8. 寶積コンサルティング株式会社(後編)
案内に従って会場の裏に到着した蓮は、ひとまず主催に簡易な挨拶だけはすると、会場にうずくまる巨大なかたまりを見た。固めることができなかった泥団子のような何かが氷の上をモゾモゾと動き回るが、それ以上何かをしているようには見えない。しばらく眺めて、蓮はため息をついた。
ただでさえ気味が悪いのに、まとう霊気が気持ち悪い。そろそろ観客の精神状態に限界が来そうだ。自主的に建物を離れた観客もいるらしいが、避難はさせていないとのこと。救護室がいっぱいで、会議室などを臨時に空けていることも伝えられた。
自分でケリをつけることはできるが、時間がかかる。恒一がいる今、多少ごねたとしても湊を使った方が圧倒的に早い。
「何でもいいので、音楽を流していただけますか?」
「は……? 音楽を……?」
「はい、必要なので」
「わ、わかりました」
責任者もこの異常事態を何とかしたいのだろう、意味がわからないながらも直ぐに音響に指示を出す。
それを見ながら蓮は、恒一に電話をかけた。
『もしもし』
待ち構えていたように出た恒一に、蓮は湊を連れてくるように言った。
会場に音楽が流れ出す。それに合わせるように、崩れた巨大泥団子が氷の上を這い出した。
観覧席から悲鳴が上がる。
「通用口を入ったら階段を上がって、右の扉。そうだ、そこを開けて左に曲がって真っ直ぐだ。迷うほどの道じゃないが少し距離がある。電話はこのまま繋いでおいてくれ」
『わかった』
怪異から目を離さないまま、湊の到着を待つ。
動き回る怪異がリンクサイドのフェンスにぶつかり、会場の悲鳴はまた大きくなる。湊はまだ着かない。
蓮は軽く舌打ちすると、スーツのポケットから小さな石を取り出した。
丸く削り出された小さな水晶だ。
見る人が見れば、ほのかに光っているように見えるかもしれない。
幸い怪異はリンクのこちら側、演者がメインで出入りする場所の近くにいる。
蓮は滑らないようにだけ気をつけながら一歩リンクに踏み出すと、その小さな水晶を泥団子に向かって投擲した——命中。
ぶつかったところが大きく光り、その部分だけが削られ吹き飛ばされたように消えていく。
どよめく会場のことは気にせず、蓮は怪異の様子を見ながら二つ目をポケットから取り出した。
「蓮兄!」
リンクの入り口から恒一が顔を出す。
「湊は」
声をかけると恒一が下がり、蓮からかろうじて見える位置に湊が現れた。
蓮は自分の場所まで湊に来るように言うが、湊は全力で首を横に振るばかり。
こいつなら全貌が見えなくても何とかなると判断し、親指で蠢く泥団子を示す。湊は頷くと、入り口から少しだけ顔を出し——わずかにそこにいた塊を見つめた。
すでに音楽は流れている。そこに自分の霊力を乗せるだけ。
ロックオンすら必要ない。適当に蓮が示した方向だけは意識して霊力を撒き散らしただけで、あっさりとイベントを中断させ、衣縫を静かに激怒させた怪異は消滅した。
それを確認する前に、湊は奥に引っ込んだ。
その間十秒。
会場のざわめきが再び大きくなった。
蓮がもう一度会場を確認し、湊に振り返る。
「よくやった。車に戻ってていいぞ」
「速っ!」
恒一の口から思わずといった声が漏れた。
ここまで車で約四十分、待機時間十分以下、除霊十秒。
時間配分がおかしい。
「だから湊を投入した」
「そりゃあんまり中断長引いてもよくないんだろうけど……あ、湊」
会話している間にスタスタと元来た道を戻る湊を恒一が慌てて追いかける。それを見送ると、蓮はリンクから通路に戻り、あらためて主催に向き直った。
「異常は祓われました。もう問題はありません」
「た……確かに、もういないが……あれは、」
「ご不安でしたら結界の道具もございます。使い捨てで七万五千円となりますがいかがでしょうか」
「…………稟議回すので……」
それでは間に合わないのだが、主催責任者はそう言うしかなかった。
この後、医師ではなく除霊師として、怪異に突き飛ばされたという演者の様子も見にいったが、特に問題はなさそうだった。身体の方は蓮にはわからない。医師らしき人と関係者になんとか演技再開できないかと食い下がっていたが、周りが止める。
その判断が妥当だと蓮も思ったが、自分の範囲外であるので口は出さなかった。霊的な後遺症は見られない。それだけだ。
中止か再開かの協議が始まると主催者に告げられ、蓮は会場の点検に付き合わせてほしいと願い出た。しかし、施設側に渋られる。今回、発端がアリーナの天井である。天井点検のキャットウォークに不慣れな外部のものを入れることを渋るのは当然と、蓮はあっさり引き下がった。その代わり、念の為会場の裏方や観覧席も確認するので出入りの許可を欲しい、と伝える。
直ぐにスタッフ用IDが届けられ、蓮はそれを首から下げてその場を離れた。
もしも再開されなければ衣縫の機嫌は悪いままかもしれないが、だからと言って仕事に支障をきたすつもりはない。
蓮は最善だけは尽くした。
§
衣縫は会場で成り行きを見守っていた。その目には何も見えないままだった。
会場から避難などの指示もない。
ただ、具合が悪くなる人も出始めた。
三十分ほどして、再開はしばらくできないとアナウンスがかかる。適宜、身体を温めるようにとだけ案内が入った。
会社からの距離を考えても、蓮が到着するのはもう少し後だろう。
衣縫も一度、席を立って売店に足を運ぶ。
温かい飲み物を購入し、そのまま通路で口をつける。
推しは大丈夫だろうか。後ろ向きに倒れるのはやはり危ない。衣縫の目には見えない何かがいたのは間違いない。それが推しに何をした。
腹の中から湧き上がる怒りを深呼吸して沈める。
寶積コンサルティングに入社して、業務内容を知った時は正直「詐欺では?」と思ったものだ。
しかしいくつかの状況証拠から、蓮や湊がしている仕事は実際に有用で、それが衣縫にはわからないだけ、とはすぐに理解できた。
別に自分に霊が見えないことも祓えないことも、特に困ることなどなかったので、それが自分に影響を与えることではないと思っていた。
今初めて、蓮や湊の能力が欲しいと思う。
そうすれば、こんな待ち時間に心をすり減らすこともなく、速やかに対処できた。推しが怪我をしたかもしれないというのに、何もできないとは。
会社からの距離を考えても、到着は電話をしてから一時間ほどだろうか。休日だから身支度を整える時間も必要だ。
加えて、イベントの主催者側と折衝し、入場許可を得なければならない。蓮が交渉に失敗するとは思わないが、それにも時間はかかる。
そこから異常を取り除いたとして、果たして今日中に公演を再開できるのか。
今日のイベントはもう仕方ない。もし推しに大きな怪我がなかったとしても、今日は大事をとって欲しい。
もちろん推し以外の演技も楽しみにしていたが、こうなっては仕方がないだろう。
購入した紅茶を飲み干して、カップをゴミ箱に入れた時、先ほど推しが演技していた音楽が流れてきた。状況に進展があったのかと、慌てて席に戻る。
移動中、大きなどよめきと悲鳴が聞こえてきた。
「……何をしているのでしょう、あの方は」
見えない怪異の状況が変わったのかどうかはわからないが、どうやら蓮が到着していたらしい。リンクの出入口からこちらの様子を窺っていたが、なぜかリンクに出てくる。
ポケットから何かを取り出してどこかに投げた。
衣縫に分かったのはそれだけ。
「え、光っただけ?」
「違うよなんか一部吹き飛んだ!」
「うそ、何これ、なんかの撮影?」
アイスショーが異常事態で中断している最中に、いったいどのような撮影が始まるというのか。
内心のツッコミは声に出さず、そのまま蓮の行動を見つめる。蓮はポケットから何かを取り出しつつ、一ヶ所を注視していることしかわからない。
しかし二投目に入ることなく、彼はリンク出入口を振り返った。そこから見覚えのある大柄な男が顔を出す。
もちろん彼が誰かは知っている。蓮の親戚であり、社員である薄氷湊の居候先、その家主である鏃恒一だ。
恒一はすぐに引っ込み、しばらくしてからサングラスにマスク姿の湊がリンク入り口の隅にへばりつくように顔を出した。出掛ける時のいつもの格好だ。蓮が先ほど何かを投げたあたりを親指で示すと、そちらを向く。
会場のどよめきが一際大きくなった。
「え、消えた」
「あの人がなんかしたんだよね?」
「ねえ、結局何だったの?」
「なんか空気軽くなってない?」
「やだもうわけわかんない、怖い……」
さまざまに聞こえてくる声に、衣縫はほっと息をついた。
蓮や湊の現場に同行したことはない。だが、湊の方が能力が上である、ということは、蓮の評価からもよく知っていた。
蓮は会場に向き直って全体を一瞥すると、奥に引っ込んだ。
しばらくすると、会場の安全点検に入る、再開については協議中との案内が流れる。
「飛行機の時間が……」
「新幹線予約取り直せるかな……」
ざわめきの中に遠征組の不安な声が混じる。
「え? 嘘、映ってないんだけど!」
「なんで!? 写真から消えてる!?」
同時にあちらこちらから、おそらく写真や動画を撮影していただろう人たちの、落胆混じりの声も聞こえてきた。
それはもう、仕方がない。本体が消えれば、写真や動画からも消える。怪異とはそういうものらしいのだから。
もうしばらくは掛かりそうなので、衣縫はもう一度席を立つことにした。アイスショーの会場は寒い。
「衣縫さん」
通路に出たところで蓮と遭遇。ちゃっかりスタッフ用IDを入手したらしい。首から下げているそれを一瞥してから、衣縫は挨拶をする。
「社長、お疲れ様です」
そのまま通路の邪魔になりにくい場所へ移動する。
先ほどまでリンクで注目を浴びた男だ。この場所でも、否が応でも視線を集めている。
そのまま連れ立って売店まで行き、蓮は衣縫に声をかけた。
「紅茶でいいかい?」
「はい、ありがとうございます」
蓮に遠慮するだけ時間の無駄なので、ありがたく奢られることにする。
彼は自分の分のコーヒーとあわせて頼み、紅茶を手渡してきた。事務所では専門店の焙煎したての豆を購入しているので、こんな売店のものでは満足できないのではと思うが、特に気にした様子はない。
「探し物がてら報告しておこうと思ってね」
「はい」
「もう察しているとは思うが、異常は取り除かれた。ただ、依代が見つかっていない」
「そうなんですか」
依代を探しているということは、やはり悪霊だったということだ。衣縫は会場の様子を思い出す。
最初に騒がしくなった時には、観客のほぼ全員が天井を向いていた。その流れは動画を送る際にメールにも書いてある。
衣縫の思考を察したのか、蓮は続ける。
「天井部分には今、人が入っている。僕には気配は感じられないし、湊も何も言わなかったから危険はないと思うが」
依代はそれ自体が危険なことはほとんどないが、呪いのようなものがこびり付いていることが多い。
稀に悪霊の一部が残っていることもある。
「再開されるかは現在協議中だ。君の報告にあった負傷者だが……」
衣縫の眉がほんの少しだけ上がる。そこが気になってはいたが、ここで確認することではないと黙っていた件だ。
「こちら側の問題は特になかった。意識もあり、自分で話していたよ。身体については医師の判断になるが、見たところ大きな怪我もなさそうだった。本人は演技再開を強く願っているようだったが、周囲が止めてい——」
「当然です」
衣縫が言葉を被せてくることなど珍しいを通り越して初めてだった。蓮は素直に驚愕を表情に出し、衣縫は少し気まずげに「んんっ」と喉を鳴らす。
「……とにかく、見慣れない物や、天井から落ちたと思われる物があっても触らないでくれ。場所と形状だけ知らせてほしい」
「具体的に、どのような物でしょうか」
「それが分かれば探すのも楽なんだが」
「かしこまりました」
蓮は一通り話し終えると、コーヒーの紙コップを近くのゴミ箱に投げ入れた。
「事後契約になる。明日、要件を詰める予定だ」
「承知しました」
「あと、今日は休日出勤で処理する」
「……私は依頼しただけですが」
「業務遂行に衣縫さんも関わっている。そこは曖昧にすべきではない」
ここまで断言する蓮に反論するには、よほど確たる根拠が必要だ。衣縫はそこで引き下がる。
「承知しました。社長」
「なんだい?」
「本日は迅速なご対応、誠にありがとうございました」
そう言って頭を下げる衣縫に、蓮は笑って答えた。
「どういたしまして。ではまた明日」
「はい、ありがとうございました」
もう一度礼を言う衣縫に手を振って、蓮はその場を後にした。
衣縫が自席に戻ると、隣に座っていた人が話しかけてきた。こういうイベントではよくある話だが、今回話しかけられたのはイベントの話ではない。
「あの、さっき、リンクでアレ……なんか、してた人と話されてましたよね?」
話しかけながらも、先ほどの現象をどう語ればいいのか迷っている印象だ。
「はい、弊社の代表です」
「何の会社なんですか?」
「コンサルティング会社です」
衣縫は普通に答えたし何も間違っていないのだが、答えになっていない。
聞き耳を立てていたらしい、反対側の隣の席の人も会話に加わる。
「めちゃくちゃかっこよくないですか!?」
衣縫は一度瞬きをした。
「一般的にはそうであることは同意いたします」
「一般的には……?」
「容姿が整っていることは事実ですので」
「えっ、毎日あの人と働いてるんですよね?」
「はい」
「いいなあ!」
「そうでしょうか」
なぜこの場で社長の容姿について語るのか、衣縫には理解できなかった。
蓮と働いていることを羨む気持ち自体は理解できるが、それは蓮の容姿ではなく能力に依るところだ。容姿は関係ない。
「そもそもが、彼はほとんど不在で事務所にはおりませんので」
蓮の仕事は契約の締結やネゴシエーション、また怪異が現れれば自らそれを祓う、状況によっては湊を連れていくことである。事務所が家なので夜には帰ってくるが、衣縫が出社した時点で不在なことだってよくある。
どちらかと言えば、一人で気楽に過ごせる事務所。しかも車で五分。事務所で飲む紅茶は経費で衣縫の好みのものが置かれている。そして事務職としては高額な給与。職場環境そのものの方が衣縫には重要だった。
§
『お客様にお知らせいたします。本日は演出の不備および機材トラブルにより、公演を一時中断いたしましたことを深くお詫び申し上げます。安全が確認されましたので、本公演はプログラムを一部短縮・変更の上、一時間後より再開いたします——』
客席が一気に歓声に包まれる。正直なところ、再開は難しいのではと考えていたので衣縫も胸を撫で下ろした。
推しの出演はないだろうが、イベント自体を楽しみにしていたのだ。短縮されたとしても、まだ楽しめることは素直に嬉しい。
「機材トラブルじゃないよね?」
「演出って……演出じゃなくない?」
といった疑問もざわめきから拾ったが、もちろん無視することにする。映像や写真にも残らない。残ったのは……。
「結局この人、なんだったんだろう」
何もない空間に何かを投げている寶積蓮だけだった。
蓮と話していたことに気づいている周辺の座席の人々も、チラチラと衣縫を見たりもするが、こちらから提示できる情報は何もないので、気にしないことにする。
スマートフォンが静かに震えて、衣縫は通知を確認した。
蓮からのメッセージだった。
『依代は確保済み。天井のキャットウォークから、本公演のチケットが一枚見つかった。これが依代で間違いない。課題全てクリア、本件はこれでクローズする』
衣縫は一言『承知しました』とだけ返信し、スマートフォンの電源を切った。マナーモードの振動に気を散らされるのは好ましくない。
なぜ当日のチケットが天井にあったのかはわからない。
ただ、あれもまた、今日ここへ来たかった何者かだったのかもしれない。
だからといって、推しに危害を加えたことを許す気は一切なかった。
やがて再開したアイスショーを、衣縫は今度こそ最後まで楽しんだ。
推しの演技を最後まで見ることができなかったのは残念だが、この状況でそれ以上を望むのは贅沢というものだ。
グランドフィナーレが終わり、カーテンコールには推しが登場し、マイクを取った。
今回は残念だったが、またさらに磨きをかけた演技を約束する、と礼をする推しに、衣縫は惜しみのない拍手を送ったのだった。
衣縫さん、それ事務の仕事ちゃう。蓮は「自分にエスカレしてこない、かつ、事故らない」人を探してました。もっと給料出してやれ。
AI使用について。
イベント再開のアナウンスは、内容を指示して生成させた文章をそのまま掲載しております。
直接使用ではありませんが、業態→業務状態への言い換えや、エスカレをあげるという表現は社内でしか利用しないか、などの確認をAIでしております。




