったが、そもそも今起こってる現象が何かもわからない。
理解するのも面倒そうだと、篠橋は聞くのをやめた。
現地に着くと、蓮はウインドブレーカーのポケットから紙のようなものを取り出すと、雑にベシッと標識の表示板に貼り付けた。
篠橋が見たところ、お札だ。
「あの、これなんですか?」
「護符です。標識の機能を一時的に停止させました」
そんな、機械じゃないんだから、というツッコミは飲み込んだ。
「……剥がしちゃまずいやつですか?」
「剥がれませんよ」
やっぱり理解できそうにない。
篠橋は、何やら漢字と謎の文字が書いてある護符とやらを見て、首を横に振った。
とりあえず、俺の仕事は撮影だけ。
理解することは早々に投げた。篠橋は効率主義なのである。
蓮は脇に立つ地蔵の方へ屈み込んだ。
地蔵は、お世辞にも上手い彫り物には見えなかった。
名のある仏師が手掛けたようなものではなく、下半身をやや楕円に整えただけの、雪だるまに近い形。苔むして輪郭が崩れているのを差し引いても、造形として優れているとは言い難い。
それでも、目尻の下がった表情はどこか穏やかに微笑んでいるように見えたし、きちんと胸の前で合わせられた手には、素朴で親しみを覚える優しさがある。
蓮はしばらく黙って地蔵を調べていたが、やがてぽつりと呟いた。
「これかな」
「何がです?」
「見てもらっても」
どうぞ、と場所を譲る蓮。篠橋が覗き込むと、地蔵の後ろ側、下の方に、何か文字を刻んだ跡があった。
元々そこまで達筆というわけでもなかったのだろう、風化も重なって判読は難しい。
「○○安○
村○○○
○○◼︎願」
最後の願の前の文字は、篠橋には示偏までしか読み取れなかった。
「祈願、じゃないでしょうか」
蓮がさらりと言う。
「それで、その、どうするんですか」
篠橋がおずおずと尋ねると、蓮は逆に問い返した。
「恒一の推測は、聞いていますか」
「あー……はい、一応」
「では、話は早いです。獣害対策を、地蔵に戻します」
「は?」
あっさりと言われて、篠橋はまだ何かを理解しようとしていたことに気がついた。人間なんてそんなもの。投げやりになりつつ、目の前で起きることを、ただ眺めるしかない。
もっとも、蓮自身はそう多くを動いたわけでもなかった。
そっと地蔵に手を当て、しばらく動かない。
何か唱えるでもなく、ただ静かに手を置いているだけ。篠橋の目には、単に置物に触れているようにしか見えなかった。
それが、次の瞬間、唐突に終わる。
蓮がすぐ横の標識に、無造作に手を伸ばしたのだ。
「えっ!?」
篠橋が思わず声を上げる。
自分が過去に何度もセーバーソーで切断した、硬い金属のはずのポールが、ぐにゃりと曲がった。
見る間に、まるで液体に溶けるように空中で赤黒く渦を巻き始め、原型を失っていく。
まるでエフェクトでも見ているような光景に篠橋が呆然としていると、蓮はその渦——元は標識だった何か——を、地蔵の上へと引き寄せた。
そこから、まるで水が溢れるように、何かが地蔵に向かって流れ込んでいく。
地蔵が濡れるわけでもない。ただ、地蔵の上にだけ、現実にCGでも重ねられたかのような、妙な違和感だけがある。
しばらくそれが続き、渦の赤黒い色がだんだん薄れていく。
と思ったら、今度は人が現れた。
七十歳くらいだろうか、日に焼けた小柄な老人だった。
もう何が来ても驚かない。
異常現象の連続に心が麻痺した篠橋は、かろうじてそれだけを思った。
老人はゆっくりと一礼すると、そのまま輪郭が薄れるようにフェードアウトして消えていった。
後には、先ほど標識に貼られていたはずのお札が一枚、地面に落ちているだけだった。
麻痺した心の内側で、剥がれてんじゃん、とだけ思った。
蓮はそれを拾い上げると、篠橋に向き直る。
「作業は完了しました」
「は、はぁ……」
慌てて足元を確認する篠橋。あれだけ切っても切っても生えてきた、埋まっていたはずの基礎の痕跡はどこにもなかった。消えた後の穴どころか、境目すらない。ただ、元からそこにあった、なんの変哲もない山の地面が広がっているだけだった。
§
「なあ、あれ、なんだったんだよ? お前の親戚、なんなの?」
集落の人々は田圃に入って作業に入ったために恒一は車に戻っていた。篠橋と蓮が山から降りてきたのが見えたので、合流しようと車から降りそちらに向かったところで篠橋に詰め寄られる。
「いや、何って……知らねえよ、俺見てないんだし」
まあ何か非常識なものを見たんだろうなとは想像がつく。
後からのんびり歩いてくる蓮に目をやると、穏やかに笑ってるだけだった。人はそれを営業スマイルという。
「一応撮ってたんだけどさ」
何も映らないと蓮に言われていたが、篠橋は半信半疑だった。で、実際に映像を確認してみると。
「蓮兄が空中にお札を貼り付けてる……」
標識が消え、なんともシュールな映像が残っていた。
貼り付けたお札は空中固定。それだけが現実を物語っている。
「護符は消えたわけではありませんから」
追いついてきた蓮が事もなげに言う。
それはそうなんだが、と釈然としないまま、映像の続きを眺めた。
篠橋が倍速にした上に変化のない部分はスキップしていくと、やがて地蔵の上から唐突に液体のようなものが流れ始める。しかし、地蔵は濡れた様子もない。
ただ流れる液体だけがそこに浮いているようである。
「なに、これ」
地蔵に手を当てる蓮と、ただ細く流れる液体。白ければ、有名な絵画の牛乳のようであるが(※フェルメール、「牛乳を注ぐ女」)、透明な水のようだ。
この映像の中で、そこだけが浮いている。
「何も映ってないよりは上司に説明できるけど、なんかちゃちな合成みたいだな、これ」
確認が終わり、篠橋がぼやきながらスマホをポケットにしまった。
その様子を見て、蓮が恒一に向き直る。
「それで、何かわかったか」
「ああ」
恒一は頷いた。
集落には、ここ数日、以前より頻繁に配信者や野次馬が訪れるようになったらしい。
農道に無断で車を停める者、集落の人々まで勝手に撮影する者。集落の人たちの苛立ちは、恒一を連れてきて欲しいと言った篠橋の話からもなんとなく伝わっていた。
余所者に対する目が厳しくなっていたのだろう。
山に入った集落の一人が、うんざりした勢いで地蔵に向かって「どうせならあいつらも止めてくれよ」と、半ば冗談で祈ったのだという。
二本目の標識が生えた頃、それを笑い話のネタとして口にした者がいた。だが、実際にそれが効いてしまい、行政も業者も郵便も、あらゆる部外者が締め出される事態になった——恒一が聞いた話では、そういうことだった。
「洒落にならねえな」
恒一の説明を聞いた篠橋が呟く。
「怪異に祈るなどは危険な行為ですからね。人間の善意とは違う解釈をされる方が当たり前なものなので」
「覚えておきます……」
硬い声で答える篠橋に、恒一は苦笑した。
ちょうど農作業の休憩時間になったのか、田圃から人が次々に上がってくる。
あっという間に、恒一たちは集落の人たちに囲まれた。
「問題は解決しました。もう標識が立てられることはないでしょう」
口々に喜びの声が上がる中、最初に恒一と話した老人が声を張った。
「兄ちゃん、そんなら軽トラも修理してくれよ!」
「だから、早く修理屋持ってってくださいって言ったじゃないっすか」
「兄ちゃんとこ持っていくわ」
「いや遠いんで、地元の店にした方がいいっすよ」
軽い調子でやりとりする恒一を見て、篠橋が呆れたように笑った。
「お前、すっかり馴染んでるなぁ」
「そうか?」
「どう見てもそうだろ」
その様子を横目に、蓮が小さく息をついた。
「失礼」
それだけ言うと、蓮は輪から離れ、車の方へ歩いていった。
§
一人離れて車に戻ってきた蓮に、湊は運転席の窓越しに声をかけられた。
「どうだった」
「問題ない」
短く答える。事実、恒一に何かあったわけではない。今のところは。
「このまま、何事もないといいが」
蓮が呟くように言った。珍しく、その声には少しだけ疲れが滲んでいた。
湊は返事をせず、集落の人たちに混じって笑っている恒一を、車の中からじっと見つめた。
でも、絶対、なんとかしないと。
晴れた空の下、稲刈りを終えたばかりの田圃に、落穂を突くカラスが一羽、舞い降りた。
湊の心とは裏腹に、どこまでも長閑な光景が広がっていた。
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