0話「黒雪」
『誰かの犠牲という養分なしに咲く花など、この世には存在しない』
***
――転相暦95年・凍星月1日 音さえ凍てつく、荒涼たる雪原のどこか。
灰色の雪が夜明けの空を覆い尽くし、烈しい風に乗って無数の礫となって降り注いでいた。
その雪原のただ中に、黒髪の屈強な青年――カイエルが立っている。濡れた髪は額や頬に張りつき、刺すようにあちこちを突いた。雪の塊に混じって氷粒まで叩きつけられ、赤褐色の革衣の上に真っ白な厚手のマントを重ねているというのに、肩が小刻みに揺れるのを止められない。
針葉樹の合間で風がぶつかり合い、まるで巨大な獣が咆哮するような音を立てる。冷気は衣服を貫いて肌に粘りつき、指の節々から感覚を奪っていった。
それでもカイエルは、両手の黒い革手袋で、赤黒い血にべっとり濡れ、粘るように滴るロングソードだけを固く握り、重心を低く落として構え続けていた。
呼吸に合わせ、円筒状の浄化筒が付いた黒いマスクの隙間から、白い息が立っては消える。
ほどなくして、彼の前方に影が現れた。
三メートルはあろうかという巨体。幾重にも墨を塗り重ねたような漆黒の体毛に覆われた、熊の姿をした魔物だ。
魔物は躊躇なく巨大な両前脚を持ち上げ、カイエルめがけて叩きつけにかかった。
爪先が頭上に届くか届かないか――その瞬間まで、カイエルは姿勢を崩さない。
次の刹那、身体ごと剣を捻り、軌道を滑らせた。狙いは右前脚。爪と爪の隙間を縫うように、鋭い線が走る。
――――!
両前脚が地に突き刺さった瞬間、轟音は雪に呑まれて掻き消えた。代わりに周囲の雪が四方へ弾け、視界は一瞬、白い瀑布に塗りつぶされる。だが、その白の中でカイエルの身体が淡い青に染まりはじめた。
麻痺したように鈍っていた全身に、じわりと熱が巡る。次の瞬間、膝まで埋もれて一歩も動けないはずの脚で地を蹴り、彼は空へ回転しながら舞い上がった。
遅れて白い瀑布が落ち着く。空中にいるカイエルを捉えた魔物は、前脚を持ち上げようとした。しかし、持ち上がったのは前脚ではない。肘の先から見事に切断された自分の肘だった。黒く濁った血が腐ったタールのように粘って糸を引き、断面からとろりと落ちていく。
「グアアアアアッ!」
魔物が咆哮する。その叫びに重ねるように、カイエルは奴の目に貼りつく距離まで落ち、刃を深く突き立てた。
――ズガァンッ!
骨を砕く、重く湿った衝撃音。
そのまま剣を引き抜き、頭上から降り立つと、魔物は糸の切れた操り人形のように雪へ崩れ落ちた。
カイエルは静かに剣を見下ろし、わずかに眉をひそめた。
剣はもはや剣と呼ぶのもためらわれるほど深い赤に染まり、同時に湿った腐臭が漂った。水に濡れたまま長く放置された枯れ草のような、むっとする臭い。
刃に付いた血を周囲の雪で拭い落とし、懐から小さな瓶をひとつ取り出す。中には雪のように白い粉が入っている。しかし、ほどなくしてそれは灰色に染まり始め、やがて黒みを帯びていった。
瓶を見つめ、カイエルは短く舌打ちする。
そして、魔物の骸から背を向けたとき――吹雪を突っ切って、同じような装いでマスクをつけた別の男が近づいてきた。背丈は一七五ほど。茶色のポニーテールが風に煽られ、雪にまみれながら揺れている。
「カイエル様。ひとまず、住民の大半は避難を完了しました」
「ああ、レン。……霜布幕は、全部設置したか?」
「はい……手持ちの分はすべて張りましたが、圧倒的に足りません」
「……やはり、か」
カイエルは一度、深く頭を垂れてから顔を上げた。するとレンが彼の手を掴み、強く引き寄せる。
「それより、早く移動しましょう。遮断杭も、もう三本目が破損しています。長くは保ちません」
「……わかった。急ぐぞ」
そうして二人は雪を踏みしめながら、重く、だが確かな速さで、一つの方向へ歩き出した。
「急げ!」
カイエルの怒号は嵐に引き裂かれ、粉々に散った。
二人は吹雪を割って、死にもの狂いで駆けた。肺が凍りつき、裂けてしまいそうでも、止まれない。背後から世界が咀嚼されていくような音が、執拗に追いすがってくる。
ほどなくして、視界の端に小屋が寄り集まった集落が迫った。家というより、雪の中に埋め込まれた墓標の群れだ。
一部の小屋に張られた白い布――霜布幕は、風に翻るたび悲鳴を上げた。すでに半ば剥がれ、今にも千切れて飛びそうだった。
そして集落の中央、狭い空き地。そこに彼らがいた。
杖に体重を預け、風に抗う細い背中。顔はどれも若く、十代、せいぜい二十代前半。頬にはそれぞれ違う色の雫模様が描かれ、髪色も青、黄、緑……とりどりに揺れている。
寒さに肩をすぼめた背中の奥で、飛べないほど小さな翼が、布切れのように惨めに震えていた。空を目指すためではない。ただ、この大地に縛りつけられ、ここで朽ちるために生えたのだとでも言うように。
カイエルはその輪へ踏み込み、白髪の小柄な女へ掴みかかる勢いで詰め寄った。
「長老、何をしている! 早く退避しないのか!」
長老と呼ばれた女は、村の外縁に沿って円を描くように立つ、三メートルほどの柱を指さした。柱の上部には青い灯が宿り、今にも息絶えそうに明滅している。いくつかはすでに光を失い、砕け落ちていた。
彼女はぎこちなく口角を上げる。震える唇が、やっと言葉を形にした。
「……もう、長くはもちません。黒雪がすぐに来ます。私たちができる限り、風の流れを変えますから……傭兵の皆さんも、どうか早く避難を……」
「何を言って……! 霜布幕の中に逃げ込めば――」
言い終える前に、レンがカイエルの肩を掴んで制した。カイエルは歯を食いしばり、拳を固めたまま黙する。
長老が、静かに続ける。
「最後まで、私たち冠翼族のために尽くしてくださって……本当に、ありがとうございました。――さあ、お二人も中へ。早く」
カイエルがゆっくり視線を巡らせると、冠翼族たちは長老と同じように、背筋を伸ばして小さく笑うだけだった。震えているのは、杖を握りしめた両手だけ。
彼らを背に、数歩踏み出したところで、カイエルはふと足を止めた。輪の中に、ひどく小さな影がある。自分の腰にも届かない背丈の、エメラルド色の髪をした幼い少女だった。
「……この子は、なぜここにいる。子どもは全員、避難したはずだろう」
長老はすぐに振り返り、上唇をかすかに噛んだ。そして視線を逸らしながら口を開く。
「……その子は――」
言葉が終わるより早く。
――パリンッ!
ぎりぎりで明滅していた遮断杭が、一斉に砕け散った。
次の瞬間。
ゴオオオオオオオ――
空の底が裂けるような風の唸りが落ちてきた。世界そのものが呻く音が、臓腑を掴んで揺さぶった。
カイエルが反射的に顔を上げ、空を見据える。吹雪はいっそう荒れ、さっきまで灰色だった雪が、じわじわと墨汁を垂らしたみたいに黒へ染まっていった。
やがて輪郭を失った、底の見えない漆黒の天蓋。その綻びから、黒い刃が雨のように降り注ぎはじめた。
冠翼族が一斉に叫ぶ。
「ウィンドカット!!」
その号令に応じて、黒い雨は弧を描き、ぎりぎりで村を逸れていく。だが、冠翼族たちは次々と血を吐き、膝を折った。
逸れていたはずの黒雪が、ひとひら、ふたひらと村へ落ちてくる。
「カイエル様、早く!!」
レンはマントで全身を覆い、地に伏せたまま、呆然と空を見上げているカイエルに向かって叫んだ。それに弾かれたように、カイエルははっと顎を引き、跳ねるように動く。
目の前の少女へ手を伸ばし、抱き寄せる。真っ白なマントで包み込むように覆い、身体ごと地面へ押しつけるようにしゃがみ込んだ。そして自分のマスクを外し、慎重に少女の口元へ被せる。
途端、焼きごてを押し込まれたような灼熱が、喉から肺の奥まで焼き抜いた。
「ゴホッ……!」
口元を押さえて咳き込むカイエルの顔を、少女は目を丸くして、じっと見つめていた。彼の頬は血の気を失い、青に近い。噛みしめた歯は、かちかちと震えて上下にぶつかっていた。
「大丈夫だ……少し、耐えれば……収まるから……」
そう囁くと、少女は小さな両手を伸ばし、そっと彼の頬に触れた。冷たく凍りついていた皮膚へ、焚き火みたいな温もりが静かに流れ込む。すると不思議と、頬に少しずつ血色が戻り、咳もまた、少しずつ鎮まっていった。
黒雪が荒れ狂う闇の中で、二人は呼吸を殺し、同じ姿勢のまま――ただ数分、伏していることしかできなかった。
***
「カイエル様! カイエル様!」
どれほど経ったのか。正面から聞こえたレンの声に、カイエルは慎重に目を開いた。マントを持ち上げ、ゆっくりと身体を起こす。
周囲は、世界そのものが黒い泥で塗り潰されたかのように、闇へ沈んでいた。
真っ白だった霜布幕は闇に色を奪われ、裂け目からだらりと垂れている。レンのマントは黒く溶け崩れて絡みつき、元の形すら判別できないほど無残に腐食していた。
霜布幕の張られていなかった小屋は、初めから存在しなかったみたいに跡形もなく消え、そこには平たく広がる虚無だけが横たわっていた。
「……俺は、大丈夫だ」
そう言った直後、カイエルは「ゴホッ、ゴホッ」と肺の奥から何かを絞り出すように咳き込み、ふらついて片膝を地面に突いた。口元を覆った手袋には、赤い粘液がべっとりと付着していた。
「カイエル様、浄息具は……!」
レンが駆け寄る。視線の先には、カイエルのマスクをつけたまま立っている、小さな冠翼族の少女。彼はその姿をひと目見ると、小さく息を吐き、カイエルの肩を支えて立たせた。
「……また、そんな無茶を。ほんとに死ぬかもしれないんですよ。まずは自分のことを考えてください」
「平気だ。この程度なら、まだ第一段階だ」
ふらつきながらレンを支えに立ち上がったカイエルは、背後を振り返る。
そこには、何もない。距離感さえ失うほど黒く沈んだ闇の深海が、底知れず広がっているだけだった。けれど、雲ひとつない青空から、白い雪がひとひら、ふたひらと降り始める。
深海の奥で、純白の氷の花がひらき、黒はゆっくりと薄まっていく。まるで、世界の傷跡を包帯で隠すかのように。あるいは、惨劇そのものを無かったことにして、白い画布へ塗り直していくかのように。
「レン。この子も連れて、残っている生存者の退避準備を頼む。俺は……少ししたら合流する」
レンは口を開きかけ、何かを飲み込むように閉じた。そして低く、ひと言だけ返す。
「……はい」
レンが少女を連れて残った小屋の方へ向かっても、カイエルはしばらく動かなかった。
右手の手袋を静かに外し、前へ差し出す。視線は空へ。
掌に落ちてくる雪は、骨の奥まで痺れさせるほど冷たい。それをただ受け続ける。指先が赤く染まり、感覚が薄れていくのを、確かめるでもなく受け入れるように。




