7. 環状線の落とし物(その2)
普段、恒一は二階に戻って湊と昼食を摂る。
打金は近くに食べに行くのが通常なので、シャッターを一度下ろし、「御用の方は通用口のインターホンを押してください」と書いてある札を下げて二階に上がった。
おそらく湊を知っている人間ならほぼ全員が意外だと思うだろうが、食事の用意は湊がしている。あまり凝ったものを作らず一品料理が多いのは湊らしいとも言える。
その日も湊が作った炒飯とスープを食べている恒一は、しかし普段より無口だった。湊から見ると顔色もあまり良くないように見える。
「どっか悪いの?」
スプーン片手にぼんやりとしていたところに声をかけられて、恒一はハッとして意識を湊に向けた。
「ああ、いや……」
恒一の心のうちは完全に先ほどの暮守の報告に向いていて、咄嗟に言葉が出てこない。行方不明の恭平の、買ったばかりの車が、ラーメン屋が契約しているコインパーキングに放置されていた。おそらくラーメンを食べに行き、近くだからと興味本位であの地図の場所に立ち寄った可能性が高い。そこで何があったのか。
「日曜、恭平が来た時のことなんだけどさ……」
恒一は日曜、湊を二階に逃した後のことを話した。グローブボックスに入っていた地図、その地図にないはずの神社の地図記号と足跡のこと。それを見た時に生じた違和感も。そして恭平が行方不明なこと、車だけがラーメン屋近くに残されていたこと。
「……もっと強く止めときゃ良かった」
ため息と共に吐き出された声色も暗い。
「この後車検に行かなきゃならねぇんだけど。予約時間に間に合わなくなるわけに行かねえしな。悪いけど夕方付き合ってくれないか。あの場所を確認しに行きたい」
「どの辺り?」
なぜか聞き返してきた湊に恒一はおおよその場所を話す。湊はスプーン片手に左手で地図アプリを開き、場所を確認した。
「なんかわかるのか?」
「見る限りは何も」
期待のこもった恒一の声に少し悪いと思いつつ、湊は答えた。昔からそこに怪異があったとしても、ストリートビューだとあまりわからない事の方が多い。念のために確認した程度だ。
「車検戻ったら声かけるから、悪いけど頼むな」
「うん」
先に食事を終えた恒一は急いで階下へと降りていく。車検に限らず客の車を預かっているときは忙しない。
一人残った湊は、ひとまず食事を終えると、先日の動画をパソコンで確認することにした。
動画の編集を手伝うこともあるので、いつも湊個人のパソコンに動画を保存している。
その動画を開き、後ろの方……恒一が湊を二階へ誘導した後。その部分をゆっくり再生してみると、録画しっぱなしだった映像に、ちらりと恭平の姿と手に持っていた道路マップが映り込んでいた。
そこで再生してしばらくその道路マップを見つめていた湊はふう、と息をつく。
「こいつ、もうダメなんじゃないかな……」
もう一度静止している画面を見た湊は首を横に振る。
画像を見ただけで、それが相当まずいナニカと繋がっているのがわかるほどの存在だ。
それがなぜわざわざ地図を用意したのか、何を招き入れるつもりなのかは湊にもわからない。
ただ、用意した入り口にわざわざ依代を持って向かったのなら、なんの対策もしていない恭平が無事な可能性はかなり低かった。
古くから除霊に関わる人達だけに乖層と呼ばれる、悪霊の領域に長時間いて、無事だった人間を湊は見たことがない。
恒一はどうするだろう。今日の夕方、そこに行くなら多少の準備が必要だ。蓮にも伝えておいた方がいい。
すでに三日経っている。
現地の状況が全くわからないが、そこが乖層との接点であるならば、時間を置かない方がいいのもわかっている。恭平に猶予があるのかもうダメなのか。もしダメなら恒一は。
ぐるぐる回る思考にイライラしながら、湊はスマホを手に取り蓮を呼び出した。
留守電だった。
「クソ社長、使えない……」
普段散々世話になっていることなど棚に上げて、蓮の多忙を呪う湊。
「どうしよう……」
単独で乖層に入るのはそれなりに危険がある。
何よりそこに行くまでの手段がない。恒一が車検から戻ってくるのを待てば済む話だが、何時に戻れるのかはわからない。だいたい今すぐ行ってもあまり期待はできない状況だ。数時間遅れたところで今更どうにもなるわけではない。
そんなこと、湊が知ったことでもない。
そう、湊は。
恒一はどう思うだろう。なんて想像するまでもない。
今でも強く止めなかったことを後悔している。もしそれで、恭平が二度と見つからなかったら、あるいは湊や恒一だけが知るどこかで悪霊に喰われているとわかっていたとしたら。
彼の性格上、ずっと自責の念に苛まれるのは目に見えている。
正直にいうと、湊は恭平のことは知っていた。恒一の交友関係の中でも特に付き合いが深い方だ。中学時代よく一緒にいたところを見ているし、卒業後も一緒に遊びに行っていたし、高校のバスケの大会の応援に行っていたのも知っている。
もし二度と会えないことになったなら、恒一は深く傷つく。間違いない。
湊はモニタの中の時計を確認した。三日経っている中の数時間早まったところで、無事な確率がたいして上がるわけでもないはずだ。
しかし、その数時間で状況が一変する可能性があることも湊は知っている。
なんで自分がこんなに悩まなくてはいけないんだ。
あのバカが、恒一が止めたのにノコノコ危険なとこに首突っ込むからだろうが。
それでも恒一が苦しんでる姿なんて見たくない。
「……クソが」
悪態をついて湊は立ち上がる。テーブルの上に置きっぱなしのマスクの箱から一枚引っ張り出して、サングラスも手に取った。大したことのない仕事道具を身につける。
以前、蝶の事件で頭をよぎったことを思い出す。何もできずに恒一にしがみついていた小学生。25歳の自分が、彼女と変わらない事実に気づいてしまった。
家どころか部屋のドアを開けようとした時点で、すでに心臓が早鐘を打ち鳴らす。ここからリビングに出て、工場とは反対側の居住区玄関へ。それは別に大変なことではない。蓮に呼び出されて何度も通っている通路だ。
でも、今日は違う。
玄関を出た後は未知の世界だ。
いや待て、そもそも中学までは何度も歩いていた町だ、未知なんてことはあるわけない。大袈裟に言っているんじゃない、と自分を鼓舞してみる。あまり効果は見られない。
部屋のドアノブに手をかけ、湊は大きく息を吸った。
恒一の家は、鏃自動車工業の二階にある。二階からは、工場に降りる出入り口とは別に居住区に直接出入りできる玄関が工場の裏側にあり、そこから出ると寶積寺の裏手に出ることができる。そのまま裏を回ると寺の隣にある蓮の家——寶積コンサルティングの事務所に出られるという配置だ。
湊は、工場の表には回らず、そのまま寶積寺の門から通りへと……出る前に、門の影からキョロキョロと辺りを見回した。
人気のないことを確認し、そろそろと歩き出そうとして。目的地への道のりがよくわからないことに気づく。
……チッ。
ここまで必死に来た(およそ30m)というのに、出鼻を挫かれた。
門の影でスマホを取り出し、先ほど恒一と確認した場所を目的地に設定し、経路を確認する。
公共交通機関、ものすごく遠回り。
徒歩三十分。
やっぱりやめよう。
湊の頭にそんな言葉がよぎる。
ぎゅっと目をつぶって首を横に振る。
きっと間に合わない。
でも万が一、なんらかしらの理由でまだ生きていたら。
傷つくのは恒一で、そうなれば後悔するのは自分だ。
湊は、何年振りか覚えていないほど久しぶりに、自分の足で門の外へと一歩を踏み出したのだった。
昔は街道として賑わっていたらしい県道を、湊は身を屈めるようにビクビクとしながら歩いていた。
湊は中学時代から恒一の家に入り浸っていた。まだその家からそう離れていないこの通りは、その頃何度も歩いた道ではある。しかし、それは遠い記憶だ。外出する時は誰かの車、そもそもがほとんど外出しない。朧げな記憶と地図アプリのルート案内がなければすぐにでも迷子になりそうである。
人がいなければいいと思いながら、なるべく端の方を湊は歩いた。電柱があればそれと民家のブロック塀の間に潜り込む。そうやって進むうちに、向こうの角から誰かが曲がってきた!
暑さとは別の汗が吹き出した湊は、しかしその人物を思わず凝視してしまった。
体型からおそらく女性だろうその人物は、ある意味では湊とよく似た格好をしていた。
サンバイザーを被り、大きめのサングラスに口元から首元までを覆う布。
少し艶のある長袖の上着に手袋をしていて、日傘をさしている。
似たような格好でも、湊より肌の露出は少ない。
背筋を伸ばして颯爽と歩くその女性とすれ違いそうになって、湊はまた電柱の影に逃げ込んだ。
振り返って女性の後ろ姿を見送り、こちらは露出している自分の手を見つめた。
「手袋もあった方がいいかな……」
気にするのはそこじゃない、とツッコミを入れる人間はどこにもいなかった。
途中遭遇した人間、十三名。全員地獄に堕ちればいいなどと理不尽なことを考えながら、湊はそうやって本人としては人目を避け、ハタから見れば明らかに不審な移動を続け、通報されることもなく現地に到着できたのだった。
驚くべき快挙である。
普通に歩けば三十分の道のりを四十五分かけたとしても、快挙である。
現地の電柱と民家の塀の間に挟まって、湊は鳥居が書いてあったという場所を眺めてた。サングラス越しの湊の目にも何も写ってはいない。しかし、一度目を閉じて再び開いた時、湊は鳥居の前……というより端に立っていた。
慣れた仕草でずっと装着していたイヤホンを片方外すと、足元——電柱の根元にポイと放る。そのままなんの躊躇もなくスタスタと鳥居をくぐり、湊の姿はこの世から消えた。
イヤホンが転がった先にもう一つ、色も形も違うイヤホンが片方転がっていたことに、湊は気づいていなかった。
鳥居をくぐった瞬間、慣れた空気に湊はホッと息をついた。
先ほどの環状線近くの生活道路ではなく、明らかにどこかの山の中にある参道であった。先ほどまで夏の暑い空気だったのに、ここはやや肌寒い。
階段があり、登った先にはまた鳥居が見えている。ここまで歩いて階段とは、と湊はややゲンナリした。
キョロキョロと周りを見回すと、スマートフォンを取り出す。アンテナが圏外であることを確認すると、音楽アプリからいつも仕事で使うダウンロード済みのプレイリストを選択した。続いてBluetoothで腰のベルトに取り付けた携帯用スピーカーに接続。誰でも一度は聞いたことのあるようなクラシックが流れ始める。
湊はもう一度軽く目を閉じて、一瞬音楽に集中した。
現実の世界では目に見えなかった湊の霊力が、音楽に乗ってふわりと光り、あたりに広がっていく。
いつも仕事でする作業だ。ほぼ何も考えずに一連の動作を
終えると、湊はスマホをポケットに放り込んで歩き出した。




