7.環状線の落とし物(その3)
話は日曜日にまで遡る。
気に入りのラーメン屋で腹を満たした恭平は、一度はその場を離れようとした。しかし、ラーメン屋が契約しているコインパーキングに戻り車のドアを開けて乗り込もうとしたところで、助手席に置きっぱなしだった道路マップが目に入った。
神社の地図記号が書かれていた場所は目と鼻の先である。
場所だって、すぐ近くには幹線道路、その裏手の住宅が並ぶ生活道路である。恒一は何か犯罪に関わるかもしれないなんて言っていたが、「こんなところで?」と首を傾げたくなるような場所だ。
もともとほとんどなかった警戒心は霧散し、好奇心だけが残る。
恭平は悩むこともなく道路マップを手に取ると、車から降りてすぐそばの目的地に向かって歩き出した。
駐車場から道路に出て、イヤホンから流れてくる軽快な音楽に合わせるように、軽い足取りで角を曲がれば目的地はすぐだ。
そのまま生活道路を十メートルほど進んだだろうか。
ふ、と、世界から音が消えた。
「え?」
なんの前触れもなかった。瞬きした瞬間というわけでもなく、足を運んだ次の一歩で世界が書き換わった。
アスファルトで舗装されていたはずの足元は、今は古い石畳。都市部の住宅地だったはずなのに、立ち並んでいた家は消えて、鬱蒼と茂る木に囲まれた道が続いている。
平坦な埋立地だったはずなのに、その道は少し先で階段に続いていた。
先程まで午後の明るい日差しが明るく照らしていたはずなのに、まるで夕暮れのような暗さ。しかも、夏だったはずなのに、半袖の恭平にはかなり肌寒く感じられる。
「な、なんだよここ……?」
あまりにも突然の変化に、恭平は思考が追いつかない。
それでも後ろを振り返ってみたが、同じような石畳の道と、鳥居があるだけだ。
戻るべきなのかもわからない。
ポケットにスマホを突っ込んでいたのを思い出して取り出してみると、圏外だった。思わず操作してWi-Fiも確認するが、ネットワーク情報には一つも上がってこない。恭平はため息をついて、役に立たないスマホを再びポケットに突っ込んだ。
訳がわからないまま、恭平はそろそろと足を踏み出した。石畳に沿って進み、階段を登るとまた鳥居がある。それをくぐると視界が開けた。
広場のようになってはいるが、石畳の道はその真ん中を突っ切って、次の鳥居へと続いている。
周りにはいくつか、古い瓦屋根の建物があるが、人の気配はない。
「誰かいませんか!」
とりあえず誰でもいいから話が聞きたい。
そう思って大声を出してもどこからも返事はなかった。
思わずぶるりと震えたのは、肌寒いからではない。
それでも道があるからにはどこかに続いていないかと、恭平は再び石畳の道を進み始めた。
しばらくまた木立に囲まれた道を進み、再び階段と鳥居が見えてくる。
それを登って開けた視界に、恭平は既視感を覚えた。
「これ、さっきの場所じゃねえか……?」
はっきり覚えていたわけではない。
だが建物の形や配置が、先ほど通った場所と同じように見える。
気のせいと自分に言い聞かせながら、恭平はさらに進んだ。再び階段。登ると広場。
「……気のせいじゃねえ?」
三度目ともなると、あえて建物の特徴を頭の隅に置いてしまう。そして再び広場に出た時、恭平はまっすぐ歩いているにもかかわらず、同じ場所に出ていることを確信した。
先ほど通った時に、建物の一つの屋根瓦が一枚割れていることを覚えていた。
今、その建物の屋根瓦の同じ場所が、同じように割れている。
ごくりと唾を飲み込んで、初めて喉の渇きに気づく。
なんなんだ、ここは。
自分はただ、ラーメンを食べに来たついでにちょっと寄り道しただけだ。なのになんでこんなわけのわからない場所にいる?
『なんか嫌な感じがする。行かない方がいい』
先ほどの恒一の言葉が頭に蘇る。恒一は何かを感じ取っていたのだろうか。この言葉を軽く考えなければ良かったのか。
もう一度スマホを取り出して時間を確認する。ラーメン屋を出てから気づけば1時間近く経っていた。
恭平はぎゅっと目を瞑り、もう一度見開いた。景色が変わるわけではない。
パシッと両手で頬を叩く。
なんだか訳のわからないことになっている。
こんな場所に閉じ込められ——、そこで思考を切る。悪い方に考えるな。どこかに出口はあるはずだ。だって、ここに入ってきたのは間違いないのだから。
恭平は意を決して石畳を外れると、生い茂る木々の間に入り込んだ。幸いなことに下草はあまり生えていないが、町で育った恭平にはその有り難みはわからない。
そんなことより、ただでさえ不気味な場所が、森に入るとさらに薄気味悪い。
時々振り返って、木々の隙間から自分が来た方向を確認する。なんとか鳥居が見えたことを確認して、恭平はさらに森の中を進み——見覚えのある広場へと出た。森から出たはずなのに、気づけば元の石畳である。
「……なんなんだよもう、勘弁してくれよ……」
さすがの恭平も参ってくる。
「なあ、誰かいないのかよ!」
破れかぶれに叫んだ時。
ぺたり。
やや湿った足音が背後から聞こえた。
恐怖と、ようやく自分以外の気配に少しの期待を感じて振り返ってみても、誰もいない。
ぺたり。ぺたり。
靴ではなく……そう、裸足で歩いているような。
音だけが近づいている気がして、恭平は後ずさった。
背中に冷たい汗が伝う。
ぺたり。ぺたり。
それ以上確認できなかった。
恐怖に駆られた恭平は、踵を返して走り出す。
静寂の中に、自分の靴音と荒くなった息遣いだけが耳に届いていた。
なりふり構わずの全力疾走で走れる距離はそれほど長くない。自分がどこをどう走ったかは覚えていないが、恭平はもう何度目になるかも覚えていない階段を駆け上がり、上がったところで疲労から思わず立ち止まって、鳥居の柱に手をかけて、逆の手で額の汗を拭った。肩でしていた息が整って来るにつれ、またあの足音が聞こえて来る。
ぺたり。ぺたり。
特に音が速まっているわけでもなく、一定のリズムで近づいて来るそれにまた恭平は振り返った。
今登って来た階段に、足跡が付いている。
ぺたり、と音がするたびに、一段ずつ。交互に登って来る足跡が。
「うわあああああ!!」
それまで音だった現象を明確に視界に捉えて、恭平は悲鳴をあげて再び走り出した。
「なんだよ! なんなんだよこれ!!」
叫んでも答えるものは何もない。恭平はどこに逃げればいいかもわからず、とにかく足音から、足跡から逃げたくてがむしゃらに走り回った。
途中何度も振り返り、息が上がって立ち止まる。
気がつけば、自分を追って来ているのは足跡ではなくなっていた。
黒いモヤでできたような脚が地面からぬぅっと伸びて、それがこちらに向かって歩いて来る。
「もうやめてくれ!」
半分泣き声になりながら叫んで、恭平は再び走り出した。
散々走り回って体力はかなり消耗している。
それでも立ち止まることはできなかった。
何度も後ろを確認し、付かず離れず追って来る黒い影は、足元からだんだん姿を表して、いつのまにか身長二メートルはある大きな人型を形成していた。
疲労で立ち止まるとソレが近づいて来る。足がもつれそうになりながらも再び走り出す。
ソレが何かもわからないまま、恭平は体力を振り絞って、必死に走り続けた。
「もう、階段無理……」
そろそろ体力も限界かというところで、なんとか自分の足を叱咤してどれだけ登ったかわからない階段を登りかけた時、ふと恭平の耳に、どこかから流れる音楽が聞こえて来た。
聞いたことがあるようなないような、穏やかなクラシック音楽。不気味なこの空間にはややそぐわないが、恭平にはそんなことどうでも良かった。
非常識な出来事の連続と恐怖でゴリゴリに削られた精神に、久しぶりに聞く「常識につながる」音楽。
恭平は今だけ疲れを忘れて、階段を駆け上がった。
そこに、日常があると期待を込めて。
駆け上がった先、もはや見飽きるほど目にした広場には、確かにこれまでになかった光景が広がっていた。
広場の中程に立っている黒い影が音楽の中心のようだ。
その音楽に合わせて淡い光がふわりふわりとあたりに広がっていく。まるで音に合わせて光が踊っているようだ。
その光に包まれて中心に立っているのは黒い人影。
恭平は目がいい方だ。そこに立っているのは、今追われている黒いモヤでできた人型のナニカとは違う。黒い服を着ているが、明らかにそれは人間だった。
「……人だ」
恭平の声に希望が宿る。やっと、ようやく、人に会えた。
その人物がふとコチラを見た。サングラスをかけ、黒いマスク。パーカーのフードを被っていて、顔なんか全然わからない。
思わず見つめ合う形になる。
その時静かに音楽が途切れた。
次の瞬間、ぺたりとまた足音が聞こえて来る。
現実——の逆、異質に引き戻された恭平は思わずその人物に向かって駆け出した。
途端に回れ右をする人間。
『タララン タン タン タタン♪』
逃げ出す人物のスピーカーから、バイオリンとフルートの軽やかな音楽が流れて来た。
「待ってくれええ!」
なぜ逃げるのか。やっと、やっと会えた人間だ。逃げられて、また一人にされたらかなわない!
そんな思いで追う恭平。
『タタタラ タラララ タラララ タララ♪』
先ほどから流れていたのはオッフェンバック、喜歌劇『天国と地獄』序曲。そして今始まったのはラストの部分、日本人なら誰でも知ってる「運動会の曲」。
逃げた人物は、ここに辿り着くまでだけ死ぬ思いをしていた薄氷湊である。追う人物は、ここに来てから死ぬ思いをした塔家恭平。ついでにさらに追いかける黒いモヤモヤしたナニカ。
ここに、異界の徒競走が始まった!
実況は私、地の文。
すでにスタートしています。誰が勝つのでしょうか。
現在一位、湊選手、二位、恭平選手。三位、謎の怪異選手。
湊選手、大きくリードしています。しかし恭平選手、速いです。怪異選手は頑張ってください。
『タンターン タラララ タン タン タラララ タン タン タラララ タラララララララ♪』
音楽もサビに入り盛り上がってまいりました。
湊選手、息が上がって来たでしょうか。恭平選手、追い上げています。怪異選手は近づくと謎の光に削られています、大丈夫でしょうか。
「なんで、逃げる、んだよ!」
息を切らせながらも叫ぶ恭平。
「来ないでえええ!」
半泣きの声で叫ぶ湊。
恭平選手、速いです! 湊選手に追いつきました!
湊選手の服を掴んだ! それは徒競走ではありません!
あ、二人縺れ込むように転びました! 大丈夫でしょうか!
曲もクライマックス、金管が一オクターブ跳ね上がり、一音ずつ強く刻みながら降りていく。
「離せええええええ————!!!」
叫び声と共に、それまでにない強い光が湊から放たれた!
声に乗ったこれまでとは比べ物にならない霊力が乖層を満たす。
咄嗟に目を瞑った恭平の瞼の裏にまで届く光。
恭平に会ってから陥っていた湊のパニックは、恭平の預かり知らぬところで音楽と共に最高潮になっていた。人に捕まるという恐怖に耐えかねた湊、暴走。
『ジャン ジャン ジャン ジャン ジャ---ン♪』
最後の盛り上がりと共に音楽が終わった。静寂が戻った——と思った恭平の耳に音がもどってきた。
どこかを走る車の音、蝉の声、風のざわめき。
静かだと思っている町の中でも無音ではない。無意識に馴染んでいた音に、恭平は目を開けた。
見覚えのある町が、目に映る。
「……戻って、来れた……?」
転んだ体勢のまま、二人は環状線近くの生活道路に戻っていた。
異界に入ってから数時間、すでに夕暮れ時だった。
湊のスピーカーから次の音楽が流れ出す。
ドヴォルザーク、交響曲第九番『新世界より』第二楽章。
日本では詩がつけられ、「遠き山に日は落ちて」として知られている。このプレイリスト、空気を読みすぎである。




