8. 寶積コンサルティング株式会社(前編)
衣縫 操は五年前、寶積コンサルティング株式会社に就職した。
当時、もう少し収入を増やしたいと考えて転職先を探していたところ、事務員としては破格の好条件、しかも地元のここを見つけたのだ。ただし、経理と一般・営業事務まで包括した事務職。
職務経歴としては問題なかったが、現在の衣縫の年収より200万円もアップする高待遇では倍率厳しいだろう、とそこまで期待はしていなかった。当時衣縫は三十代。もしかしたら、若くて綺麗な子が欲しくて高待遇を提示している可能性もある。そういった職場ならば、こちらから願い下げだ。
だから、面接の連絡が来た時は驚いた。
面接に現れたのはまだ二十代だった若き社長、寶積 蓮。
メガネの奥からこちらを見つめる涼やかな瞳や整った顔立ちを見て、衣縫は警戒を緩めた。
これなら、若い女性なんて放っておいても寄ってくるに違いない。自分に面接の連絡をしてきたことからも、若い女性を身近に置いておきたいという動機ではないだろう。
面接の内容は、若い相手だと侮れるようなものではなかった。蓮は履歴書や職務経歴書に目を通しながら、具体的な仕事内容や知識の確認、もし入社が決まったらいつ入社出来るかなどの基本的なことを話した後。
提出期限間近の書類の情報が欠けていた、また入金日まで間がない請求書の内容が契約書と齟齬があったときにはどうするか、と聞いてきた。
「提出先と書類や入金の性質に依ります。基本は即時確認して担当者を明確にして回答期限を切ります。期限内に回答が難しいようなら提出期限延長の交渉をします」
ふむ、というように蓮は軽く頷いた。
「延長できなかったら?」
「後日訂正の可否を確認の上先に提出または入金いたします」
「訂正もできないとすると?」
「齟齬を明確にして対応可能な期日を確認し、代表に上げます」
蓮は少し身を乗り出して、笑みを浮かべてさらに問いを重ねた。
「僕がいなかったら?」
「まず通常の連絡手段を尽くします。緊急性が高ければ出向先に直接連絡を入れることも検討します。ですが——」
衣縫のセリフに笑みを深めていた蓮は、続きを待つ。
「代表がご不在になるたびに現場の判断が完全に止まってしまうような業務状態はおつくりにならない方がよろしいかと思いますが」
その言葉を聞いて、蓮はにっこりと笑った。
「ありがとう。ではこの日から来てくれるかな」
「はい?」
その場で採用決定するとは思っていなかった衣縫は、一瞬言葉の意味を捉えるのが遅れた。
「住所から見るとバスかな? 車通勤も可能だが、どちらを希望する?」
「よろしくお願いいたします。では、車でお願いいたします」
直ぐに切り替える。話はすでに採用後の手続の話になっていた。
給与は大幅に上がり、通勤時間は最短。衣縫はまさに申し分のない職場環境を手に入れたのだった。
そして、労働環境の改善は、衣縫にとって何よりも重要なある目的を果たしてくれた。
推しに注ぎ込める資源が、飛躍的に増えたことである。
衣縫の推し——それは、一人の男子プロフィギュアスケーターだった。
§
八月は、プロのアイスショーの最終シーズンだ。
推しはすでに選手を引退してるため、九月から始まる競技シーズンには参加しない。今年の見納めとチケットを取った、アリーナ会場の座席に衣縫は座っていた。
すでに何人かのスケーターの演目を楽しみ、次はいよいよ推しの出番。衣縫は今シーズン最後であろう生演技を一瞬も見逃すまい、と演者が入ってくる入り口を凝視した。
やがて彼が笑顔と共に会場に現れる。歓声に応えて会場を一周すると、演技の開始位置にスッと止まった。
途端に、空気が変わる。
先ほどまで、単にスケートの上手い普通の好青年といった雰囲気が一変し、会場に静寂が訪れる。
演目は「残響〜消えたあとに、残る情熱〜」。音楽と共に流れ出す身体。リンクを舞い、タメを感じさせない風のようなジャンプからのスピン。音楽だけでなく、エッジが氷を削る音も生々しく聞こえてくる、会場にいないと感じることができない空気に、衣縫は没頭する。
美しいステップからのコンビネーションジャンプ。一挙手一投足を目に焼き付けていた衣縫は、その瞬間ふと現実に引き戻された。
このプログラムは生でも動画でも何度も見ている。
構成は完全に暗記していた。
しかし、一度跳んだあと、彼は二度目を跳ばずに、滑走ルートを変えた。
ジャンプのスタイルや構成が変わったりすることがないわけではないが、ここのコンビネーションジャンプを外したことはない。もちろん着氷が上手くいかずに二度目を跳べないことはある。しかし、見ていた限り一度目の時点でコンビネーションに入ろうとしていないように思えた。
こんなことは初めてだ。
その後の動きも明らかにおかしい。
広いはずのリンクをいっぱいに使うはずなのに、明らかにリンクの一部を避けている。演技内容もそれに伴って省略されている。
不審に思っていたとき、誰かの悲鳴が耳に入った。
衣縫は推しの演技中に、初めて彼から目を離した。会場は演技中とは思えないほどざわめき、多くの人が天井を見ている。スマホを向けているものもいた。衣縫も見てみるが、その目には何も映らない。ただ、照明や機材があるだけだ。
「何、あれ……」
「嫌、気持ち悪い」
そんな声をざわめきから拾っているうちに、音楽が途絶えた。
リンクの出入口からスタッフが演者に合図を送っている。彼はそこに滑り込むと、観客に挨拶をするためか、振り返る。次の瞬間、突然後ろに突き飛ばされるように倒れ込んだ。
「……!」
衣縫が息を呑んでいる間にもいくつもの悲鳴があちらこちらから上がる。
何かが、推しを、攻撃した……?
衣縫はもう一度天井を見て、リンクを見た。多くの人がそこにスマホを向け、あるいは目を背けている。泣き出している者もいる。
衣縫には何も見えない。だが、何かがいる。
その何かが、推しの演技を邪魔した挙句、危害を加えた。
一度深く息を吸い、ゆっくりと吐く。
これはおそらく、弊社の案件だ。
直ぐにスマホを取り出すと、振動一つにも推しの演技を邪魔することは許さないと切っていた電源を入れる。
連絡先より着歴が早いとそちらを選び、弊社の代表を呼び出した。
§
その日、蓮は近所のプール付きジムで軽く泳いだ後、自室でくつろいでいた。
いつも制服のように着ている高級スーツから一変してどこにでも売っているようなTシャツに、着心地の良さそうなパンツ姿で新聞を読んでいたところに、スマートフォンの音が鳴り響いた。
画面を見て少し怪訝な表情をすると、蓮は電話に出る。
『休日に失礼します、社長』
「珍しいね。何かあった?」
声に焦りはないように思えるが、それでもどこかピンと糸の張ったような声だった。
『現在、私が観覧しているアイスショーの会場で、異常事態が発生しております。多数の観客が会場のある空間を注視して騒いでおり、出演中のスケーターも、その区画を明確に避ける形で滑走コースを変更しました』
全く予想していなかった衣縫の言葉に、蓮は目を見張る。
どちらかというと、衣縫がアイスショーの観覧をしている、という方に。
『結果、公演は一時中断となっております。なお、私自身には何も視認できません』
衣縫には霊的なものは見えない。湊とは逆の方向で特異体質とも言える。
『以上のことから、これらは御社の案件であると判断しました』
「……御社?」
衣縫は寶積コンサルティングの社員である。弊社ならわかるがなぜに御社。
『今回、私は依頼人としてご連絡しております。費用は給与から天引きで。緊急ですので契約書は後日……』
「待って衣縫さん」
淡々と、しかし次々に話を進める衣縫を蓮は慌てて止めた。
「アイスショーなら契約先は別だ。そこは考えなくていい。まず情報が欲しい。スポンサーを教えてくれ」
『かしこまりました。A社、Bコーポレーション……』
想定していたのかのように澱みなく答える衣縫。
伝えられた会社名を確認し、蓮はさらに指示を出す。
「衣縫さんには見えなくても、周りが注目している箇所と会場全体の動画を撮影して送って欲しい」
『かしこまりました。すでに一名、危害を加えられた可能性があります』
今日の衣縫はいつもよりやや早口である。
「わかった。早急に対処する」
『是非に、お願いいたします』
気のせいでなく、言葉の圧が強い。
一緒に働き始めてから初めてのことだ。
「……衣縫さん、怒ってる?」
『もちろんです』
あ、はい。
淡々と怒りを表す衣縫に、蓮は電話を切ると、最速で解決する手段を頭の中で組み立て始めた。
仕事着であるスーツに袖を通しながら、蓮は恒一の番号を呼び出す。両手を開けるためにスピーカーにしてテーブルに置いた。
『蓮兄? どうした?』
何コールも待つことなく、すぐに恒一が出た。
「恒一、今どこにいる?」
『え、家だけど』
返答に安堵の息をこぼす。外出していたらボトルネックの解消が遠のくところだった。
「休みの日に悪いが、運転頼まれてくれないか。会社として依頼する」
『え、別にいいよ、依頼とか』
そういうわけにもいかない、などと問答する気はなかった。恒一なら後から契約を交わすことができる。
「湊を連れてきてくれ。仕事が入った。服装はどうでもいいから担いででも車に放り込んでくれ」
『湊の扱い雑……。とにかくわかった、車庫に行けばいい?』
「ああ、そちらの支度が出来次第頼む」
『了解』
電話が終わる頃には着替えも終わっていた。
念のために鏡で身だしなみを整えると、間をおかずに出る。敷地内のシャッター付き車庫を開けて車のエンジンをかけた。車庫から出してシャッターを閉め、そのまま運転席ではなく助手席に乗り込むと、もう一台のスマートフォンにナビを設定してホルダーにセットした。
続けて、先ほど衣縫から聞いたスポンサー企業の一つ、蓮の顧客の担当者に電話をかける。
休日ではあるが、蓮が関係する仕事は放置できないことを、相手担当者も知っている。程なく出た相手に蓮はアイスショーの経緯を話した。
「そちらでも調査をお願いいたします。まだ確定はしておりませんが、このまま放置されるとイベントやスポンサーのブランドイメージを損なう恐れもございます」
『そこまでですか?』
「はい。最悪の場合、死傷者が出る可能性も。至急イベント関係の上席へお繋ぎいただきたく願います」
あえて強い語を選んで会話をしていると、ようやく恒一と湊がやってきた。視線で乗るように促す。湊は担がれてはいないので、不服ながらも自分の足で来たようだ。いつも通りサングラスにマスクを着用して、後部座席に乗り込む。
電話をしながら恒一にセットしてあるナビを示す。恒一は頷くと軽くナビを触ってから、クルマを発進させた。
「……ではよろしくお願い致します」
ようやく電話を終えた蓮は、しかしスマホから目を離さずにメールを確認する。衣縫からメールが届いていた。
「湊」
「んー?」
「映像送るから確認しとけ」
「……うん」
だるそうに返事する湊にメールを転送したところで、着信があった。
「はい、寶積でございます。はい、お世話になっております……」
また何か交渉している蓮の声を、運転しながら恒一は舌を巻く思いで聞いていた。
「はい、先方からこの番号に電話を頂けるように……はい、その通りです。こちらは契約外となりますので……恐れ入ります、よろしくお願い致します」
なにやら契約のことまで話している。車内の電話でどこまで仕事を進めるのだろう。
「なんか、蓮兄すげえな」
電話を切った蓮に、恒一は思わず呟いた。
「何がだ?」
「いや、だって、俺となりで聞いてても蓮兄が何喋ってんのか全然わかんない」
蓮は瞬きを一度すると、ふと笑った。
「俺は車の構造なんか何もわからない。わかる恒一がすごいと思うが」
「いや、でもなんていうか、真似できそうにねえなって」
「俺もエンジン下ろすなんて真似はできないよ」
クスリと笑って、蓮は続ける。
「専門分野が違うだけだ。どちらが上とかすごいとか、そういう話ではない」
恒一にそう言ってから、蓮は後部座席を振り返った。
「確認したか?」
「んー、普通に悪霊。この映像じゃ、目的わかんない」
「普通にってなんだよ」
「普通は普通?」
思わずボヤく恒一に返す言葉が答えになってない。
「そこまで脅威ではない。が、今回は場所が悪い」
「目的地、アリーナだっけ」
「一万人程度の人がいる場所だ。衣縫さんから連絡はないから今のところは大人しいのだと思うが……」
「……僕行くのやめる」
「衣縫さん現地にいるの?」
そこで電話が鳴ったので、湊の主張と恒一の疑問はスルーされた。
「はい、寶積です。はい、ご連絡ありがとうございます」
イベント主催者からの入電に、蓮は矢継ぎ早に指示を出した。
関係者用駐車場の確保。車種とナンバーを伝えるのも忘れない。その入り口はどこか。駐車場到着後の案内人の確保。
現場に着いた時点でのタイムロスを極限まで無くすために、指示を出している。
「避難が必要かどうかの判断はお任せします。こちらとしましても到着していない時点での判断はできかねますので」
相手の希望にはなかなかに容赦がない。
恒一の運転する車が何の障害もなく駐車場に滑り込んだのは、衣縫が電話してから四十五分後のことだった。
「寶積様ですか? お待ちしておりました」
駐車した車に間髪入れずに警備員が近づいてきた。これも蓮の事前連絡の賜物かと思うと、恒一にはやはりすごいとしか思えない。
警備員の顔色は悪かった。仕事として会場の確認をしたのかもしれない。
どんな現場であっても、湊を連れて行った方が早くカタが付く。しかし、ここで警備員の男がいるから嫌だと言い出しかねない時間のロスと、瞬時に頭の中で天秤にかける。
「恒一と湊はここで待っていてくれ」
結局それだけ告げると、蓮はそのまま警備員に先導されて通用口へと消えていった。
「蓮さんだけで片付けてよね」
湊のボヤキを、今日の恒一は黙殺することにした。




