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1話「漂白」

『すべての民の繁栄と安全を。魔導工学の大国・霜嶺王国(そうれいおうこく)



***



 ――転相暦100年・凍星月1日  霜嶺王国・王都霜灯都(そうとうと)・中央広場


 マントを頭の上まで深く被ったカイエルは、白さが眩しい中央広場の群衆の中に紛れていた。周囲の人々は、老若男女を問わず、マントどころか厚手の上着すら身につけていない。軽装のまま、涼しい顔で立ち並んでいる。


 露わになった頬を、ひんやりとした空気が撫でていく。だがカイエルの肌は乾燥で荒れることもなく、瑞々しい血色を保ったままだった。


 それでも彼は、頬のあたりを爪先で無意識に掻いていた。そこにあるはずのない汚れと血の感触を、拭い去ろうとするみたいに。


 そして彼ははっとして動きを止め、マントのフードを指先でつまんで、さらに深く引き下ろした。顔がほとんど見えなくなるほど影を落としたまま、そっと顎を持ち上げて空を見た。


 雪は降っていない。いや、正確には降っているはずなのに、降っていないように見える。


 霜灯都の城壁上に設置された巨大な魔石を起点に、空には広大な青い膜が張り渡されていた。雪片が結界に触れた瞬間、白い水蒸気へと変わり、膜の表面をすべって四方へ散っていく。降雪は街に届く前に消されるのだ。


 カイエルは下唇を軽く噛み、視線を落として広場を見回した。


 広場を囲む建物は、磨き上げられた硝子(ガラス)と白い石材の外壁で統一されている。窓枠には銀の縁取りが巡らされ、どこを見ても光が反射し、まるで磨き抜かれた鏡の壁に取り囲まれているような、冷ややかな圧迫感さえあった。


 通りごとに等間隔で立つ白い街灯。その頂に埋め込まれた青い珠――霜灯(そうとう)は、真昼の光の中でも淡く点り、影の輪郭を柔らかくほどいていく。


 埃一つ、足跡一つない白い魔導タイルは、人々の歩みのたびに淡青の残光を散らし、子どもたちはその光を追いかけて笑った。


 その笑い声の上を、まず澄んだ鐘の音がひと打ち――ガララ、と滑るように通り過ぎる。続いて、広場の正面、城門の方角から角笛が短く鳴った。


 すると広場の空気が沈みはじめ、床を這う重みへと変わった。子どもの笑いも、住民の雑談も、すっと引き潮のように消えていき――残ったのは、霜灯の光が鳴らす、微かな「ザザッ……」という余韻だけだった。


 だが、その静寂はすぐに、深く響き渡る男の声によって埋められる。


「――転相暦100年。霜嶺王国は、今日この喜ばしき節目を迎えます!」


 カイエルは声のする方へ視線を上げた。王家の紋章――吠える狼を象った灰色の意匠(いしょう)が描かれた城門。その上に設けられた演壇が見える。


 演壇には、黒髪に白髪が混じる中年の男――国王が立っていた。肩に銀の縁取りをあしらった外套。純白の胸元に描かれた狼の紋が陽光を受け、宝石のように煌めいてカイエルの目を刺した。


 その右手には、同じく王家の紋を胸に(いただ)いた者たちが並ぶ。長い黒髪の若い女がひとり、そしてまだ十代に見える黒髪の少年がひとり。いずれも演壇に吹く風に身じろぎひとつせず、国王の傍らに立っていた。


 左隣には、紺の長衣を(まと)った秘書官が控えている。口元には穏やかな微笑み。声には迷いのない光が宿っていた。


 秘書官が一歩前へ出て、演説を引き継ぐ。


「100年前、世界は凍てつく不安の底へ沈みました。北方最前線に生じた転相災域(てんそうさいいき)――混沌の誕生。黒雪が空から落ち、魔物が境界を越え、誰もが明日を迎えられないと囁いた夜……」


 カイエルは拳を強く握り、視線を落として左右を見た。住民たちは、祈るように両手を組み、演壇を見上げている。何人かは涙を浮かべ、袖口で目元を拭っていた。


「ですが、我らは耐えました。霜嶺王家は退かず、霜嶺王国は折れませんでした。霜灯の(あかり)を絶やさず――王民の暮らしを最後まで守り抜いたのです」


 ――守り抜いた。その言葉が広場の中心に、澄んだ反響として残る。


 同時に、沈黙していた住民たちが、ひとり、またひとりと息を取り戻し、声を漏らした。胸の奥に詰め込んでいたものが、ようやく空気になって溢れ出すような音。


 彼らの胸元では、真っ白な記念のリボンが揺れている。転相暦100年の証。


 露店には焼き色のついたパンが積まれ、甘い砂糖菓子が並ぶ。湯気が立ち、香ばしいバターと焼き立ての小麦の匂いが、ふいにカイエルの鼻先を掠めた。魔物の血の臭い――鼻の粘膜を刺すあの腐臭よりも、いま漂う甘ったるい匂いのほうが、彼には堪えた。胃の腑がきしみ、吐き気がせり上がる。


「ご覧ください。この霜灯都を。かつて闇に怯えていた我らの都は、いまや魔導の灯で満ちています。水路は凍らず、道は滑らない。病は遠ざかり、子どもたちは冬でも走れる。交易は広がり、工房は煙を上げ、危険は王民から遠ざけられたのです」


 言葉が重なるほど、王都はよく描かれた絵になっていった。その絵の具が乾く暇もなく、演説はさらに続く。


「恐れる必要はありません。浄息具(マスク)も、隔離外套(マント)も、いまや王国の隅々まで。誰ひとり取り残されることなく、必要な方々へ広く行き渡ります――」


 ――必要な方々へ。


 その言い回しだけが、薄い氷のように滑って、カイエルの耳の奥に残った。彼は歯を食いしばる。熱を帯びた臼歯がきしみ、無意識に噛みしめた顎が小さく震える。それでも視線は、演壇の上から逸らせなかった。


 秘書官は声の調子をさらに引き上げる。


「霜嶺王家は100年のあいだ、犠牲を最小限に抑え、秩序を守り、進歩を止めませんでした。魔物の脅威はなお北方に存在します。ですが我々はいまや、あらゆる事態に完全に備え、対処し――すべての王民を守り抜きます」


 最小限に。すべて。守り抜く。


 その言葉の一つひとつが、魔物の鋭い爪のようにカイエルの胸の奥を引っかいた。


「そして――皆さん。忘れてはならないことがあります」


 秘書官がほんの一瞬、呼吸を整える。広場もまた、息を呑んだ。


「我らの平和は祈りではなく、努力で築かれました。霜嶺王家はいまこの瞬間も、王民が安らかに眠れるよう、全力を尽くしています」


 秘書官は笑みを深め、最後の祝辞を高らかに告げた。


「転相暦100年。霜嶺王国は選び続けます。守るべきものを。残すべき未来を。霜灯都の光が消えない限り、我らの文明は揺らぎません。――国王陛下万歳。霜嶺王家に栄光を。霜嶺王国に繁栄を!」

「万歳!!」


 群衆が応えた。波のように揃った声。霜灯がそれを受け、硝子の外壁へ跳ね返し、広場は一瞬、昼より明るくなった。影という影をすべて消し去るような、暴力的で真っ白な光。


 国王はゆっくりと手を上げる。慈愛の所作。落ち着いた微笑み。完璧な統治の顔。


 カイエルは、国王が手を上げる瞬間に合わせて、舌打ちをひとつ強く打った。しかしその音は音にすらならない。群衆の歓声に押し潰され、瞬く間に地の底へ沈んでいくだけだった。


 霜灯都は今日も眩しく、清潔で、平和だった。

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