2話「相克」
王城の内側には、外の冷えた空気とは別の匂いが漂っていた。寒さを追い払う温かさではない。肺の奥まで染み込み、固まったものをゆっくり溶かしていく整えられた温気だ。
床を覆う魔導タイルが淡い熱を抱え、ブーツの底にこびりついた霜が、すうっとほどけていく。天井近くには霜灯が低い光で列をなし、その光が大理石の肌理をやわらかく撫でて、廊下をいっそう清潔な場所に見せていた。
カイエルは迷いなくその廊下を進む。あちこち擦り切れ、裂けた赤褐色の革衣の上から、真っ白な隔離外套を重ねたまま。
そのとき、廊下の脇から淡い茶髪の中年男が、慌てて追いすがってきた。王室の侍従長だ。膝下まで垂れる紺の長衣。肩から胸へ流れる銀糸の控えめな文様。
その貴やかな装いとは裏腹に、彼は走りながらも背筋をまっすぐ伸ばせない。走ること自体が礼に反する行いであるかのように、半ば腰を折った姿勢のまま、こわばった足取りで追いかけてくる。
「カイエル王子殿下、突然のご来訪は……! 正式な拝謁の手順を踏まねばなりません。本日は――」
「退け」
カイエルの返答は短い。刃のように。
侍従長はなお言い募ろうとしたが、カイエルの身なり――外套の裾に滲む水気、縫い目の裂けた革衣の隙間から覗く色の悪い染みを目にして、口を閉じた。
ほどなくして侍従長の背後から、金髪と銀髪の侍女たちが小走りに追いつく。灰白のロングドレス。裾をわずかに持ち上げる手は手袋に至るまで清潔で、足音はほとんどしない。
彼女たちは息を合わせるように静かに動き、侍従長の脇へ並んだ。目を伏せ、頭を垂れて。
カイエルは彼らを一瞥し、すぐ視線を前へ戻した。前へ。ただ前へ。
こつ、こつ。
整った足音の果てで、廊下は行き止まりに突き当たる。狼の紋章が刻まれた巨大な金属扉。
その前に、白い甲冑を纏った巨躯の騎士が二人、道を塞いでいた。王室近衛。銀の意匠が打たれた胸当てに、霜嶺王家の象徴が光を受けて冷たく瞬いた。
先頭の近衛が、膝を折るように頭を下げる。礼は正確だ。だが、足は一寸たりとも退かない。
「第一王子殿下。拝謁の命は下っておりません。ここから先は――」
カイエルは言葉を終えさせる前に、鋭く見上げて遮った。
「下がれ」
その瞬間、近衛たちの手が同時に柄へ伸びた。刃は抜かれない。だが無言のまま、扉の前を完全に塞ぐ。
廊下は静まり返った。背後で侍従長と侍女たちの荒い呼吸だけが、細い糸のように空間を満たす。
カイエルもまた、ゆっくりと鞘の上へ手を置いた。
そのとき。扉の向こうから、低く、それでいて揺れのない男の声が響いた。
「入れ」
近衛は柄から手を離し、後ろへ退いて扉の左右へ割れた。道が開く。
カイエルは扉に両手を当て、押し開けた。
ギ、ギギギ……
重い金属が擦れる音とともに、扉の奥が露わになる。
整然さが空気のように敷き詰められた、王の間。床は白い大理石だが、ただの白ではない。砕けた氷の粉を思わせる銀の微粒が筋を描き、血脈となって床一面を走っていた。
壁の一面には巨大な窓があり、外の都が一望できる。霜灯都――半透明の光が街路を整え、白い屋根と窓が澄んだ空の色を反射して、室内の隅々まで満たしている。なのに、眩しさはない。まるで光量そのものが調律されているかのようだった。
部屋の片側には巨大な書架――記録の壁が並ぶ。革表紙の帳簿が色ごとに整列し、合間には薄い金属板が差し込まれている。
そして中央には、長く伸びる執務机。机上にはインク壺と数枚の紙があり、その脇に、塵ひとつない真白な黒雪検知粉の入った細いガラス管が置かれていた。
王は机の向こうに座っていた。
演説のときのような華やかな王冠はない。その代わり、襟元には狼の徽章が留められている。陽光を吸い込むようにきらめく、小さく正確な権威。
王はカイエルを見たまま、ゆっくり指先を動かす。手にしているのは、青い魔石がはめ込まれた丸い時計――魔力石時計。
表情は変わらない。秒針の音だけが、やけに明瞭だった。
「カイエル。戻ったか」
カイエルは数歩進み、机から五歩の距離で片膝をついた。右腕を直角に折って膝へ置き、頭を下げる。その所作は、刃物で線を引いたみたいに端正で、角ばっていた。
「陛下。北は……もう、長くはもちません」
王は一度、まばたきというより、短く目を閉じて開いた。
「それで、何を言いに来た」
カイエルは息を整え、口を開いた。
「浄化石という存在を、ご存じでしょうか」
王は時計に視線を据えたまま、砂を噛むような声で答える。
「知っておる。黒雪の穢れを祓うという、得体の知れぬ石よ。……その話くらいは、とうに聞き及んでいる」
カイエルの右拳が、膝の上でゆっくり固くなる。しばしの沈黙ののち、彼は口を開いた。
「今からでも遅くありません。王国軍を積極的に北へ派遣し、浄化石を確保してください。そして北部の生活圏を再建すべきです」
返事はすぐには来なかった。沈黙だけが続く。王の指先で揺れる時計の秒針が、ちく、ちく、と乾いた音で部屋を満たしていく。
やがて王が口を開いた。先ほどとは違う、柔らかな声。だが柔らかいぶん、芯が硬い。
「くだらぬ傭兵稼業を捨て、ようやく分別がついたかと思ったが……。確証もない浄化石のために、黒境線の外へ王国軍を投じるつもりはない」
「陛下……!」
カイエルの声が一段、高くなる。
「この五年で、地図から消えた少数部族の集落がいくつあるか、ご存じですか。いつまで、彼らを見捨てるおつもりです!」
それでも王は揺れない。同じ調子のまま、言葉を重ねる。
「見捨てた覚えなどない。より多くの民を生かすため、最善の一手を選び続けてきた――それだけだ。お前も分かっていよう。霜嶺王国は魔導工学によって立つ国。資源も食糧も乏しい我らが、王都の発展以外に力を投じる余裕などない」
カイエルは下唇を強く噛み、ただ黙っていた。そんな彼に視線すら向けず、王は深く息を吐き、さらに続けた。
「南と西には、常にこちらを窺う国がある。……そんな状況で、価値の薄い、ただの氷塊にすぎぬ北に、構っている余裕はない」
「ですが、陛下!」
理性で押さえ込んでいたものが、カイエルの喉を破って溢れ出す。声が鋭くなる。
「年を追うごとに黒雪の発生頻度は増えています! 去年だけで五度。しかも被害範囲は拡大している。それでも北は価値がない――そうお考えですか!」
そのとき初めて、王は手の中の時計を、音が立つほど強く机に置いた。そして、ほんのわずかに声を上げる。
「……それでもなお、北に価値はない。大義のための小の犠牲は不可避。いつまで偽善者の真似事を続けるつもりだ、カイエル」
王の視線が、真正面からカイエルを貫いた。その眼差しは、胸の奥深くを巨蛇のように締め上げてくる。
カイエルは一瞬だけ眉をひそめ、無言で立ち上がった。マントのフードを深く引き下ろし、顔を影に沈めて王に背を向けた。
――どん、どん。
わざと大きく響かせる足音で、部屋を出ていく。
巨大な鉄扉に手を掛けた。
バン――!
扉が叩き開けられ、整えられた部屋の空気が押し戻される。それでもカイエルは一度も振り返らず、廊下の闇へ消えていった。




